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12 真実は




「提案があるんだ」

「提案?」


 休日のお昼時。

 レナは今、ティッジの暮らすアパートに来ていた。しかし夕方から食堂の仕事が入っている。喫茶店が休日で、ティッジは全休という日だ。


 狭いキッチンで二人一緒に準備した昼食を、小さなテーブルの上に落ちないように並べる。背もたれのない簡素な木の丸椅子に向かい合って座って食べていた時。ティッジから突然、提案がある、と言われて、レナはスープを掬おうとしていた手を止めた。


「俺が宿直でここを留守にする日とレナの食堂出勤日が重なった日は、ここに泊まったらどうだ?」



 交際が始まって四ヶ月。

 冬から始まった交際だが、今は薄手の上着で十分に暖かい程の過ごしやすい気候になっている。春を迎えたばかりだった。ペンシャット市街にもあちこちで花が咲き、街全体がカラフルに彩られていた。


 月に二、三回程はレナがティッジの暮らすアパートに行って、ティッジもレナの家には同じ頻度で訪れている。互いの家を行き来する生活は交際をきっかけに早い段階から始まっていた。もともと二人の全休日が被るのは月に一、二度が限界で、会う時間を捻出する事は大変になりそうだという事をレナは覚悟していたと同時に、一番の不安要素に思っていた。二人は会う時間を確保するために、互いの家を行き来してゆっくり過ごす、という方法を一番にとるようになっていた。


 でも、泊まった事はなかった。

 レナがティッジのアパートに泊まる事も。ティッジがレナの家に泊まる事も。一度も無いままに四ヶ月が過ぎていた。


「ここは治安は良いがアパートは狭くて古いし、レナが夜を一人で過ごすには不便もあるかもしれない。ただ、帰る時間が大幅に短縮出来て眠れるだろう」

「確かに……」

「棚はレナの自由に使って良い。物は半分も入ってないんだ。何度か試してみて、疲れが取れないなら無理して続ける必要もない。どうだ?」


 レナは掛け持ちの関係で全休日が月三日だが、ティッジも掛け持ちしていないにも関わらず全休日がレナと同じ程しかない。

 理由は乗合馬車ではなく、貴族からの指名で急遽馬車を出す時がある事が関係している。貴族相手の馬車を動かす時の御者は限られていて、しかも深夜に突然依頼される事もある。月に四回程、会社に泊まり込んで控える宿直もこなしていた。


 ティッジの提案に少し考え、レナは頷いた。


「お言葉に甘えようかな。このアパートの勝手もだいぶ分かったから十分休めると思う」

「分かった。使いそうな最低限の生活用品は揃えておく」

「ありがとう。でも細々したものは私が持ってくるから大丈夫よ」


 提案を受け入れると、ティッジはほんの小さく微笑んだ。()()したように。そしてまた食事を再開し、買ってきたパンを両手でちぎって口に運んでいる。レナももう一度スープを掬おうとしたが、胸中に少しだけ残っていたひっかかりを思い出して動きを止めてしまった。


 最近、レナにはどうしても気になる事があった。


 ただの直感だが、それなのに確信めいている。彼は何かを隠している。後ろめたい隠し事というわけでは無さそうだが、何か一番にレナに伝えたい事を隠しているように感じるのだ。


「ティッジ」

「ん?」

「え、っと……」

「レナ?」

「何か私に隠してる?」


 失敗してしまった。


 気になって仕方がないからどうしても知りたい。表情を改めてきちんと聞こうと思ったのに、怖じ気ついて失敗してしまった。

 レナは笑いながら、何でも無い会話の延長線のように軽い口調で尋ねてしまうと、ティッジは微かに眉を寄せた。


「何も隠していない」

「本当に?」

「ああ」

「……そっか。ごめんね、気のせいだったみたい」


 気のせい、とはどうしても思えないのだ。

 それでもティッジからは何も隠していないとはっきりと返事をされてしまうと、それ以上は何も言えなくなってしまう。本当は絶対に何か隠しているはず、と確信は揺るがない。けれど結局分からないままの現実。


「レナ」


 向かい合って座っているとはいえ、幅の狭い小さなテーブルだ。

 ティッジが伸ばした右手はうつむいたレナの肩に難なく触れた。顔を上げると、厳しい表情に困惑をのせたティッジと視線が重なった。


「返事を間違ったかもしれない。恋人(レナ)に何か隠し事をしていないかと聞かれたら、浮気だとか、女性絡みの事を聞かれたかと思ったんだ。だから、それはあり得ない、という意味で返事をした」

