序:理由
「アンネ…………ただ今をもって、君との婚約を破棄する」
「――!!」
国中の貴族が集まる夜会の席。
私と皇太子であるヨハン様が中心となり、優雅な演奏に乗せてワルツを踊り終えた直後、ヨハン様の口から青天の霹靂とも言うべき言葉が発せられた。
そのあまりの衝撃に、辺りは音を失ったようにしんと静まり返っている。
「……どういうことですか、ヨハン様」
私はやっとの思いで、そう一言だけ絞り出した。
「……どうもこうもない。今言ったことが全てだ。――君と僕は、今この瞬間から――ただの赤の他人だ」
「そんなッ――!!」
男女問わず魅了する美しい顔を歪ませながら目を逸らすヨハン様が、手を伸ばせば届くところにいるにもかかわらず、私には酷く遠く感じた。
「納得出来かねますッ! せめて……、せめて理由を仰ってくださいッ!」
確かに私とヨハン様は政略結婚による婚約を結んだ仲。
――でも、私は心からヨハン様をお慕いしていたし、ヨハン様もそうであってくれると信じていたのに――。
「……理由はない。とにかくこれは決定事項だ。――さようなら、アンネ」
「――!! ヨハン様ッ! ヨハン様ああ!!」
有無を言わさず背を向けて去っていくヨハン様に手を伸ばすも、その手は何も掴むことは出来なかった。
私は困惑と焦燥がないまぜになったグチャグチャの心のまま、ヨハン様の背中をただ呆然と眺めていた。
――そしてあの悪夢のような夜会から三ヶ月。
「……ハァ」
私は侍女であるヘラが淹れてくれた紅茶を手にしながら、牧歌的な風景が広がる窓の外を溜め息交じりに見下ろしている。
「また溜め息ですかお嬢様。あなた様も存外普通の方だったのですね」
「なっ!? わ、私は元から普通よ! たまたま貴族の家に生まれたというだけで、私自身は何も特別なものは持っていないわ!」
「左様でございますか」
悪びれもせずいつものポーカーフェイスでしれっと言うヘラに、私は怒りさえ通り越して、むしろ心の奥が少しだけ温まったような感覚がした。
……きっとヘラはヘラなりに、私を元気づけようとしてくれているのだろう。
ヨハン様に婚約を破棄されて以来、帝都にいづらくなった私達一家は、この帝都から遠く離れた田舎町に半ば逃げるように引っ越してきた。
ここにいればヨハン様の存在を近くに感じずには済むものの、その分ヨハン様と共に過ごした時間が頭の中を駆け巡り、思わず涙が溢れてしまうことも少なくなかった。
早くヨハン様のことは忘れなければと自分に言い聞かせるのだが、自分の心程自分の思い通りにならないものはないと、再確認するだけの日々。
……確かに私はヘラの言う通り、ただの弱い一人の女なのだ。
「号外、号がーーーい!!!」
「「――!!」」
その時だった。
窓の外で、新聞配達員が血相を変えて号外をばらまきながらこちらに駆けてきた。
号外……?
いったい何が……。
「私が取ってまいります」
「あ、ええ」
言うや否や、音も立てずヘラが部屋から出ていった。
私の中で、言いようのない不安が渦巻いていくのを感じた……。
「――せ、戦争!?」
「……はい、どうやらそのようですね」
ヘラが取ってきてくれた号外の内容は、要約するとこんなものだった。
昨夜、突如として我がツァウバール帝国に、隣国のエインズ合衆国から宣戦布告が叩きつけられた。
我が国はそれに応じ、本日帝都の西部に位置するクリーゲ平原にて、エインズ合衆国との合戦が開始された。
その戦力差、我が軍の兵士四万に対し、敵方は実に倍の八万――!
しかも我が軍を指揮しているのは――。
「ヨ、ヨハン様が――!?」
「……はい」
我がツァウバール帝国は、太古の昔から優れた魔術師達の手によって繫栄してきた国だ。
そして今現在、その魔術師達の頂点に立つのが、皇太子であるヨハン様――。
ヨハン様は初代皇帝であるヨハネス様の生まれ変わりではないかと噂される程、桁違いの魔力を有されている方。
他国との戦争ともなれば、自らが指揮官として前線に立つことは不思議ではない。
――でも、今回はあまりにも戦力差があり過ぎる……!
いくらヨハン様が我が国最強の魔術師でも、これでは……。
「……そういうことだったのですね」
「――え?」
ヘ、ヘラ?
「ここを見てください。エインズ合衆国が不穏な動きを見せ始めたのは、今から約三ヶ月程前からと書かれています」
「――!!」
三ヶ月前――!!
それって……。
「民の混乱を避けるため、上層部のごく一部の人間にしか知らされていなかったようですが。――当然ヨハン様はこのことをご存知だったはずです」
「……そんな」
つまりヨハン様は、私を戦火から遠ざけるために、婚約破棄を……!?
「ヨハン様らしいといえばらしいですが」
ヘラがポーカーフェイスで、ぼそりと呟く。
……あ、ああ、ヨハン様。
……ヨハン様……!!
あなたの真意にも気付かず、私はこの三ヶ月……。
何てバカだったの……。
「……どうされますか?」
「――え?」
「ここからクリーゲ平原まで、馬車で飛ばせば半日もあれば着きます」
「――!!」
滅多に表情を崩さないヘラが、珍しく口角を少しだけクイと上げた。
……ヘラ。
「――ありがとう、ヘラ。すぐに馬車を用意してもらえるかしら?」
「かしこまりました、お嬢様」
ヘラは軽く頭を下げると、またも音もなくこの部屋から姿を消した。
――もう私は迷わない。
待っていてくださいヨハン様。
今、あなたの元へまいります。
「ど、どこに行こうというんだアンネッ!!」
「お、お父様! ……お母様」
ヘラが用意した馬車に乗り込もうとしたその刹那、お父様が息を切らせて屋敷から出てきた。
その後ろからは、優雅な足取りでお母様も歩いてくる。
お父様の手には号外が握られていた。
「お前の家はここだ! もうお前は、皇室とは何の関係もないんだッ!!」
「っ! ……お父様」
顔を歪めながら涙ながらに訴えてくるお父様を見て、私は全てを察した。
――おそらくお父様とお母様だけは、この戦争のことをご存知だったのだ。
むしろヨハン様からあらかじめ伝えられていたのかもしれない。
そして私のためを思い、今日まで心の中だけに押し留めていたのだろう――。
「……ありがとうございますお父様。……ですが私は、どうしても愛する方の元へ行きたいのです」
「あ、ああ……」
お父様はその場に頽れてしまった。
「アンネ」
「はい、お母様」
そんなお父様とは対照的に、お母様は背筋を伸ばし凛とした態度で語りかけてくる。
「一つだけ約束してちょうだい」
「……?」
約束?
「必ず、生きて帰ってきなさい」
「――!! ……わかりました」
「ふふ、久しぶりに、帝都名物のガトーショコラが食べたいわね」
「お土産に買ってまいりますわ」
「よろしくね」
話は終わりとばかりに、お母様は小さく微笑んだ。
……ありがとうございます、お母様、お父様。
「ヘラ、出して!」
「はっ!」
ヘラが馬に鋭く鞭を打つと、馬車は疾風の如き速さで駆けだした。
お父様とお母様の姿は、瞬く間に遠く小さくなっていった。