13 ◆いつまでも
◆
早朝。
仕事着である漆黒の御者服に着替え、会社で今日の行動予定を確認していたティッジは、今日あると思い込んでいた宿直が翌々日の行動予定に明記されている事に気がついた。
そうだ。変更があったんだ。
「どうした? 朝から辛気くさい顔してるなぁ」
「……。帽子は?」
「帽子?」
あっ帽子忘れてた、と同じく御者服に着替えて更衣室から出てきたミハエラの呑気な声は、壁に貼り付けられている宿直表を腕を組んだまま睨むように眺めているティッジの耳を素通りしていく。
ティッジが宿直で、レナが夜の勤め先である食堂勤務が重なった日、ティッジのアパートにレナが泊まるようになった。変更前の宿直日をレナに教えた時、その日は喫茶店も食堂も両方仕事がある日だからアパートに泊まるねと言っていた。
交際して既に十ヶ月。
レナはアパートに泊まる事にもすっかり慣れて、しっかり休めてとても助かって嬉しいと言ってくれている。
だが――
結局、考える事は後回しにした。
ひとまずは思考を切り替える。昼間の業務である貴族馬車の御者を、夕方以降は乗合馬車の御者業務をこなしていく。あっという間に夜になり、馬を労って馬丁に預け、客室となる箱の清掃を終えて人の少なくなった会社の事務所に戻ると急に現実が押し寄せた。
帰宅したらレナがいる。
「……」
一つ言動を間違ってしまったら。今まで築いてきたものが一瞬で壊れてしまうのかもしれない、と漠然とティッジは思う。
それでも一番に思う感情はレナに会える事に対する大きな喜びだった。朝起きた時に自分がいたら彼女は喜びはせずに狼狽えるだけだろうが、と思うとそれが少々複雑でもあったが。
宿直の日に限らず、いつ突然来ても構わないから、と言って合鍵を渡しているが、案の定レナはティッジが宿直ではない日に突然やって来るような事は今まで一度も無かった。この日に会おう、と約束した日時と、宿直の時にしか部屋には来ない。レナらしいな、と思う。同時に、まだまだこのままでは程遠い、とも痛感する。
それでもティッジは前だけを向いていた。
交際して二ヶ月が経った頃、初めてレナがティッジのアパートを訪れた日。レナに伝えた自分の言葉と約束を思い返す。同時に、レナから伝えられている唯一の願い事も。
あの時、自分がレナに対して告げた全ての言葉を撤回するつもりは全く無かった。
着替えを終えて会社を出ると街はさらに静まりかえっていた。
乗合馬車の最終便の業務を終えてから帰宅するのだから当然だ。人々は皆とっくに眠りについている時間。おそらくレナも既に眠っているだろう。
あっという間に到着したアパート。
自分の部屋がある二階を見上げたティッジは、窓からわずかに灯りが漏れている事に驚いた。
起きているのか? いや、それは無いだろう。
階段を上って扉の前に着くと、大きく音をたてないように慎重に鍵穴に鍵を刺してかちゃりと回す。静かに扉を開けたつもりだが、それでもやはり築年数が経っているそこそこに古い建物だ。ギィ……と鈍い音が鳴るが、これ位の音なら起きないだろう、と思った。
「ティッジ?」
声をかけられて、思わず顔を上げる。
視線の先にいたのは丸椅子から立ち上がって、びっくりした様子で目を丸くして自分を見つめるレナの姿だった。
「起きてたのか」
ティッジも驚いてしまっていた。
扉を閉めながら尋ねると、レナもハッとした様子で少しだけ慌ててティッジとテーブルに置いてある何かを交互に見つめた後、そわそわとした様子でこちらに歩み寄ってくる。
いつもはしっかりと束ねられている栗色の長い髪は下ろされていた。柔らかそうな木綿の夜着と、毛糸で編まれたのであろう羽織りを着ている。寝る支度を整えたレナの姿を見たのは交際して十ヶ月が経つのにも関わらず今夜が初めてで、ティッジは思わずその姿を見つめてしまっていた。
「サラサに手紙を書いていたの。明日は喫茶店が休みだから、ゆっくり起きようと思って。ちょっと夜更かしを」
眉を下げて気まずげに視線を落とすレナに、じっと彼女を見つめていたティッジも思わず小さく笑っていた。
「何で笑ってるの?」
「いや。何も悪い事はしてないんだ。悪い事をした、みたいな顔をしなくても良いと思う」
