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 サラサとマークのあまりの驚愕ぶりに、レナは一気に不安に襲われてしまった。喜んでくれるとばかり思っていたが違ったのだろうか。


 しかし、心配は無用だった。



 荷物を放り投げる勢いで置いたサラサは、「お姉ちゃんに恋人!?」と笑顔を咲かせてティッジを質問攻めにした。


 興奮と勢いに任せて止まらない質問とお喋りに対してティッジは冷静に返事をしている。サラサの気迫に押されつつも、もともと本人があまりお喋りでは無いという気質もあるせいかもしれない。

 マークは興奮状態のサラサに口を挟む隙は無いと学習済みで黙ったままだが、ティッジの事はとても気になるらしく、旅装束を解いて荷物を片付けると、ちゃっかりとティッジの隣の椅子に座って話を聞く体勢を整えていた。


 弟妹の行動の素早さに呆気にとられたレナは申し訳ない気持ちでティッジの事を見つめていたら、不意に彼の視線が向けられてくる。

 気にするな、と言うみたいに。ティッジはほんのわずかに柔らかな微笑を浮かべて頷いた。

 驚いてレナは目を丸くしたが、すぐにティッジは仕事をしている時のようないつもの表情を浮かべて、サラサの話に耳を傾けている。


 どきりと大きく胸が高鳴ってしまって、レナは一度心を落ち着けるように沈黙した後、「紅茶を淹れるね」とだけ言い残してキッチンへと向かう。紅茶を淹れ直してクッキーを用意しながら、レナは口元を綻ばせていた。



 何よりも大切な家族のマークとサラサ。

 恋人となったティッジ。


 特別な人達が皆、いつもはとても静かなこの家に揃っている。まるで昔、五人で暮らしていた時のような賑やかな空間がキッチンに立つ自分のすぐ後ろにある。

 笑い声と会話が響く夢のような世界が。





「どうしても駄目?」

「ああ」

「停留所は近いし、いつもはもっと遅い時間に帰宅してるのも知ってるのに?」

「仕事は良いんだ。けど見送りはいらない」

「……ティッジさんは心配性すぎると思う」


 四人での早めの夕食を終えて、それ程遅くは無い時間だがすっかり夜になっていた。


 終始大はしゃぎしたサラサは「お腹いっぱいー」とテーブルに突っ伏したかと思えばそのまま眠ってしまい、ティッジと共にお酒を飲んでいたマークも、さすがに長旅の疲れが溜まっていたらしく酔いが回るのが早かった。それでもレナの代わりに自分が見送りに行く、とマークは言うが、ティッジは丁重に断った。結局リビングで挨拶をすませ、重い足取りで寝室へ向かってしまう。



 レナとティッジは二人でゆっくりと片付けをしながら話していると、あっという間に帰る時間になってしまった。


 外套を羽織るティッジを、レナは寂しい気持ちで見つめていた。明日はお互いに仕事があって朝も早いという事情もあるが、マークとサラサと三人で家族水入らずで過ごす時間は限られているのだから、と配慮してくれている事も分かっている。


 しかしレナは、もう少しティッジとも過ごしたかった。停留所に向かうまでの少しの時間だけでも二人で過ごしたかったのだ。

 ほんの少しだけ、不満混じりで、まるでいじけるみたいに出てしまった言葉。しっかり者を自負しているレナにとっては信じられないような言葉で、気付いた時には狼狽えそうになった。自分を心配してくれているからこその言葉に、なんという返事をしてしまったのか。

 あの、今のは――と、視線を泳がせるレナに、細い瞳を何度か瞬かせていたティッジは申し訳なさそうに、照れたように。なんとも言い難いような感情を抱えた様子でほんの小さく微笑んだ。


「心配させてくれ」


 ティッジの右手が躊躇いがちに伸ばされる。


 レナの耳のあたりに少しだけ落ちていた(おく)れ毛に指を絡ませると、そっと耳にかけてくれた。指先がかすかに耳に触れる。たったそれだけなのに、レナの心は大きく揺らいだ。