「浮気を? そんな。疑っていなかったわ」

「そうだよな。レナがそんな事を聞くとは思えないと、返事をしてから思った。違う意味で聞いたんだな?」

「うん。思い当たる事がある?」


 肩に置かれていたティッジの手が微かに動く。

 レナは自身の左手を上げると、肩に触れられているティッジの右手を掴んだ。そのまま二人の手は自然と指を絡ませ合いながら、テーブルの上に静かに下ろされていく。


「伝えられていなかった事は確かにある。隠していた訳じゃない」

「今聞いたら、都合が悪い?」

「いいや。言おうとして、結局やめた事は何度かあった」

「やっぱり。初めて家に来た時の帰りにも、何か言いたそうにしてたよね?」


 テーブルの上で指を絡ませたままの互いの手を眺めていたティッジは、そっと視線を上げてレナを見つめた。


「俺がレナの事を意識したきっかけで、言っていなかった事が一つある」

「きっかけ? でも前に、いつからとかは明確には分からない、って答えてくれていたじゃない」

「確かにそうなんだが、いつから交際したいという想いでいたかという時期を明言出来ない、という意味だ。レナを馬車の利用客という意識だけでは見なくなったきっかけだけは明確にあった。二年と少し前だ。覚えているか? 初めてレナが寝過ごして俺が起こした時の事を」


 二年前よりさらに少し前……と呟き、レナはすぐに思い出した。


 食堂の仕事が遅くなってしまい、馬車にもぎりぎり間に合って乗車した日があった。身体も疲労困憊でそのまま眠ってしまい、到着した事にも気付かずに眠り続けてしまった日。あの時に起こしてくれた御者がティッジだった。やけに身体が疲れやすく、あの日だけではなくその後も二回程、やはりティッジが御者の時に寝過ごしてしまった事があった。


 思い出したレナは、羞恥と申し訳なさで何となく絡ませあっている指を解いて引っ込めたくなったが、出来なかった。ティッジの指が絡まったまま。離そうとしてくれない。

 レナはぎこちなく苦笑しながらうつむきがちに頷いた。


「思い出した。覚えてる。ティッジに迷惑をかけて申し訳なかったし、恥ずかしかった。もしかして最初の印象が良くなかったから言いづらかったの? 迷惑だなって思ったから?」

「違う」


 互いの片手の指を絡ませあったまま。今度はティッジの左手がレナの顔に伸びてくる。そのまま頬に触れて、親指がレナの目尻をなぞった。


「あの時、レナは泣いていた」


 泣いていた? 全く覚えがない。

 困惑しながらレナが小さく顔を横にふると、ティッジは「やっぱり」と呟いた。


欠伸(あくび)じゃなくて?」

「違う」

「……眠りながら泣いてて、だから心配してくれていたの?」

「それだけじゃない。……痩せている、と思ったんだ。雰囲気も。単純に元気が無いというよりも、何か悩みを抱えていそうな感じだった」


 泣いていたという事は全く覚えがなくても、痩せている、という指摘には思い当たる節が確かにあった。

 心配そうな表情でレナの目元を撫でる左手に、レナも自身の右手を重ねた。両手がティッジに触れて、温もりを感じて、心に切ないほどの愛しさが広がっていく。


「泣いていた事は本当に覚えがないわ。けど、二年前は確かに心身共に参っていた時期で……」


 二年と少し前、マークが就職してサラサと二人きりの暮らしが始まった事がきっかけだった。とても短くて一時的なものだったが、思春期真っ只中のサラサと衝突を繰り返していた時期があったのだ。


 衝突と言っても、今のレナが冷静に思い返せば本当にささやかな反発だけだったように思う。サラサは昔から今も変らず自分を慕ってくれると同時に心配し、愛してくれているからこそ、遠慮していたのでは、と。本当はもっと全力でぶつかって大喧嘩したかったのかもしれない。実際、サラサとの関係に悩んだ期間は半年も無かった。

 ただ、当時のレナは余裕が無かった。

 マークとサラサにとってはしっかり者の姉でありたい。弟妹が悩みを抱えて苦しんだり塞ぎ込んだりして欲しくは無かった。頼って欲しかったのだ。自分は姉であり、親代わりでもあるのだからと。


 一人になって気を抜く事が出来るのは仕事の行き帰りと馬車の中だけだった。一人になった瞬間にどっと疲れが出てしまって、特に馬車の中は常に眠くて仕方なかった。食欲も失せていて、毎食きちんと食べてはいたが量は少なかった時期でもある。


「誰にも気付かれていないと思ってた。まさかティッジに気付かれていたなんて思ってもいなかったわ」

「……気付いていたが声をかける事が出来なかった。それでも少しずつ元気になっていく姿に安心したんだ。だが、一年以上が経って、またレナは痩せ始めていたように見えた。自分の想いにも迷いがあったその時期に、路線担当の人事異動の話が持ち上がったんだ」

「もしかして最近の少し前までの事? 暮らしは落ち着いていて元気だったよ。体調も良いし、気のせいだと――」


 ――レナ姉、なんか痩せた?


