1 御者の男
今日も普段と何も変わらない日常を過ごした一日だった。
仕事終わりの夜、乗合馬車の中。
終着であるトリテ広場に向かって走る馬車の中で、レナはふぅと小さく息を吐いた。外を眺めても真っ暗でほとんど何も見えない。街灯のある街中からは既に離れて走行しているため、整然と並んでいる街路樹だけが視界の端から端へと流れては消えていく。
明日は休日だ。
今夜はゆっくり寝て明日は遅めに起きて、のんびり家事をして過ごそう。
そんな事だけを考えて、馬車に揺られながらウトウトと睡魔と格闘していた。
昼は喫茶店の厨房で働き、夜は大衆食堂の厨房で働く。十四歳からそんな生活を始めて十二年が経った今も変わらない。
十二年前、小さな文具店を営んでいた両親が相次いで死去し、レナと幼い弟妹二人は悲しみと途方に暮れた。しかし、ぼんやりしている暇は無かった。
レナは通っていた女学校を退学して働いた。自分とまだ幼い弟妹の生活と進学のためのお金が必要だったからだ。
幸いにも両親は堅実で、多い訳ではなかったものの少なくもない貯えを残してくれており、親戚達もレナ達を不憫に思い心配してくれた。
レナの住むエリアは庶民の住宅街で、当時未成年だったレナが働ける場所は徒歩圏内には無かった。
親戚達の助力のおかげで、未成年の間は仕事をする理由での繁華街への乗合馬車の料金を補助して貰える職場も紹介してもらった。二ヶ所とも厨房関係というのは偶然だったらしいが、店長の人柄は信頼出来ると親戚は語ってくれて、実際にその通りだった。加えて、こども三人が飢えない程度の最低限の食料や衣類などの援助も受けながら、レナの給金で生活を成り立たせていた。
しかし、その働く理由もついに終わりを告げた。
弟のマークは二年前に就職して自立し、妹のサラサも一年前に女学校を卒業して就職したからだ。親戚達への感謝と、レナを慕ってくれてやまない二人の弟妹は、驚く程に健気に勉強や学校生活を頑張ってくれた。
二人の姉として、両親代わりとして育て養う生活はもう終わった。
自分一人の暮らしのためならば、昼か夜のどちらかの仕事だけで暮らしていける。分かってはいるのだが、どうしても、どちらかの仕事を辞めるという選択をする事が出来ずにいた。お金は大事だと身に染みて理解している。出ていくばかりだったお金が、マークの自立をきっかけに貯金も出来るようになっている。身体が元気で働けるうちに沢山働いて貯金をしておきたいのがレナの本音だ。
マークもサラサも、レナには結婚して欲しいと願っている。
何度も結婚して幸せになって欲しいと言われてしまい、「努力するわ」と笑顔で返事をしながらも、内心は気まずい思いでいっぱいだった。結婚願望が無いのだ。事実、独身の今が不幸だとは思っていない。職場に恵まれ、人にも恵まれていると思っている。
恋愛することもなく仕事と家事に追われる日々を必死な思いで過ごし、やっと落ち着いた今、もう二十六歳になってしまった。
わけありの行き遅れ。
なぜ未婚のままなのか?
