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終 変わらぬ夜に



 夕食の下ごしらえを終えたタイミングで、とんとん、と玄関扉が叩かれた音が鳴った。

 エプロンを脱いで椅子の背もたれにかけて、はーい、と言いながら扉を開ける。その瞬間にひゅうと冷たい風が家に入り込んで、レナは思わず両肩を少しだけ上げてしまった。


「いらっしゃい。今日はいつもより遅かったね」

「貴族達は社交界のシーズンだからな。今回は明け方まで予約で埋まってたんだ」

「社交界の……大変な時期なのね。お疲れ様」

「レナこそ。休めたか?」

「うん。ゆっくりしてたよ」


 パンの良い香りを漂わせる紙袋を片手に、ティッジは説明しながら後ろ手で玄関扉を閉めた。

 今日はレナが全休日の日だ。ティッジは宿直明けの休日で、少々の仮眠をとってからレナの家に早めの夕食を一緒にとろうと約束していた。その後は最終便の乗合馬車で帰る予定で、二人にとってはいつもと変らない夜の過ごし方の一つになっていた。


 ティッジから夕飯で食べるパンの入った紙袋を受け取る。

 レナがティッジのアパートで過ごす事に慣れているのと同様に、ティッジも泊まった事は無いとはいえレナの家の勝手は既に熟知している。外套を脱いで壁掛けに引っかけて、同様に帽子も脱いで掛ける姿を、レナはジッと見つめていた。

 紙袋を受け取ったまま動かないレナの視線に気付いたティッジは、不思議そうにレナを見下ろしている。


「レナ? どうした」

「去年、ティッジは路線変更で忙しいとは言ってたけど。毎年この時期は社交界シーズンで常に忙しいんでしょう? 去年は、かなり無理をして私と会ってくれてたのね。今なら分かるわ」

「無理はしてなかった」

「本当に? 今だって顔が疲れてる」

「顔? そうか?」

「うん。来てくれるのは嬉しいけど、無茶しないでちゃんと相談して」


 真剣に伝えたのだが、話を聞いたティッジは何度か細い金色の瞳を瞬かせたかと思うと優しく微笑んでくる。なぜ微笑まれるかが分からずにいたら、追うようにティッジは上半身を屈ませてくる。触れるだけの優しいキスを落とされていた。


「無茶をするのはいつもレナだ」


 唇は離れるが、しかし顔はとても近い。


「俺はレナに会いたい。仮眠もとって来てる。心配するな」

「……心配しないなんて無理に決まってるでしょう」

「会いたくなかったか?」


 会いたいに決まっている。

 返事につまり、レナがきゅっと唇を引き結んで「ううん」と言うと、ティッジはもう一度硬く閉じられたレナの唇にキスをした。やはり触れるだけで、少しだけ長く触れ合って、静かに離れていく。ティッジは何事も無かったかのように微笑みを消してしまうと、紅茶を淹れるか、と早速キッチンに向かってしまう。

 うん、と返事をしながら、どくりと胸が嫌な感覚で鳴っている事に気がついてしまう。最近いつもだ。ティッジにキスをされたり、手をつないだり、抱きしめられた時。


 たまらなく幸せで、同時にとても怖くなってしまう。






 紅茶を淹れて一息つき、互いに会わなかった時にあった日々の出来事や仕事の事などを話し合う。その後はゆっくりと一緒の夕食の準備をして、ティッジが買ってきてくれたパンも並べて、共に夕食をとる。

 お喋りする時間も、黙々と食事や料理や家事をして過ごす時間も。全ての時間がレナにとっては心地良かった。ホッとして、落ち着く。会う予定がなかなか合わず日が空いてしまうと、慣れている筈の一人の時間がとても寂しくなってしまう程に。


