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14 身勝手



「今付き合っている男と結婚しないのか」


 話がある、と、いつもより十分程早い仕事の終了を店長のロックから告げられたレナは、後片付けを同僚に任せて着替えを済ませると事務室へ向かった。

 わざわざ事務室に呼び出される時は勤務日数や給料についての話だという事は決まっている。前回呼ばれたのはちょうど一年程前のため、恐らく今回も確認の話があるのだろうと思っていた。事務室は狭い。壁一面の書棚には帳簿がぎっしりと詰め込まれている。文机が置いてあり、大人三人がぎりぎり入れる程の広さしかない。


 ロックは書類に何かを記入していたが、レナが現われると「そこに座れ」と椅子が置いている場所を顎でしゃくって示してくる。言われた通りに着席した途端、開口一番に尋ねられた事にレナは面食らってしまった。


「……はっきりとは決まっていません」


 ティッジと交際している事を店長のロックに直接話した事はない。


 しかし隠していた訳でも無かった。アリスとの会話でティッジの話題が出る事はちらほらとあり、休憩室などで店長や既婚男性ばかりの同僚の前でも話していた。レナに男が!? と同僚達は皆驚いたり、おめでとう、とあっさりとしたお祝いのような言葉を貰ったりもしたが、あくまでもそれだけだ。他人の私生活に深入りも口出しもしない雰囲気が出来上がっている食堂で、レナに交際相手がいることを店長は知っている様子でも、一度も何も聞かれた事は無かった。


 レナの返事に、ペンを置いたロックは太い両腕を組むと、エプロンをつけたままの身体を文机からレナの方へと向け直す。太く凜々しい眉をぎゅっと寄せて難しい表情を浮かべていた。

 あまり見た事のないロックの表情に、レナは緊張した。


 ロックは言動の荒っぽさが目立つが、基本的には他人の私生活に口出ししない。しかし面倒見が良く困っている人を放っておけない一面がある。

 そんな彼のおかげでレナはこの食堂に勤める事が出来て、料理の腕を上げる事が出来た。私生活の事で悩み事があったとして、相談しようかしないかで迷っていても、なぜかロックは敏感にその気配を感じ取ってしまう。レナにとってロックは雇い主であると同時に、恩人でもある特別な存在だった。


「男が結婚を渋っているのか」

「いいえ。……私です」

「レナが? 不満も無いならさっさと結婚しちまえ。こどもが先に出来たら手続きやら証明やらも面倒な事になるぞ」


 ティッジと交際して間もなく一年が経とうとしている。

 こんなにも踏み込んだ事を聞かれた事は無かった。マークとサラサ以外の人には。それでも、マークとサラサは「いつ結婚するの」と手紙に毎回書いているが、こどもについては一切触れてはこなかった。レナの知らないところで二人で何か話し合った上でこどもの事を聞かないのかな、とも正直レナは思っている。


 ロックは何かを感じ取って、レナをこのまま放ってはおけない、と判断した上でこうして呼び出して聞いてきたのだ。迷いながらも支えようとしてくれている気持ちの表れは、あまりにも無遠慮で配慮の欠片も無いが、レナにはちゃんと伝わっていた。長年に渡って築き上げた関係性の上で、こうして心配してくれているのだと。