その人の理由や事情や気持ちなどは関係ないのだ。この国では二十三歳でも未婚の女性は腫物扱いになる。世間の人々から見た自分はわけありと判断されてしまっている事は重々承知している。だが、自分にとって本当に大切な人達が自分の事を理解してくれている現状に、レナはもう充分に満足していた。
残された時間はコツコツと働いて、多大にお世話になった親戚や職場の人々に恩返しをして。貯金をして。二人の弟妹に迷惑と心配をかけないようにしたい。二人に何らかの危機が起きたらすぐに助けたい。
姉というより、もうすっかり親の気持ちでいた。自分で生んだわけでもないのに、子育てに一段落した親のような、そんな気持ちになってしまっている。今から結婚して子を授かる事など全く想像が出来なかった。
閉じかけていた瞼をそっと持ち上げる。
馬車が大きく揺れる。
トリテ広場の中に入り、終着場所である停留所へと向かっていた。
レナは膝の上に置いていたツバの狭いオリーブ色の丸帽子を被り直す。襟付きデザインの焦茶色の外套を羽織り直し鞄を肩にかけて降りる支度を整え終えると同時に馬車が止まった。
扉を開けると、秋の足音が近付いているような冷たい空気を感じて、レナは思わず小さく両肩をすくませた。早く家に帰ってベッドで眠りたい。
「ありがとう」
顔だけを後ろへ向けて御者に挨拶をする。料金は前払いしているため、降りてから御者とやり取りする事は特にない。
最終便の乗合馬車で、繁華街ペンシャットにあるペンシャット博物館前広場から終着のトリテ広場まで乗るのはいつもレナ一人だけだ。この日もいつも通りに簡単に挨拶して、すぐに馬車に背中を向け、家路へと急いで歩いて帰ろうとしたのだが。
「お待ち下さい」
「はい?」
まさか御者に呼び止められるとは思わなかった。
驚きながらレナは足を止めて振り返る。御者台から身軽に降り立った男は手早く馬車止めに馬車を固定すると、急ぎ足でレナへと近寄った。御者は大柄な男で、決して愛想が良い人物でもなかったため、レナは思わず眉をひそめてほんの半歩後退した。
全身黒ずくめの御者服に覆われた、がっしりと筋肉質な大きな身体を持っている御者の男は、この国の女性としては平均的な身長で普通体型であるレナが見上げる程に背が高い。濃紺色の長めの髪は前髪ごときっちりとかき上げて撫で付けるようにセットされ、黒の御者帽子を深く被っている。
立って近寄られるだけで威圧感が凄まじいのに、さらに表情までもが恐ろしく厳つい。不機嫌そうに眉間に深い皺を寄せて、金色の細い瞳は真っ直ぐにレナを捉えている。おそらく自分よりも少しばかり歳上の男。
まさかお金が不足していた?
尋ねようとする前に、御者の男は漆黒の外套の胸ポケットから一枚のカードを取り出すと、そのままレナに差し出してくる。レナは警戒心を隠さずにカードと男の顔を交互に見つめた。
「突然呼び止めてしまい申し訳ありません。私はティッジ・サルクスと申します。馬車業を営むベルティ社で御者として勤めている者です」
「はぁ……」
厳つい表情とは裏腹に丁寧に、事務的に自己紹介をされてしまい、とりあえず流されるがままにカードを受け取って見てみると、それは何の変哲も無い普通の名刺だった。
「……」
「……」
「もう遅い時間です。お気をつけて。では」
え?
呆気にとられてぱちぱちと瞬きしていたら、ティッジと名乗った御者は御者帽子のツバをつまんで軽く会釈すると、足早に御者台へと戻ってしまう。鞭を操り、何事も無かったかのように広場から去って行くティッジと馬車をぽかんと見送った。
「お金が不足していたわけじゃない……?」
何がなんだかさっぱり分からなかった。
名刺には名前と会社名、会社の住所しか書かれていない。裏返しても真っ白で、特別何かが記入されていた訳でもない。
「私も名乗るべきだったかしら」
つい警戒ばかりしてしまったが、あんなにも丁寧に自己紹介をしてくれたのに、はぁ、と気の抜けた間抜けな返事しか出来なかった事が少しだけ申し訳なくも思ってしまう。
しかし、レナは独身で、しかも街外れの静かな住宅街の小さな家に一人暮らしの身だ。
何かあってもすぐに頼れる人はいない。
自分の身は自分で守らなければいけない。
レナは不思議に思いながらも、ひとまず肩掛け鞄から手帳を取り出して、ティッジと名乗った御者の名刺を挟んでしまっておくことにした。
くらりとする。
視界がぼやりとぼやけている。
「あぁ、眠い……」
いつも馬車から降りた途端、眠気がどっと押し寄せてくる。レナは欠伸をしながら、足早に家への帰路についた。
*
二つの職場を掛け持ちしているレナは、どちらも同じ日に休日になるような全休日を毎月三日はとるようにしている。つまり全休の日以外は、毎日の行き帰りに乗合馬車を利用する生活をずっと続けていたのだ。