 ゆったりと過ごした筈なのに、帰宅の時間はあっという間にやってくる。ティッジと一緒に過ごしている時だけ、時間の流れがいつもおかしく感じてしまう。


 言わないと。

 ティッジにちゃんと、伝えなければ。




「もうすぐ一年だな」

「!」


 心を読まれた? と疑ってしまいそうになる。

 キッチン台を拭いていたレナが驚いて振り返ると、ティッジはダイニングテーブルをちょうど拭き終わったタイミングらしく、ずらしていた一輪挿しの花瓶をことりとテーブルの中央に置いていた。


「俺と結婚は出来そうか?」

「……」

「……無理か」


 仕事はどうだった、と聞く時と同じ口調で聞かれてしまい、レナは我が耳を疑った。日常のささやかな出来事ではない。お互いの人生が大きく変わってしまうような話なのに、そんな風に軽やかに聞かれてしまうなんて。

 硬直するレナに構わず、ティッジはダイニングテーブルを拭いた布を洗い直して干すと、もう一度手を軽く洗って手拭きで水を拭っている。不自然なほどにあまりにも淡々と平然とした様子のティッジの姿に、やっとレナは違和感の正体に気がついた。


 ティッジはレナに尋ねながらも答えは既に結論づけていたに違いない。結婚という選択は出来そうにないのだろう、と。


 キッチン台を拭くのを止めて動く事が出来ずにいるレナに構わない様子で、ティッジは足早に玄関へと向かってしまう。外套を手に取ったティッジは内ポケットから何かを取り出した後、もう一度その外套を元の場所に掛け直す。

 ティッジは自身の右手におさまる小さな箱を少し眺め、ぎゅっと顰め面を浮かべると、そのままキッチンで立ち尽くしていたレナへと歩み寄った。


「これを」


 差し出されたのは、濃紺色の布地に真白のリボンが巻かれた小箱。


「ティッジ? これ……」

「受け取ってくれ」


 こんなにも鬼気迫ったような怖い表情のティッジは見たのはレナは久しぶりだった。そしてよく知っている。この表情を浮かべている時の彼は、とても緊張している時。


「開けても良いの?」

「ああ」


 小箱を受け取って、真白のリボンを丁寧に解く。

 箱を開けたその中にあったのは、クロッカスの花のデザインの可憐なブローチだった。

 レナは言葉が出なかった。呼吸も忘れそうになっていた事に気付き、慌ててこくりと息を呑むと、小さく震えている右手で静かにブローチを手に取って、まじまじと眺めてしまった。


「最初は鳥のブローチにしようとした。よくつけている小鳥のブローチはレナのお母さんの形見だが、デザインも気に入っていると言ってただろう?」


 そこまで言うと、ティッジは顰め面をわずかに緩ませる。

 申し訳なさそうに少しだけ下がった眉に、レナの心は騒がしい程に暴れていた。


「だが、いくらデザインが好みでもやめようと思った。あと二つのブローチも兎と猫だっただろう。生き物のデザインのブローチは、レナとレナのお母さんの特別な物であって欲しかった」

「……約束は?」


 我慢が限界を超えた。

 信じられない勢いで涙が込み上げて、ぼろりと大きな雫となってこぼれ落ちる。泣いては駄目と、言い聞かせても溢れてくる。レナは深くうつむいた。左手の小箱と右手のブローチを抱きしめて。


 お菓子、インク、お酒、石鹸――


 二人が贈り物をしあう時は、いつかそれが必ず手元から消えるモノばかりだった。理由があった。レナが望んだからだ。

 結婚願望が最初から強く、それなのにレナが望むのならばずっと恋人で良い、しかしいつか絶対に結婚したいと思わせてみせると豪語していたティッジ。しかしレナは違う。一年前のレナはどんなにティッジの事が好きでも結婚願望が無く、この交際はティッジにとって無意味で時間の無駄になると本気で思っていたのだ。


 レナは心の片隅に思っていた。

 見ている未来が違う自分達はきっといつか限界が来て別れが訪れると。


 交際したら必ず贈り物をする機会がある。手元に残るものは、レナにとっては残酷なのだ。いつか別れてしまう二人には別れた時に何も残らないモノの方が良い。レナはティッジに、交際する上でこれだけは約束して欲しいと唯一願った事が、贈り物の事だった。