あ……うん、と言葉を零しながら、ほんのりと恥ずかしそうに頬を色づけさせつつとても困った表情を浮かべるレナの姿が、ティッジにとってはたまらなく愛おしかった。帰ってくる筈のない人物が帰ってきた事に、レナはとにかく驚いている。
――抱きしめたい
衝動が込み上げる。しかしすぐに理性が働いた。
今の状況でそれは駄目だ、と。
「今日は宿直じゃなかったの?」
「レナに教えた後に変更になったんだ。言い忘れていたし、自分も忘れていた。すまない」
「そうだったんだ」
明らかに狼狽えだしたレナは、パッとテーブルへと駆けていってしまう。
ペンやインク、便箋を片付けだす姿を眺めながら外套を脱いでいたが、レナの手にある便箋には見覚えがあった。
「それ。前に俺が渡した便箋か?」
「うん。今はクロッカスのスタンプの方で書いていたの。マークとサラサ専用の便箋にしてる。雪の結晶柄の便箋も後二枚残ってるから、次にマークに手紙を書くときに使うつもり。どちらも凄くお気に入りよ。ありがとう」
そう言って便箋をティッジに見せて微笑みながら感謝を述べるレナの姿は、ティッジから見たら眩しすぎる程に綺麗で愛らしかった。疑う余地もない程に心底嬉しそうで、余計に感情が刺激されてしまう。
やっぱり帰宅して良かった。
下手に宿をとって会わないようにと誤魔化していたら、こんなレナの姿を見る事は叶わなかったのだ。
「俺の事は気にせず書いていて良いんだぞ」
「そんな訳には……何か飲む? 温かいの。それとももう寝る?」
「まだ寝ないが、自分で用意する。だから気にするな」
そうは言っても、やはりレナの性格上無理な話らしい。
飲みかけの紅茶が入ったカップも含めて、きっちりとテーブルを片付けたレナは、どうしようかと考えている様子でティッジとキッチンを交互に見つめている。本当に気にしなくて良いんだが、と思いながら、部屋着に着替えるために普段通りに仕事着のシャツを脱いだ途端、ガタン! という強い音が響き渡った。
何事かとレナの方を見ると、彼女は大慌てした様子で倒れた椅子を戻していた。
「どうした。蹴躓いたのか?」
「大丈夫! 紅茶で良い?」
「いや、俺が自分で――」
「手があいてるしまだ眠くないの。私が淹れる」
「あぁ……ありがとう」
何をそんなに慌てているんだ、とティッジは眉をひそめた。
逃げるようにキッチンへと駆け、お湯を沸かしてカップを用意するレナの背中をしばし眺めて、そして不意にのぞいた横顔の頬が真っ赤になっている事に気がついた。なぜ、と思ったのは一瞬。シャツを脱いで上半身が裸の状態でいる自分に気付き、しまった、とティッジは急いで部屋着用のシャツを掴んで着替えた。交際十ヶ月が経つ自分達には今も身体の関係がない。
約束をしていたからだ。
だから余計に、あとは寝るだけという真夜中の狭い部屋に二人きりという状況は気まずい。分かっていたからこそ言動には慎重に、と思っていたのだが、早速やらかしてしまった。
「今日の仕事はどうだった」
切り替えるように、キッチンに立つレナに歩み寄って普段と変らぬ声音で尋ねると、どこか緊張した様子だったレナはティッジを見上げた。
「仕事はいつも通りかな。特別忙しくは無かったし、でも暇という訳でも無かったよ。喫茶店も食堂も」
「そうか。マルコさんは元気か?」
「うん。元気よ。そういえば、店長が最近ティッジを見ないって言っていたわ。二人で休日に遊びにおいでって言われてるんだけど、次の休日のお昼にどう?」
「そうだな。久々に一緒に行くか」
キッチンで二人、肩を並べながら。
新しく淹れた温かい紅茶を片手に今日の出来事を話し合う。特段変った事も大きな何かがあった訳でもない。
レナの話を聞く時間がティッジは好きだった。表情豊かに話すレナの言葉、声、仕草。いつも会う度に愛おしい気持ちが増していく。頑張り屋で人に甘える事や頼る事が苦手なしっかり者で、けれどとても寂しがりで、家族や恩人に対して惜しみない深い愛情を注ぐ彼女の事が好きだ、と。
彼女の笑顔が、どの美しいと謳われている花や宝石よりも綺麗だと、いつも思う。
変わらない。最初から。交際したい、と望んだ瞬間から真剣だった。
結婚したい。
その相手はレナであって欲しい。
レナにとっての自分は、隣にいるのが当たり前の存在になりたいのだ。どんな時も。何かあっても、何もなくても。遠慮したり躊躇ったりする存在ではなく、全てを預けても大丈夫だと思える存在に。彼女にとっての一番の味方で、支えになりたい。
