10 恋人
◇
レナは朝から張り切っていた。
今日、マークとサラサが帰省する。
しっかりとエプロンを身につけて紐を結び、家中を隅々まで磨き上がる勢いで掃除に専念する。
早起きした休日の朝はゆっくりと少しずつ掃除をするのだが、この日のレナは気合いが違った。もともと狭い平屋の家で、昔に比べたら物も少ない。本気で掃除をしたらあっという間に家中は輝きの錯覚が見えそうになるほどに綺麗になり、「完璧」と呟くと達成感でいっぱいになりながら部屋をぐるりと見回した。
新鮮な野菜、食材を求めて買い出しに出掛け、早々と帰宅すると、今度はキッチンで料理に専念する。
シチューにグラタン、ちょっとした炒め物。
マークとサラサが一緒に住んでいた時は頻繁に作っていたものだ。しかし一人暮らしになった今は家では滅多に作らなくなった。普段は職場のまかないで食事をしているし、休日はパンとスープさえあれば満足出来てしまうからだ。毎日料理ばかりする生活だが、自宅でこうして誰かのために料理をするのは久々だった。
「よしっ、と。良いかな」
鍋に蓋をしてキッチンを一通り片付けて、やっと一息つく。
時間を確認するとサラサとマークの到着予定の時間まではあと二時間程の余裕があった。だが。
「大変!」
もう一つの約束の時間まではあと十五分しかなかった。
急いでエプロンを脱いで椅子にかけると、レナはお決まりの外套と帽子を被った。すぐに外に出られるように髪はあらかじめ纏めてあり、仕事の日と同様の支度を終えている。季節は真冬。露出している首には防寒のために帽子と同色の襟巻きをして、貴重品だけが入った鞄を持って家を出る。
向かう先はトリテ広場の乗合馬車停留所だ。
一般庶民が暮らす静かな住宅街の角を曲がって停留所を見ると、既に乗合馬車は到着していた。ちょうど全てのお客が降り終えたばかりのタイミングだったらしい。御者台に座ったままの御者は、大柄な男性に顔を向けて楽しそうに笑っている。
御者台に座っているのはミハエラだった。
ミハエラと喋る、レナから見たら後ろ姿しか見えない男性は。
「ティッジさん」
レナが声をかけて駆け寄ると男性が振り返る。
予想通り男性はティッジだった。右腕で紙袋を抱えていた。
ティッジはレナの姿を認めた途端、すぐにレナの元へと歩き出していた。長めの濃紺色の髪はいつものように掻き上げて撫でつけるように整えられている。相変わらずの鋭い目付き。あんなにも怖い表情で今のように近寄られたら、三ヶ月以上前の自分はきっと縮み上がっていたのかと思うと、今では可笑しく思ってしまう。
「レナさん。こんにちは」
「こんにちは。待たせちゃった?」
「いや。今着いたばかりだ」
「良かった。今日は来てくれてありがとう」
ティッジはぎゅっと眉間の皺を深くして瞳を細め、口も強く引き結ぶように閉じてしまう。傍目から見たらその表情は、レナの事を睨みながら威圧的な態度を取っているように見える姿だ。だが実際は違う。ティッジは照れているだけだという事をレナは知っている。
現実、今もうっすらと耳の赤色が濃くなっていた。
「おぉー……凄いものを見ちゃったな。照れてる」
「ミハエラさん。こんにちは」
「こんにちは。昨日ぶりだね」
もう既に、ティッジはトリテ広場行きの御者を外れている。
代わりに担当になった人物がミハエラだった事にレナは心底驚いた。そして偶然にも昨日の仕事帰りの御者がミハエラで、まさか二日連続で彼に会うとは。
ちらりとティッジを見上げると、やはり彼は嫌そうな様子を隠さずにミハエラを見据えている。レナは苦笑した。
もう数回程、ミハエラが御者をしている乗合馬車に乗っている。
ミハエラはレナの周囲にいる男性にはいない珍しい質の男性で、最初の印象と変らず彼は気さくに声をかけてくる。どんな客に対しても壁を作らない。喫茶店の店長のマルコも気さくでおおらかな人だが、ミハエラは少し違う雰囲気がある。レナはすっかりミハエラに対して心を許していた。彼は間違い無くお喋り好きだが、ティッジとの関係についてあれこれと聞いてくる事は一切無かった。仕事お疲れ、あの菓子店で明日から新作が出るらしいよ――と、ちょっとした話を楽しげにしてくれるのだ。
しかしティッジに対してはやはり様子が違った。先程からミハエラはにやにやと笑っている。面白がっている。