「もちろん、忘れてない」


 ティッジの返事は冷静だった。

 大泣きしている顔を見られたくなくてうつむいていたが、ティッジの大きな両手の手のひらがレナの顔を包み込む。導かれるように上向かされて視線が絡まると、涙に濡れたぐちゃぐちゃの酷い顔のレナと、申し訳なさそうなティッジの表情が向き合った。


「忘れてないが約束を破った。すまない」

「すまないなんて、」

「思ってる。でもどうしても贈りたかった」

「なんで……」

「レナに似合うと思ったんだ」

「……」

「一年前、俺はレナが思ってる程誠実じゃないと言っただろう。事実、こうしてレナの願い事の約束を守らずに贈り物をしている。だから、やっぱりこの男は不誠実だと思ってくれて良いんだ」


 顔を強く左右に振ってしまう。

 ティッジの両手がわずかに顔から離れる。その隙に離れようとしたが、あっという間にティッジの腕が身体に回ってきて、そのまま抱き寄せられてしまった。抵抗したくて動きたくても、ティッジの腕力には叶わない。びくとも動かない自分の身体。


 抵抗する気力を失ったレナは、今までの動きとは正反対にティッジの胸に強く顔を押し付けていた。ぼろぼろと止まらない涙の事を考える事も出来ずに。ティッジのシャツがレナの涙で濡れていく。それでも構ってはいられなかった。


「今日、絶対に言うって決めていたのに。伝える前に、こんな」

「レナ?」


 ティッジの声に緊張が滲んでいた。

 抱きしめられる両腕にわずかに力が込められた事が分かって、レナはますます苦しくなった。身体も呼吸も、心も。

 想いが溢れて止まらなかった。



「もしも一年前と気持ちが変わっていなければ、私と結婚してください、って。ちゃんと伝えるつもりで……!」



 沢山悩んだ。

 ここ一ヶ月はとにかく酷い有様だった。仕事が忙しくないと、それ以外の事はずっとティッジとの今後の事ばかりを考えた。もう嫌、という程自分の乱れっぱなしの心と向き合った。


「ずっと怖かった。結婚して夫婦となって家庭を築くという事が。自分には無理で、縁の無い話だって思ってた。どうしてそんな風にしか考えられなくなったのかが、最近やっと分かったの。向き合う事が怖くて逃げてた……」


 言葉はずっと震えている。

 しかし今言っておかなければ、もう二度と言葉には出来そうに無い。それ程までにレナの感情はいっぱいいっぱいだった。

 ティッジは何も話さない。ただ力強くレナを自分の腕に抱きしめたまま。


「自分の結婚を考えると、必ず母と父の事が思い浮かんでいたの。あんなに幸せそうで仲が良かった両親が、二人ともほとんど同じ時期に亡くなってしまって。もう昔の事なのに、でもどうしても悲しくてたまらなかった。両親は私とマークとサラサの事を愛してくれていた、本当に素敵な……大好きな両親で……」


 レナの脳裏には肩を寄せ合う母と父の姿が浮かんでいた。

 お互いを深く想い合い愛し合っていた両親。レナにとっての憧れの夫婦でもあった。


「私と両親は違うと分かってる。歩む人生は別なんだ、って。それでも怖かった。想像してしまっていたの。結婚して家庭を築いて幸せに暮らしたとしても、突然失う日の事ばかりを考えるようになってた。考え出したら止まらなくて……未来はどうなるかなんて、何も分からないのに。失う悲しみをもう二度と味わいたくない、それなら最初から無ければ良いんだ、って……極端で悲観的に考えてしまってた。……どうしても前向きになれなかった……」