 レナは膝の上で握り合わせた両手に力を込めて目を伏せると、声を震わせないように気をつけながら口を開いた。


「こどもは絶対に出来ません」

「絶対って。あのな、」

「出来ません。()()に」

「……」


 わずかに口を開いたまま絶句した様子を見せるロックに、レナの心はばくばくと早鐘を打っていた。


 分かっていた。年齢を考慮しても、自分達のような大人が身体の関係なく一年近くも交際しているという事は、あり得ない、と思われてもおかしくはない状態である事を。


 はぁ……、と、かける言葉を完全に失ったらしいロックの深々とした大きなため息が、狭い事務室の中に広がっていた。





 *


 自分の家に帰宅したレナは外套を羽織ったまま、帽子と鞄だけを椅子の上に置くと、重い足取りで鏡台へと向かった。

 鏡台の椅子に座り、蝋燭に火を灯す。

 ふわりと小さな灯りが生まれて、鏡に映る自分を見つめると、酷く顔色の悪い女性(じぶん)がいた。疲労とは違う顔色の悪さだ。


 直視し続ける事が辛くなって目を逸らす。

 結んでいた髪を解いて髪紐を鏡台に置いた時、母の形見であるブローチとネックレスが視界に入り込んだ。ティッジと交際する前までは使う事は無く、引き出しの中にしまい込んだままにしていた物。しかし今では休日の度にどれか一つを選んで身につけるようになっていた。引き出しにしまい込むのも勿体ないと思い直し、鏡台の上にお気に入りの小さな飾り皿を置いて、その上にインテリアの意味合いも込めて置いていたのだ。


 一番のお気に入りで、初めてティッジと食事に行った時にも身につけた小枝にとまった小鳥がデザインされているブローチにそっと手を伸ばす。手のひらに置いてしばし眺めた。



 もうすぐ一年。あと一ヶ月で。

 レナ自身が密かに定めていた、決意する期限がついに迫っていた。





 ――伝えておかなければいけない事があるの


 恋人同士となって二ヶ月が経った時だ。

 互いに名前そのままで呼ぶようにもなり、距離感は確実に縮まりだして、初めてレナがティッジのアパートに訪れたその日にレナはティッジに伝えていた。


 言いづらい事で罪悪感もあったからこそ、早く伝えなければいけない、と考えたからだ。伝えた結果、始まったばかりの交際が終わってしまうかもしれないという結果も覚悟して。正直に打ち明けた。

 結婚願望を持つ事が出来ずにいる事を。

 ティッジの事を好きになり恋人になれた事はとても嬉しく思っている事もはっきりと伝えていた。しかし結婚前提の交際と認識されてしまうと、その希望には添えない、と。


「俺はレナと交際する上で結婚を切り離しては考えられない」


 ……交際は無理だわ、とレナは蒼白になりながら声を震わせて顔を横に振った。

 ティッジはやはり結婚願望があった。

 年齢的にも驚かず、彼の性格や暮らしぶりから見ても女遊びをするような人ではなく、先々を見据えずに女性と交際をする、という様子も無かったため、当然の返事だったのかもしれないと痛感してしまう。

 けれど自分はその願いに応えられない。結婚以外の事であれば何だって、ティッジの事を想って頑張れてしまうのは間違い無い。


 しかし、それでは駄目なのだ。

 レナとの交際はティッジの大切な時間を無駄にしてしまう。


「結婚の事を考えるのは事実だが、一番に望む事はレナにとって特別でありたいという事だ。それが結婚じゃなく恋人という形を望んでいると教えてくれて良かった。それならそれで良い」

「良くない。結婚願望があるという事は……家庭を。こどもも望んでいるでしょう?」

「こども? いや、こどもが欲しいから結婚を考えるんじゃない。生涯をかけて大切にしたいと想う相手は、交際相手ではなく夫婦という関係で守りたいと考えている。だから結婚を考える。子どもが欲しいから結婚したい、という考えももちろんある。だが、俺は違うというだけの話だ。結婚して夫婦となってこどもに恵まれたとしたら、もちろん嬉しい」


 責任感の強さ、誠実さ。

 真っ直ぐに伝わってきて、そのあまりの真っ直ぐさをレナは受け止めきれなかった。自分はティッジと違って結婚という大きな決断を迫られる選択肢を最初から考えられずに目を逸らしている。


「レナ、顔を上げてくれ」


 いつの間にか項垂れるように下を向いていた。

 ティッジに促されゆっくりと顔を上げると、彼は真剣な表情でレナを見つめていた。


「結婚出来ないからが理由の交際拒否は受け入れられない」

「……! どうして」

「俺の事が嫌いになった、顔を見るのも嫌でもう二度と会いたくないというなら、さすがに考える」

「そんな。さっきも言ったけど、私は――」

「好いてくれているんだな?」


 好きだ。間違いなく。今この瞬間も。

 でも結婚が。

 どうしても結婚が考えられない。


 駄目だ、いけない。思っていても嘘もつけなかった。下手な嘘をついてもあっさりと見破られ、結局ティッジにまた説きふせられる事も分かりきっている。迷いと葛藤でぐらぐらと心を揺らしながらも抗えず、レナが観念して頷くと、ティッジは淡く微笑んだ。