 口を開くことなく、静かな眼差しで自分を見つめてくるティッジを、レナも何も言う事が出来ないまま見つめ返してしまう。


 いつまでも続きそうな静寂が、ゴトン、と何かが倒れた音が響いた事で終わりを告げた。


 ティッジの手が離れて、確かに感じていた温もりが消えていく。


「マークとサラサさんによろしく。今日はありがとう」

「……ううん。私こそ。来てくれてありがとう」

「二週間後に。また」

「また。気を付けてね」


 去って行くティッジを見送る。

 玄関扉が閉じられて、レナは力の抜けた左腕を何とか持ち上げて自身の耳を触った。先程までティッジが触れていたところを。

 

「ティッジさん……?」


 今、少し様子が。




「あぁ……耐えられなかった」

「サラサ? 起きてたの? いつから」

「ずっと」

「ずっと?」

「うん。ずーっと」


 サラサは掛布がかけられた身体をテーブルに突っ伏したまま、顔だけを上げて左手の甲に顎を乗せている。笑ってはいるがなぜか恥ずかしそうに、視線はレナではなく、伸ばされた右手が掴んでいる空のマグカップに向けられている。どうやら先程の音はカップがテーブルに倒れた音らしい。


「ティッジさんってすごく分かりやすいね。私とマークと話す時は抑揚もない感じで淡々と喋ってたのに、私が寝たフリをしてマークが部屋に行って二人きりになった途端、お姉ちゃんにはめちゃくちゃ優しい声で話すんだもん。帰り際とかもう耐えられなくて動いちゃってカップ倒しちゃった……最後の最後に邪魔してごめんー! でも聞いててこっちがこっ恥ずかしくて! 話す内容じゃなくて、声がね!」

「寝たフリ? 最初から?」


 サラサから見たレナは心底呆れ果てた様子で肩を落としたように見えた。でも実際は違う。レナの精一杯の照れ隠しという事には気付かなかった。


 レナは気付いていた。

 サラサの言うとおり、二人きりになった途端、ティッジはレナに対しての口調が()()()()()になった。サラサとマークを交えて会話した事で、レナは改めて思い知ってしまったのだ。ティッジにとって自分は本当に特別な存在――恋人なのだと。


「どうして寝たフリをしたの。ティッジさんもマークも困ってたのは分かってたでしょ?」

「マークはともかくティッジさんはどうだろうね? 口うるさい私から解放されて、ついでにお酒にあんまり強くないマークもわりと早々と退散して、お姉ちゃんと二人きりになれて本音は嬉しかったと思うよ?」

「……そんな事はないと思うけど」

「そんな事あるって。だって二人とも今日から交際が始まったばかりで、まだあんまり二人きりの時間も過ごしてなかったみたいだし、次の予定もだいぶ間が空くんでしょ? だったらちょっとは長く二人きりの時間も作ってあげたいなーって思った私のお節介は迷惑だった?」

「……」

「お姉ちゃん、変な顔っ!」


 足をじたばたと動かしてきゃあきゃあとはしゃぐサラサに、レナは赤面しながらも否定できず「ほら、サラサも寝る準備!」と言いながら髪をほどき、逃げるように視線を逸らす事しか出来なかった。




 * 


 翌日、レナと共に早起きしたサラサは身支度を済ませると早々と外出した。

 行き先は就職の際に貴族相手のマナーについての勉強でとてもお世話になったシルティの家だ。シルティの住まいはウィナ家の住むトリテ地区の隣区にあるが、馬車の路線がないためそこそこ長い距離を歩いていかなければいけない。シルティの家に向かいがてら、久々の帰省で天気にも恵まれたという事もあり、冬の寒さは承知で散歩も楽しむ予定だという。

 働き出してから会うのは今回が初めてという事もあり、サラサは朝から上機嫌だった。


 マークはというと、サラサが出発した直後に起きた彼はすっかり二日酔い状態だった。おはよう、と起きてきた彼の顔色は優れない。

 レナは既に出勤の用意を終えていたタイミングだった。しかしいつもよりも余裕を持って支度出来た事もあり、もう少しだけ家にいる事を決めてダイニングテーブルにある椅子に腰掛けた。


「はい、お水。無理してこんなに早く起きなくても良かったのに」

「ありがと。……昨日の俺、ティッジさんに最後の挨拶してた?」

「覚えてないの?」

「おぼろげで……」

「ちゃんと挨拶してたわ。失礼をしたのはサラサよ」

「サラサか。寝たフリしてたね」

「気付いてたの?」

「……むしろレナ姉はよく気付かなかったね。ティッジさんも気付いてたっぽいのに」

「えっ」


 ティッジさんは気付いていた?