 途切れがちでも初めてはっきりと言葉に出していくと、心の暴走は少しずつ冷静さを取り戻していっているのを感じていた。

 何も言わず、ただ強く抱きしめてくれたまま、静かに話に耳を傾けてくれるティッジの体温と香りは、確実にレナの乱れていた心を癒やしてくれていた。


「……違う。ティッジ。私が本当に伝えたいのは……」


 今流している涙と、ブローチを貰った時に流れた涙の意味は別物だ。


 レナはやっと自覚した。

 今初めて、両親を偲んで本気で泣いている。

 亡くなった時は涙が出なかった。泣いてはいけない、と思ったからだ。しっかり者の親代わりの長女。そうあらなければいけないし、そうでありたい、と思っていた。

 けれどその役目は、もう終わったのだ。

 マークとサラサが常々言ってくれていた言葉を思い出す。自分自身の事をちゃんと考えて、と。両親はきっとずっとハラハラとしていたのだと思う。むしろ一番自分が両親に心配をかけてしまった存在だったのかもしれない。


 両親、弟妹。

 レナにとって何よりも大切な存在。

 悲しませたり、心配させたくはない人達。

 今も変らない。



 けれど、レナにとって今、本当に何よりも大切な存在である人は。


 

「ブローチ、ありがとう。すごく嬉しい。私の心が弱すぎて、臆病者で我が儘だから。ずっと迷惑をかけてしまってごめんなさい。私は、許してくれるのなら、これからもずっとティッジの傍にいたい。結婚して妻として、ティッジを支えたい。……ずっと一緒にいたい」


 突然、レナを抱きしめたままティッジの両膝は崩れ落ちた。

 二人はそのまま床に座り込んだ体勢になったが、ティッジはやはりレナを離さない。どうして良いか分からずにいたら、レナの首筋に顔を寄せていたティッジはゆっくりと顔を上げた。


 険しい表情を浮かべているティッジの金色の瞳が潤んでいる。

 左目から小さな雫が膨れて、そのまま頬を伝って静かに流れ落ちる様子を、レナは息を呑んで見つめていた。


「レナを臆病者で我が儘だと思った事はない。ご両親とマークとサラサさんをいつも想って大切にしている、愛情深いレナの全てが好きなんだ」


 おそらくなぜ涙が流れているかも本人は分かっていないのでは、と思う程に、ティッジの表情はとても柔らかいのに真剣で、けど穏やかにレナを見つめている。

 身体から両腕を離したティッジは、レナの右手に握られたままだったブローチを手に取ると、レナのシャツの右襟にそれをつけた。左襟には小枝にとまった小鳥のブローチが、右襟には小さなクロッカスのブローチがついている。


「よく似合ってる」


 嬉しそうに、柔和な笑顔を浮かべるティッジの姿に、レナの心は何かが弾けたような感覚を覚えていた。抑えられない程の感情が、レナに行動をおこす勇気を与えた。


 初めて自分からティッジの唇にキスをした。


 触れるだけのキスをして顔を離すと、信じられないものを見るように、まだ涙の膜を張ったまま大きく開かれた金色の瞳と目が合った。


「愛してるわ、ティッジ」

「――レナ」


 一度離れたティッジの両腕が伸びてくる。

 そのまま強く腕の中に抱かれて、レナはティッジをそっと見上げた。


「ティッジに抱きしめられると安心する。いつもそうだった」

「いつも? すぐ逃げようとしていただろう」

「そうしないと、そのままずっと甘えてしまいそうでどうしても出来なかったの」

「……やっぱり強情だ」


 呆れたように呟くティッジはレナを見つめて優しく苦笑する。彼が目尻を下げた途端、右の瞳からぽたりと雫が落ちていた。

 涙でびしょ濡れの顔で、レナも静かに笑みを浮かべて片手を伸ばすと、ティッジの濡れた頬にそっと指先を置いた。流れ落ちた涙の跡を、指先で辿るようにゆっくりと拭っていく。



 心を満たすのは幸せと、覚悟。

 愛おしいというあたたかな感情だった。









 * 小さな世界の静かな夜に fin *


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