だからおのずと、名前やどんな人なのかは知らなくても、今日はこの人なんだな、と朝夕含めて数人の御者の顔ぶれは覚えてしまっていた。
ティッジと名乗った御者もよく知っている。
顔と雰囲気だけ、だが。
朝に彼を見たことは一度もない。会う時は必ず夕便か最終便の乗合馬車に乗る時だ。
御者の勤務形態は分からないが、夕便の御者の顔ぶれで浮かぶのは三人。年齢もバラバラだが、ティッジは三人の御者の中で一番若く体格も立派だった。
そして、怖い。
彼の笑顔は一度も見たことがない。常にしかめ面で眼力も強い。普通にしているつもりなのかもしれないが、目が合うと睨まれているように感じてならない。小さな子どもは怯えて親の影に隠れてしまう始末だ。他の二人の御者は朗らかだったり、さっぱりとした気性が感じられる四、五十代の男性であるためか、ティッジの怖さは余計に際立ってしまっているような気がする。
しかしお金のやり取りはスムーズだし、馬車の運転も荒くなく乗り心地も抜群に良い。
彼の動かす馬車の中でうっかり熟睡してしまい、到着した時ですら起きる事が出来ず、「着きましたよ」と大きな声をかけられて起こされてしまうという醜態を晒してしまった事も、思い出すだけで三度はある。
御者の彼が運転する馬車に乗り続ける生活はもう何年になるだろう。
過去を遡りながら、久々の全休日を過ごすレナは、自宅のキッチンの床を黙々と水拭きしつつ考えていた。
「六……七年かしら」
レナが二十歳、または十九歳頃の時には既にティッジは御者として働いていた筈だ。しっかりと記憶にある。彼は昔から今も様子も態度も変わっていない。行き先を告げてお金をやり取りして、下車した時に挨拶をするだけの、御者とお客という関係はそんなにも長かったなんて。今更ながらしみじみと驚いてしまう。
名刺をもらうあの日まで、そういえば彼の名前も知らなかった。そう思うと、少しだけ不思議な気持ちにもなってしまった。
知っているけれど全然知らない人。
レナにとってティッジという御者はそういう人だ。
一体どうして今更になって、あんな風に自己紹介をしてきたのだろう。
考えてもやはり分からない。
汚れた布に水を含ませて擦り洗いし、ぎゅっと固く絞る。
休日は遅く起きたらとりあえず掃除をして、食材の買い出しをして料理をして、後はゆっくりする。たったそれだけでレナの休日はあっという間に終わってしまう。一日が終わるのは本当に早い。
趣味と呼べる趣味も無い。
何か趣味を持ちたいな、と思いつつも、どうしても働く事を一番に考えておかないと不安になってしまうような質になってしまっている。
亡き両親、自立した弟妹との思い出が詰まった、一階建ての平屋の小さな木造の家。ガランと静かで物も少なく、一人暮らしには大きすぎるような家。昼下がりの陽射しがぽかぽかと心地よく窓から射し込んでいる。
「変ね。寂しいわけではないのに」
ぼうっと、キッチンからダイニングとリビングを見つめてレナは苦笑する。
十年以上も前、家族皆で賑やかに囲んだ木製のダイニングテーブル。テーブルを囲むように置かれた木製の五つの椅子。テーブルの中心には小さな一輪挿しが置いてあり、黄色の一輪の花がひっそりと飾られている。
寂しくはない。憂いも心配もなくなったのだから。
後は自分の生活を自分でちゃんと営む事が出来ればそれで良い。一人暮らしになって一年が経って、生活もとても落ち着いているのだから。
それなのになぜか心が少しだけ落ち込んでいる気がする。
でも、きっと気のせい。
掃除と片付けを終えたレナは鏡台の前に座って買い物に行く準備を始めた。
ほんの少しだけ癖のある栗色の髪はちょうど胸元辺りまで伸びている。ブラシを通して癖のある髪をほぐして、簡単にくるり一纏めにする。化粧も最低限に肌を整えると、あっという間に身支度を終えた。
普段仕事に行くときと変わり映えのない身支度だ。
鏡に映る榛色の小粒の瞳の下には、どんなに眠ってもまったく消える気配のない隈がある。この隈さえ化粧で消すことが出来れば、もうレナは満足だった。
十年以上、厨房を主に水仕事をし続けている両手は乾燥しがちで荒れている。同年代の女性よりも歳を重ねたように見えるであろう手に、あかぎれが出来ないように、これ以上乾燥が酷くならないようにと丁寧にクリームを塗り込む事は、どんなに眠くても毎日続けている大切な日課の一つだった。これをしないとますます手が荒れて酷い事になってしまう。
帽子を被って外套を羽織り、レナは近くの商店へ食材の買い出しに向かった。
面白みも刺激も何も無い。
ただただ静かで平穏で、平和な休日は、こうしてあっという間に終わっていくのだ。