遠い駅
不埒な手が肩から胸へと伸びようとするのを、パシリと叩く。
「もう、ダメだってば」
空いているとはいえ、電車の中だ。恋人とは言え、さすがに身体をまさぐられるのには抵抗がある。
「誰もいないって」
呟く祐司の声に顔を上げれば、正面の長椅子には誰もいない。鏡のような窓越しに映って見える範囲にいるのも、いちゃいちゃとくっついているカップル。つまり私と祐司だけだ。
「な?」
祐司がつぶやいて、またしても首筋を撫で、襟元から手を入れようとしてくる。熱い唇は、私の頬をなぞって耳たぶを甘噛みする。
「ん…でも、もしも誰か来たら…」
「誰も来ないよ。誰か来たらわかるって」
「でも…」
そう言いながら、祐司の手が身体をなぞるのを止められない。見ている人がいないとわかると、新宿のバーで飲んだカクテルが急に回ってきたような気がする。身体が熱い。
「な?」
そう言いながら、祐司の唇が、私の唇を掠めていく。
外なのに、とか。電車の中なのに、とか。いろいろ考えるけれど、誰もいないという一点で、理性が崩れていく気がする。
「もう…。ダメだってば」
口では言いながらも、首筋に口づける祐司の髪の毛を撫でる。ふわふわしてまるで猫の毛みたい。少し明るい色も猫っぽさを印象付ける。一方で私はストレート。真っ黒な髪に癖がつかないまっすぐな髪。本当は祐司みたいな髪が良かったと思うけれど、祐司は私のこの髪がお気に入り。
「ねえ、そういえば…まだ西前駅は通りすぎてないよね?」
ふっと思った。この時間は各駅停車のはずなのに、次の駅までが、やけに長い。そういえば、乗ったのは何時だっただろうか。あのお店は閉店が11時だったと思うから、そこから歩いて、駅で少し待って…11時半? 今、何時なんだろう。
時計を見ようとしたけれど、祐司ががっしりと私をホールドしていて、手を上げることもできない。
「ねえ、祐司、今何時?」
「いいだろ? そんなこと」
「でも…もうついてもいいころじゃない?」
祐司を押しやって、腕時計を目の前にもって来る。11時半。あれ? 電車に乗ったのはもっと早かったのかなぁ。そっか。店から駅まで30分もかからないか。記憶違いだったのかも。
しばらく祐司とお互いに触りあって、べったりとくっついて、でもまだ駅にはつかない。顔を上げると、目の前の窓が鏡のように、電車の中と私たちを映している。そのことにふっと違和感を覚えた。なんで外が真っ暗なんだろう…。
そうだ。都会では夜に完全に闇になることなんてない。街灯だったり、家の灯りだったり、車のライトだったり。外から何かの光が入ってきてもおかしくない。それなのになぜ?
「ゆ、祐司?」
「ん?」
「今、この電車、どこを走っているのかな?」
「さあ?」
祐司は外を向いていた私の頬を撫でる。
「外がね」
「ん?」
「真っ暗なの。灯りが何もないの」
そう言ったとたんに、祐司も窓の外に目を向ける。
「寝過ごしたか?」
「私たち、寝た?」
「酔ってたからなぁ。終点に近いのかもしれないなぁ。この路線って、終点まで乗ると隣のその先の県まで行くぞ」
「そうなの?」
「遅い電車だと、先の方まで行くんだよ。俺の友達が無人駅で降りて寒い思いしたって言ってた。真冬じゃなくてよかったって」
「わー。それ、嫌だなぁ」
窓の外の暗さが、得体の知らない怖さから、無人駅かもしれないという怖さに変わる。でも夏だし。祐司と二人で朝まで駅で待ってもいい。馬鹿なことしちゃったって、そのうちに笑い話になるだろう。
駅に着いたら下りようと思っているのに、まだ駅につかない。各駅停車のはずなのに。田舎だと駅と駅の間は距離があると聞いたことがある。この電車もそうなのだろうか。
「まだ着かないね」
「そうだな」
祐司も私に触れるのをやめて、じっと窓を見ている。窓の外には何も見えない。灯りも見えなければ、私たち以外の乗客も見えない。
「駅に着くまで待つしかないよね」
「そうだな」
これ以上何かを言うと、違うことに気づいてしまいそうだった。もう30分以上走っているのに、なぜ次の駅に着かないの? とか。いくら田舎でも1軒ぐらい灯りがついている家があってもいいよねとか。
ふっと思ってスマホを取り出す。GPSなら場所がわかるかもしれない。しかし表示を見て、私の手は震えてスマホを落としてしまった。
表示されていた時間は11時半だった。