 でも、そんな事は一言も。


 ぴしりと硬直したレナに、コップの水を数口飲んだマークは可笑しそうに小さく肩を揺らして笑っていた。


「ティッジさんはかなり酒は強そうだよ。……あ、俺が弱すぎただけかな。ペースはそんなに早いってわけでもなかったし……」


 まだ頭が痛むのか、マークは右肘をテーブルについてそのまま額を押さえていた。


 昨日、マークは持ち帰ったお酒でティッジと共に飲酒したが、レナは今日の仕事を考えて飲まなかった。レナもマークと同様にお酒に強いわけではない事は自覚している。嫌いではないのだが、どうしてもすぐに眠くなってしまうし、翌日にも引きずりやすい体質だった。しかしティッジはまったく酔った様子もなく平然としていた。きっと今日の仕事も支障なくこなしているのだろう。


「マークは今日どうするの?」

「午前中は家にいるけど、午後はペンシャット市街に久々に行ってみるよ。でもレナ姉よりは早く帰る。夕飯作っておこうか?」

「良いの? まかないを食べて帰るつもりだったけど、久々に食べたいわ。お願い」

「了解」


 まだ三人で暮らしていた時。

 手先が器用で何でもそつなくこなすサラサは料理だけは苦手としていた。料理が苦ではないレナとマークが交代で夕飯を作っていた。全休日と食堂が休日の時はレナが、レナが食堂の仕事が入っている時はマークが。その時の暮らしを思い出し、つい懐かしくなってしまう。


 微笑むレナに、マークは不安そうな表情を浮かべた。


「レナ姉、なんか痩せたよね」


 思わぬ指摘に、レナは首を傾げそうになってしまった。


「そうかな? 変らないと思うし指摘された事もないけど」

「うん、まぁ、劇的に痩せたって感じではないから……頻繁に会う人は多分、分からないくらいだよ。ちゃんと食べてる?」

「もちろん。体調も崩したりしてないわ」

「……それなら良いんだけど」


 マークは額を押さえたまま、疑うような視線を向けてくる。

 レナは嫌な予感を感じて身体に緊張を走らせると、マークが続けて口を開いた。


「ティッジさんの事だけど。交際は賛成。短い時間しか話す事は出来なかったけど、良い人そうだった」

「賛成? 本当?」

「うん。サラサも反対って言わなかったでしょ」

「ええ。応援してくれるって」

「早いうちに紹介してくれて良かった。このまま何も無い感じだったら近々お見合いでもさせようか、って、サラサと昨日話してた直後だったからさ」

「……お見合い」

「ティッジさんとの交際って結婚前提だよね?」


 ――やっぱり……


 レナは大きなため息を吐きそうになるのを寸前に抑え込む。二日酔いで頭痛を感じている人とは思えない大真面目な顔つきのマークに、レナの表情も真剣なものになった。


 恋愛や結婚について大袈裟な程に騒ぐのはサラサなのは間違い無い。

 だが、レナに結婚してほしい、と強く願っているのはサラサよりもマークの方なのだという事をレナは理解していた。サラサも当然レナには結婚して欲しいと言うが、素敵な人に出会えばきっと自然と恋心も芽生えるよ――と夢見る少女のような発言もくっついてくる。レナ達の両親は恋愛結婚でとても仲睦まじかった事を、サラサはちゃんと覚えていた。


 しかしマークには恋という言葉が無い。

 早く結婚してほしい、と。それだけだ。


 かと言って結婚相手は誰でも良いわけでもなく、マークははっきりと言わないだけでマークなりにレナの結婚相手としての理想があるらしい。ティッジとの交際に賛成した時点で、マークなりに万が一レナの結婚相手がティッジとなった場合、祝福してくれるのは間違いなさそうなのは分かった。