 四ヶ月前にマークに言われた事を急に思い出して、レナは言葉を飲み込んでしまった。

 ティッジが名刺を渡してくれたあの時も、彼はレナへの想いを自覚しつつ、今の話を聞くと痩せていく体調を心配したからという理由も確実にあったのだと、そう告げられたも同然だった。


 頬に触れるティッジの手に重ねていた筈の右手が掴まれる。握られたまま、そっとテーブルの上に置かれた。テーブルに置かれた二人の両手の間には、食べかけのパンとスープが置かれている。すっかり冷めてしまったのか湯気はもう出ていなかった。


「一年と数ヶ月前は、確かサラサさんが卒業と同時に家を出た時期だな。一人暮らしが始まった事がきっかけに、気分が落ち込んでいたのか?」

「……そんな風には思ってなかったんだけど」


 家を出たマークとサラサのことは常に心配している。今も。

 だがそれ以上に、間違い無く喜びが大きかった。

 夢を叶えて自立して、強く生きてくれている。自分たちの心配ばかりしないで、自分(レナ)自身の事を考えてあげて、と、伝えてくれている。マークとサラサはレナにとって、大事で大切な弟妹なのだ。


 もう大丈夫ね、と安心した。

 安心したはずなのに。


「……自分が情けない。私の心が弟妹離れ出来ていなかったんだね。一人になった途端、やっぱりすごく寂しくなって。そんな自分を受け入れられなくて、寂しくない、って無理矢理言い聞かせていたんだわ。食べてはいたけど、また量が減ってたんだと思う」

「でも、それももう前の話だ」

「え?」

「交際が始まったばかりの時のレナに元気が無い事は分かってたんだ。レナ自身は自覚していない様子だったのも分かっていた。交際をきっかけに、何が何でも原因を突き止めて解決させると俺は決めていた」

「何が、何でも」

「ああ。だが、大丈夫だった。二年前に落ち込んでいたレナが少しずつ元気になっていったように、今回もレナは自分自身で悩みを乗り越えていっていた。……結局、俺は今回も何もしてやれなかったが」


 そう言うと、ティッジは硬い表情を解いて、優しく目尻を下げて柔らかい表情を浮かべてくれる。


「マークとサラサさんからの手紙を読んで、話してくれる時のレナの表情はいつも前向きで明るい。俺と会っている時も最初は遠慮がちだったが、最近は頼ってくれるようにもなった。だが、もっと頼って欲しいし甘えて欲しい」

「……ティッジ」


 目頭がとても熱い。

 視界が大きく揺れた時には、涙が込み上げて溢れそうになっていた。


「何もしてやれなかった、なんて。それは間違いよ。ティッジはいつも、こうして……とても大切にしてくれて」



 ティッジという人を知れば知るほど想いは大きくなっていた。日常な些細なことでもティッジには何でも話せた。嬉しかったこと、楽しかったこと、もやもやしたこと、怒ったこと。

 どんなことでも、何でも。


「私はティッジが好き。いつもありがとう。私もよ。ティッジに頼ってもらいたいし、甘えてもらいたい」


 ティッジがレナに対して望んでいる事は、間違い無くレナもティッジに対して望んでいる事だ。

 素直になって伝えると、ティッジは細い金色の瞳を大きくさせたかと思えば、一瞬にして耳を赤くしてあっという間にこども泣かせな厳つい顔付きになってしまっていた。


「ティッジ?」

「今のは、からかったのか?」

「ううん。真面目に伝えたわ。だから何でも言ってね」

「……食べよう。だいぶ冷めたみたいだ」


 あれほど離すまいと強く握られていた両手があっさりと離されてしまう。しかし視線を下に向けたティッジは顔どころか首まで赤くなっていた。普段は冷静でとても落ち着いているどころか、淡々としすぎている印象を受ける彼だが、照れるといつも怖い顔をする。


「手が止まってるぞ」


 まじまじ見つめていたらはっきりと注意されてしまう。

 うん、と、レナは微笑みながら返事をしていた。




 ――今あるこの奇跡みたいな幸せは、いつまで続くんだろうね?


 心の奥深く。


 ぽつんと佇むのは、両親を失い、悲しみの底にいるのに涙を流す事が出来なかった十四歳の頃の自分自身。榛色の瞳は虚ろで、それなのに穏やかに笑っている。笑いたくなんてない筈なのに、貼り付けたような微笑みを浮かべている。

 二十六歳の自分に、ぼろぼろに傷付いているのに頑なにその傷を見せないようにして強がっている十四歳の自分が、淡々と強く責めてくる。


 ――本当にティッジの事を大切に想うのなら、出すべき答えは分かってて、変わらないでしょう?


 そう言って、十四歳の自分自身は泣きそうな微笑みを浮かべたままうつむいた。

 全てを諦めたような青白い顔で。





「このパン、初めて買ったパンね? 美味しい」


 レナが言うと、パンを買ってきてくれたティッジは顔を上げて「気に入ったか?」と、優しい声で聞いてくれる。


 今この瞬間。

 たったこれだけの会話が出来る事が、とても幸せだった。



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