「充分だ」

「……いいえ。ティッジにとってこの交際は無意味だわ」

「俺が大切にしたいと想っている女性が、俺の事を好いてくれて特別に想ってくれている。無意味だとはまったく思わない」


 レナは途方に暮れて肩を落とす事しか出来なかった。

 どんどんと冷えていく指先が温もりを求めるように、ティッジが淹れてくれたばかりの紅茶が入ったカップを両手で包むように触れた。温かい、と確かに思うのに、それでも身体が寒いと訴えるように震えそうになる。


 ティッジの想いが嬉しくてたまらない。

 でも。ティッジの事を本当に想うのならばやはり交際してはいけない。結婚願望を持っている素敵な未婚女性は沢山いる。

 自分である必要がない。


 カタン、という音が響く。

 何事だろうかと、紅茶を見つめていたレナがティッジへと顔を向けようとしたが、小さなテーブルを挟んで正面に座っている筈のティッジの姿が無かった。椅子ごと動いてテーブルの斜め前に移動していた。

 正面に座っていた時以上に近づいた距離感に戸惑って、レナはわずかに息を呑んでしまう。カップを包み込むように触れていた両手も、逃げるようにテーブルの下の両膝の上へと引っ込めてしまった。


「レナとはこれからも真剣に交際したい。だからこそ伝えておく事がある」

「交際出来ない」

「……強情(ごうじょう)だな」

「強情なのはティッジだと思う」

「交際拒否を受け入れられないから、確かにそうかもしれない」


 そう言うと、ティッジは片手を伸ばして、両膝の上で握られていたレナの両手を包み込むように握ってくる。ごつごつとした大きな手のひらの温かな感触に、レナはぐっと唇を噛んでしまう。嬉しさと、苦しみと。この感触を失いたくないという心の悲鳴が聞こえてくる。


「交際中、俺はレナに身体の関係は求めない。約束する」


 身体の関係の無い交際。

 そんなもの、ある訳がない。


 自身は恋愛や結婚とは無縁な環境下にいたとはいえ、無知でも純真でもない。十二年間、主に職場だが、交際や恋愛、結婚について様々な男女の話を聞いている。ためになる話や勉強になる話、感動する話、楽しい話ばかりではない。下世話で綺麗事では済まない話も沢山聞いた。


 ティッジの言葉にレナは言葉を失った。

 そんな交際、成立するの?


「ただ、こうしてレナに触れたり抱きしめたりする事はしたい。そういう触れ合いがあるだけで俺は満たされる」

「そんな約束はしたくない。交際出来ないという私の思いをますます強固にさせるだけ」

「なぜ」

「私達の年齢での交際は結婚前提で身体の関係ありきだって、さすがに分かってた。だから早く伝えなきゃいけないと思って話したの。もしティッジの返事が、結婚願望は無いけど交際したいという同じ想いだったら、ちゃんと……く、()を飲んだ上で――」

「レナ。一昔前と違って今のこの国での薬の効果は向上しているらしいが、それでもまだ絶対じゃ無い。薬を使っても望まぬ妊娠をしたという話は互いに聞いてきたはずだ。もし今、結婚願望が無い状態で関係を持って妊娠したら、レナはどうするつもりだったんだ? 今、俺には容易に嫌な想像がついたぞ。何も言わずに姿を消すつもりだろう」

「そんな……!」


 そんな事はしない、と言おうとしたが言葉は出て来なかった。ティッジの厳しい視線に否定の言葉が出て来ない。

 妊娠の可能性もちゃんと考えていた。

 もしも妊娠したとしても尚、今のレナは結婚という選択は考えられない。一人で育てる決断をしてしまう。でも、責任感と情が深いティッジなら絶対に結婚しようと言ってくるのが目に見えている。