 マークがレナの結婚のことばかりに心配している事については、当然で仕方ない事なのかもしれない、とレナは思っている。

 素敵な恋愛に夢を見てはしゃぐような年齢は三年も前にとっくに終わっている。もしも両親が健在で今もレナが独身だったら、両親は死に物狂いで結婚相手を見繕うに決まっている。そんな現状なのだから。


 それ程までに、この国の適齢期を過ぎた未婚女性への風当たりは強い。働いて自活出来ていたとしても。事情があったとしても。


 レナが周囲の人達に結婚について傷付くような言葉をかけられないこの状況こそが奇跡のようなものだった。

 喫茶店の店長マルコ、食堂の店長ロック、そして同僚達は全員レナの暮らしぶりや事情を把握している。レナ自身が思っているのと同じように、皆、レナの事をマークとサラサの姉であると同時に、子育てを終えた親のような立ち位置になってしまっている事を知っている。



「結婚の話は一度もしていないから、結婚前提ではないわ」

「えっ。一度も?」

「うん。マークは昨日、私がキッチンに立ってた時にティッジさんと二人で話していたけど。ティッジさんが何か言ってた?」

「何も言わなかったよ。さすがに俺の立場でずけずけ聞けないよ」

「良かった。聞いて困らせちゃったのかと思った」

「でも、二人は交際前の食事段階で話し合ってると思ってたんだ。レナ姉は当然として、ティッジさんも結婚を真剣に考えてもおかしくない年齢だったし……」


 くしゃりと、マークは苦々しげに前髪を掻き上げた。


 マークは声を荒げたりはしない。感情を爆発させるような性格ではない。だが、こんなにも不満を滲ませてぶつけられた事など無かった。

 レナの呼吸は自然と浅くなっていた。ぐっ、と、テーブルの下の膝の上に置いている両手の拳に力を入れてしまっている。


 重苦しい静寂が二人を包む。

 レナもマークも互いを伺うように口を開かなかったが、やがてマークが観念したように両手で後頭部をぐしゃぐしゃと掻き乱した。

 

「俺は二人を応援したい。報告してもらえて嬉しかったよ。心配はするけど、反対したりしない」

「うん。マークに応援してもらえたら嬉しいし、喜んでもらえたのならそれも凄く嬉しいから」

「だからこそ、結婚の話し合いもさ。先延ばしにしないで早いうちに話し合ってよ。頼むから」

「……うん。でも、安心して。私もティッジさんもこの交際は真剣なものだって、ちゃんと同じ想いでいるから」

「当然だよ。真剣じゃなくて遊びって言われたら驚く」


 言うと、マークはやっと笑顔を見せた。

 晴れ晴れとはとても言えない笑顔は、何かを諦めたような、少々釈然としない思いが見え隠れしていた。



 交際。恋。恋人。結婚。


 結婚?



 じゃあ行ってくるね、と。

 外套を羽織って帽子を被り、鞄を持ってマークに見送られながら家を出る。いつもの道を、冬の冷たい風を顔面に受けないようにうつむきがちに黙々と歩く。

 レナはきゅっと唇を噛みしめた。


 頭の奥がずきずきと痛い。浮かぶのはなぜか元気だった頃の両親の姿。レナ達が呆れる程に仲が良かった母と父。元気いっぱいだった母のおちゃらけた言動を、丸ごと包み込むように優しく受け止めて、愛しげに守っていた父。子ども達を目一杯可愛がって、惜しみなく愛情を注いでくれた、大好きな両親。


 病に倒れて、発覚した時には取り返しがつかない程に進行していて回復も見込めず、眠るように亡くなった母。

 母の病に気付かなかった己を責め続け、しかし子ども達のために気丈に振舞っていた父。それでも母を亡くした悲しみと心労は父を確実に蝕んでいた。仕事中、店先で倒れて突然死してしまった父。


 もう十年以上も前の事。悲しみや苦しみは時間が少しずつ癒やしてくれて、弟妹のおかげもあって今では幸せに暮らせいるのに。

 なぜ今、こんなにも痛くて悲しいの?



 ごめん、マーク。サラサ。

 結婚は……


 ティッジさんが好き。特別な人。


 その想いだけが、レナにとっての確かなものとして心の奥に存在していた。



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