「何回聞いても沈黙だったからどうなんだろうと思ってたけど。二人の距離感が近くなってるし、口調も砕けてるし、ティッジがレナさんの家にお邪魔するところまで進展したとはね。二人は交際中って事で間違いないのかな?」
「そうだ。いつまでここにいるつもりだ。早く戻れ」
「さっきから人を邪魔者扱い! 祝福させてよ!」
文句を言いつのるミハエラに、邪魔者だろう、と脱力した様子のティッジの声はレナの耳にも届いていた。ティッジとミハエラは何やら話し出していたが、レナの意識は完全に違う場所へと飛んでいた。
「交際……」
ぽつりと呟く。レナは右手の手のひらで自身の頬を包み込んだ。
……熱い。どきどきしている。
ティッジの路線担当変更の兼ね合いで仕事の忙しさに拍車がかかり、レナもレナで変化のない掛け持ちの勤務形態で、なかなか二人の予定が合わなかった。帰宅が遅くなっても平気のレナは夕食でも良かったのだが、ティッジが昼食で、と一貫していたのだ。なんとか予定を合わせようとしたら、休日がぴったりとあう日がマークとサラサの帰省初日だった。三度目の食事から三週間も空いてやっと重なった休日。レナが弟妹の帰省の事情を話し、良ければ我が家で早めの夕食を一緒にどうかとティッジを誘った時。ティッジは最初、きっぱりと断ってきた。
誘いはとても嬉しいが久々の一家団欒を楽しんでくれと。
しかしこの日に会わない選択をするとさらに二週間空いてしまう。三度目の食事から五週間も空く事になり、さらに御者とお客としても会えなくなってしまう。
レナは怖かったのだ。
そんなにも間が空いてしまったら、今は交際したいと真剣に思ってくれていても、仕事で忙しい日々を過ごしていくうちに自然と関係は消滅してしまうのではないかと。弟妹はきっと驚く。しかし絶対に喜んでくれてお祭り騒ぎになるはずだから、と、気を遣わないで欲しいという意味で誘って、ようやくティッジは首を縦に振ってくれた。早めとは言え夕食になってしまうが、レナがペンシャット市街に来るわけではなく自分がトリテ地区に行くのならば構わない、と。
今日が四度目の食事となる。
三度目までは友人、知人。四度目からは恋人。これは常識。
確かにその通りなのだが。
「あの……」
ミハエラを見送り、先に口を開いたのはレナだった。
ティッジが自分を見下ろしてくるのはなんとなく分かるのだが、遠ざかる乗合馬車から視線を外す事が出来ない。
「今日は確かに四度目の食事だけど。でも二人きりではないから、本当に四度目って事にしても良いのかなって不安だったの。私は、そう認識してもらえたら確かに嬉しいわ。ティッジさんはそれで良かった?」
「もちろん」
迷う様子も無くはっきりと断言され、レナはきゅっと一度唇を噛みしめてしまった。喜びが胸の中にじんわりと広がっている。
「ありがとう」
「……今、二人きりじゃないのに勝手に四度目にするなと言われるのかと思った」
「そんな。今日どうしても会いたいって言って無理に誘ったのは私なのに」
やっとレナが苦笑しながら顔を上げると、渋面だったティッジは安心したように険しそうに寄せていた眉間を解いていった。
「さっきからずっと良い香りがするわ」
「ああ。約束通り夕食用のパンを買ってきた」
「見たことのない紙袋だけど、どこの?」
「ローウートだ」
「ローウートの!? 遠いのに」
「気になると前に言っていただろう? 遠いと言っても待ち合わせには十分間にあった」
言うと、ティッジは紙袋を開けて「ほら」とレナに中身を見せた。小麦の香りがふわりと漂う。レナの手のひらより少しだけ長さがある食事用のパンが四つと、クッキーまでも入っている。
「そのクッキーは?」
「パンと同じくらい美味しいと評判らしい。レナさんもご兄弟も甘い物が好きと聞いていたから買ってみた。気に入ると良いが」
レナはまたもや言葉を詰まらせた。こんな風にティッジを相手に言葉がつかえてしまうのは、もう何度目かも分からない。自分と大切な弟妹の事を考えてくれたティッジの想いが素直に嬉しい。
もぞもぞとした、感じたことのない感情。
何だろう。とても嬉しい、けどそれだけじゃないようなこの感情は。
*
ティッジを家に招き入れたレナは早速紅茶を淹れて、マークとサラサの分を残し、小皿に四枚のクッキーを置いた。ナッツが練り込まれたクッキーだ。