これから先の人生を共に歩む存在に。
結局二人は何をするわけでも座る事もなく、キッチンでしばし話していたが、眠そうにレナが欠伸をするとその時間も終わりを告げた。
「さすがにもう寝た方が良いな。分かってるだろうが当然レナがベッドだぞ。俺はその辺で適当に寝る」
「……ティッジ」
「分かったな?」
途端、レナは困った様子で眉を下げてティッジから視線を逸らしてしまった。そろそろと向けられた視線の先は一人用の狭いベッド。
「……確かもう一つ掛布が……」
「レナ?」
洋服掛けの棚へ向かったレナは、真冬用に備えて買ってしまい込んでいた厚手の掛布を丁寧に取り出して抱えこんだ。そのままゆっくりと、うつむいたままもう一度自分の方へ近づいてくる。
「どうした?」
「……あの……」
「ああ、それを俺に?」
「そうなんだけど。そうじゃなくて」
やっと顔を上げたレナの榛色の瞳はわずかに揺れている。
緊張した様子で。
「嫌じゃなければ一緒に寝ない?」
「……」
「ティッジは私にベッドで寝かせようとするのは分かってたし、私が床で寝ることも絶対に許さないのも分かってたから。でも、私だってティッジにはどうしてもベッドで寝て欲しくて」
どんどんと小声になっていくレナは、とても苦しげな表情を浮かべている。真っ赤に染まっている耳の縁と潤んでいる瞳が、決死の覚悟で提案してくれているという事実を物語っていた。
レナの性格を分かっていたからこそ先手を打ってはっきりと伝えたのだ。これで滞りなくベッドで眠ってくれると思っていた。
それでもまさか、こんな提案をしてくるとは思わなかった。
抱擁したり、軽くキスをしただけで身体を強張らせてすぐに離れていこうとするレナの口から、まさか一緒に寝ようなどと。
「狭いぞ」
「うん。知ってる」
「窮屈だ」
「分かってる。でもティッジを床で寝かせたくない」
「……。レナは壁側で寝てくれ」
「壁側……ティッジは反対側で寝てくれるの?」
不安そうに、そしてとても恥ずかしそうに肌を赤く染めたまま見上げて尋ねてくるレナを、これ以上ティッジは直視が出来ない。勝負などしている訳ではないのだが、負けた、と内心で小さく呟いていた。
灯りを消してベッドに入ると、レナはティッジに後頭部と背中を向けて、ぴったりと壁に全身をくっつけるように横になった。
暗闇でも分かる。狭いベッド上で、それでも頑なにティッジに身体が触れないようにという強い意志が感じられる姿に、わずかな寂しさと、上回る可笑しさと愛しさでティッジは声を出さずに苦笑していた。
「そんなに壁に張り付かなくても良いんじゃないか?」
「私がこうしていてもティッジは狭いはずだから」
「……、確かに」
二枚の掛布を被せて横になりながら、全く自分を見ようとしないレナの小さな後頭部と、背中に流れている栗色の髪を見つめる。
許してくれるだろうか。
そっと、レナの腹に左腕を回す。
壁から離すようにそのまま抱き寄せると、レナは「え?」と戸惑ったような言葉をこぼして肩を縮ませた。抱き寄せられたレナの身体はティッジの腕の中に静かに収まった。
「ティッジ?」
「うん。おやすみ」
「……」
「暑いか。やっぱり離れた方が良いか?」
「……ううん」
囁くような小さな声の返事と共に後頭部が小さく左右に振られているのが分かって、ティッジはほんのわずかにレナを抱きしめる腕に力を込めた。
「おやすみ、レナ」
「……おやすみ」
抵抗される事もなく、そのまま部屋は静かな空気に満たされる。
レナの温もりと香りが信じられない程の近さにあって、しかしいつものように恥ずかしがって離れようとする素振りの気配もない。
少し経った頃には、縮こまっていた肩の力が抜けて静かな寝息が聞こえてくる。この状況にとてつもなく緊張していたらしいレナも、さすがに二カ所の勤務を終えて夜更かしした後では疲労が上回ったらしい。あっという間に深い眠りについていた。
自分の腕の中で、安心しきった様子で。
「……愛してる」
囁きながら、眠っているレナの頭にそっと口づける。
小さく上下するレナの腹に回した腕に、木綿の夜着超しに心地良い温もりが伝わってくる。
永遠に。
彼女を一番に守り支える人は、自分であり続けたい。