 それなのに私は――


 ティッジの想いを無視して。

 こどもにとっての幸福について深く考えられずに。

 身勝手な選択をしてしまう。



 初めての恋。初めての感情を知って間違いなく幸せだった。

 交際前に食事をしていた時は、会って話す度にティッジに惹かれていき、この人と交際したい、恋人になりたい、と前向きでまっすぐな感情がしっかりと心に芯として存在していた。

 明るく、希望持って未来を追いかけていた。

 自分の事を好いてくれた奇跡のような人が誠実な人で、そんな人の恋人になれたという事はもうそれだけで幸せだった。ティッジの事を大切にしたい、彼の事を幸せにしたい――そう望んでいた。


 それなのに。

 いざ恋人として交際を始めると、すぐに結婚という現実がレナの心に重い鎖となって巻き付きだしていた。交際前も今も、結婚、新たに家庭を築こうという前向きな意思と覚悟を持って交際する事だけがどうしても出来ない。


 自分自身でも呆れる程に頑なで臆病心が働いている。

 私はおかしい。


 まだ幼い時は結婚に憧れていた少女だった。自分の両親、家族が大好きで。自分もいつか恋をして、妻に、母になって幸せな家庭を築くという事を夢見て思い描いていた。ささやかで平凡で特別な事は無い日々だけれど、家族みんなで笑ったり怒ったり、泣いたりしているような。



 いつからだろう。

 その夢が砕け散って、思い描くことすら不可能になってしまったのは。



「……!?」


 まとまらない自分の思考の底に落ちかけていた時だった。


 ティッジの片手が伸びてきて後頭部を包まれて、はっと意識を彼に向けた時には、自分の唇にティッジの唇が優しく触れていた。ゆっくりと離れていったが、レナの思考を完全に止めるには十分だった。

 普段は静かな人で、レナが少し素直に好意を示しただけで赤面するような照れ屋な一面を持つはずのティッジが、今はとても冷静に見える。けれど、彼の真剣な表情と眼差しからは強い決意のようなものを感じて、レナはますます言葉を失ってしまった。


「俺はレナと生涯関係を持つ気が無い、とは一言も言ってないぞ。()()()だ」

「――え?」

「レナが結婚についてどう思っていたとしても諦めるつもりはない。俺と結婚して生涯を共にしたいと決断出来るように、レナを(ほだ)すつもりだ。レナが俺を嫌って憎み、別れたいと思わない限り。何年、何十年かかっても諦めない」

「……!」

「嫌われていないことを確信したのを良いことに、交際を拒否しているレナに対してこうして無遠慮に触れる勝手な男だ」

「それ、は。そんな」

「レナが思っている程、俺は誠実じゃない。それでも好いてくれていると言うなら、頼む。恋人のままでいさせてくれ」


 言いたい事は全て言ったらしく、口角をわずかに上げて笑うティッジの表情は今まで見た事の無いような優しさと、ほんのわずかな悲しみが垣間見えて、レナはそんなティッジから目を離す事が出来なかった。


「…………一つだけ、お願いが」

「何だ?」


 交際してはいけない、と分かっているのに、レナはティッジの手を放す事が出来なかった。

 伝えた願い事は、真剣な未来を望んだ上で交際したいと真っ直ぐに伝えてくれるティッジに対して、あまりにも不誠実で失礼なものだった。いっその事呆れられて失望されてしまった方が良いのかもしれない、と最低な事まで考えながら伝えた願い事。


「それだけか? わかった」


 あっさりと返事をされてしまい、愕然としてしまっていたら、「結婚出来ないから俺と交際出来ない、とはもう言うなよ?」と念押しされてしまった。

 




 あれからもうすぐ一年。

 ぎゅっと、ブローチを両手に祈るように握りしめる。


 派手な事はなく、大きな刺激があるような交際ではない。

 けれどとても楽しくて幸せで、心が落ち着いて、ただ一緒にいるだけで満たされるような。今までティッジと過ごした優しい日々の時を、薄暗い家の中で、静かに思い返していた。



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