紅茶を淹れている間、レナはティッジにダイニングテーブルの椅子に座るように勧めたが、ティッジは少しだけリビングの窓の外を眺めて良いかと尋ねてくる。もちろん、と了承すると、ティッジは窓の側まで歩み寄って静かに外の景色を眺めていた。
「ここは家族住まいの平屋の住宅街で、少しの樹木と歩道しかないの。トノイ広場行きとは反対方向に歩いて行くと食材が買える商店がいくつかあるわ」
どうぞ、とレナが木の盆と共にダイニングテーブルに紅茶の入ったポットとカップ、クッキーを入れた小皿を置く。窓の外を見ていたティッジが振り向いて「ありがとう」と礼を述べるが、表情は硬い。
「街灯が少ない気がする。夜は相当暗いんじゃないか?」
木椅子を引きながらティッジが尋ねてくる。
レナは「確かに……」と言いながら、椅子を引いて座りながら返事をした。
「でも慣れているから。天気が良ければ月と星の明かりもあって意外と明るいの」
「……そうか」
「ペンシャット市街は夜も明るいもんね。ティッジさんの故郷のエクリト村に街灯は?」
「二年前に帰省した時は無かったな。今は分からないが」
ダイニングテーブルに向かい合うように座った二人は、今まで三度そうしたように、他愛のない会話をのんびりと続けた。
相変わらずティッジと会話する時だけはレナがお喋りになってしまう。けれどやはり、ティッジは嫌そうな素振りも面倒くさそうな様子も一切ない。レナの話に耳を傾けてくれるばかりでなく、聞いた上で言葉を返してくれる。表情の変化は大きくはなくても、しっかりとレナには分かるように伝えてくれる。
たったそれだけの事なのかもしれない。
しかしレナは嬉しく感じていた。
だが。
シン、と沈黙の時間が訪れた時に目が合っていると、レナはどうしてもどきどきとやけに大きく胸を鳴らしてしまい、逃げるように視線を下げてしまう。一緒に食事をするのは四度目で、最初の頃のような緊張は無い。しかし明らかに違った意味合いでの緊張がある気がする。
室内に二人きり、という状況がますますレナの緊張に拍車をかけていた。
誘ったのはレナからなのに、レナの方が緊張して挙動不審になりかけてしまっている。
「ゆっくりで良いんだ」
なんのことだろう。
話の意図が掴めずに顔をあげると、静かにこちらを見つめる金色の瞳と視線が重なった。
「交際する事に不安もあって当然だ。少しずつ、俺達のペースで良い関係を築いていけたらと思ってる」
はっ、とレナは困惑した。
もしかしてティッジさんは、私がティッジさんと二人きりの状況に怖がって挙動不審になっていると思っている?
「私はティッジさんを怖がってるわけじゃないの。そうじゃなくて、」
「分かってる。本当に怖がったり警戒した時のレナさんは、初めて声をかけたあの時の様子で知っている」
確かにそうだ。
では、なんのことを。
ティッジは何か思案するように、テーブルに置かれたカップの持ち手を触れたままの右手に一度視線を向けて、再度レナを見つめた。
「レナさん。俺は――」
「たっだいまー!」
バタン! と、勢いよく開いた玄関扉。
レナは驚いて目を丸くして、ティッジも同様に驚いて玄関を振り返る。
玄関に立っていたのは両手と両肩に大荷物を抱えた旅装束姿のサラサと、対照的に小さな背負い鞄一つで呆れた様子でサラサの背後に立つ旅装束のマークだった。
「サラサ……声……」
「お姉ちゃん久しぶりー! びっくりしたでしょー!? 順調に移動が出来て予定より一本早い乗合馬車に、……ん?」
弾丸のごとく放たれたお喋りがピタリと止み、サラサの視線は椅子から立ち上がったティッジに固定された。ぽかんと口をあけて目を見開くサラサと、警戒したように眉を寄せて口を閉じたマークに、驚きのあまり絶句しかけていたレナは慌てて立ち上がってティッジの隣に移動した。
「サラサ、マーク。お帰り。早かったね」
「お姉ちゃん。隣の方は……?」
「紹介するわ。彼はティッジ・サルクスさん。私の……」
レナの頬が赤いインクを落としたみたいにふわりと色付いていく。凄まじい気恥ずかしさにレナが言葉を出せずにいると、同じように立ち上がっていたティッジが一歩前へ歩み出た。
「初めまして。ティッジ・サルクスと申します。レナさんと交際させていただいています」
ええぇ――!?
場が沈黙したのは少しの間だけだった。仰け反ったサラサの悲鳴のような大絶叫がレナとティッジの耳を大きく震わせる。マークも驚きのあまりか、サラサの後ろで言葉を失って立ち尽くしていた。




