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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

いばしょのばしょ

作者: 砂原翠

手に入らない、きらきら。掌中に残った、温もり。


「妹? 似てねーのな」

 玄関を上がったら、不躾な声が迎えた。反射的に睨み付ければ、兄が取り成すように言った。

「結季は母さん似なんだよ」

「ふうん」

 兄の友達らしき学ランの男の、品定めする視線が癪に障り、私はわざと足音を響かせながら廊下を抜け、階段を上がった。擦れ違う時、背も高く骨格もがっしりした兄の、薄い眉が困惑を乗せて下がるのが視界の端に映り、私は余計に苛立ちを覚える。自室のドアを荒っぽく締め、ベッドに倒れ込む。

 幼い頃、私たちは仲の良い兄妹だった。

 いつも一緒に遊んだし、二人で悪戯して、肩を寄せ合って隠れた。

「結季ちゃんは、ちっちゃくてふわふわで可愛いねえ」

 目尻をきゅっと下げて笑う兄の顔を、頭を撫でる幼い指を、今でも鮮やかに思い出せる。歯車が狂ったのは、あの晩からだった。

「信じられない、何考えてるの!」

 リビングから聞こえてくる母の金切り声に、私と兄はソファの陰に蹲った。

「親権はどうするつもり」

「結都は跡取りなんだから、俺が引き取る」

 父の冷たい声に、触れ合った兄の肩が震えた。

「じゃあ結季は、私が連れてくから!」

 指の先がじんと痺れた。私たちは、父と母にそれぞれ選ばれたのだ、と分かった。と同時に、父と母からそれぞれ、要らないと切り捨てられたのだと思った。稚く混じり合うように寄り添っていた兄と私は、そのとき見えない亀裂で分かたれた。

 結局両親は離婚せず、しばらくして年の離れた妹が生まれた。

 ドアが掠れた音を立て、ゆっくりと開く。僅かに空いた隙間から、望結が小さな頭を覗かせていた。

「おねーちゃん」

 舌っ足らずな口調で言い、大きな黒目で甘えるように見上げる。私はベッドの上で起き上がり、乱れた髪を手櫛で整えながら言った。

「おいで」

 ぱっと妹の表情が輝く。望結は幼い足取りで部屋の中に入り、短い脚でベッドによじ登って私の膝の間に座り込んだ。愛されると分かり切っている仕草で、きゃらきゃらと笑いながら私の腹にしな垂れかかってくる。

 昔、妹が嫌いだった。仲を修復した両親のどちらもから、惜しみない愛情を注がれる愛らしい命が、憎らしかった。反対に、兄は妹をめいいっぱい可愛がった。兄はきっと、望結を私の代わりにするのだろうと思った。私以外のすべてに受け入れられた妹が許せなかった。

 けれど、おかしなことに妹は私に一番懐いた。

「おねーちゃん、大好き」

 そう言ってまろい頬を擦りつけ甘える姿は、頑なな心が絆されるほどに可愛らしく、柔い心が怯えるほどに無防備だった。

「みーちゃんは、ちっちゃくてふわふわで可愛いねえ」

 私は口ずさんで、彼女の細い髪を撫でた。望結は、この家庭に何が渦巻いているかを知らず、姉がこの指先にどんな感情を込めているのか考えもせず、純粋に愛されることを疑わない。

 無知な妹に思い知らせてやりたい。獰猛な自分が言う。

 無垢な彼女が一生気付かないといい。そう願うのは、優しさか、諦観か、虚脱か。

 兄は次の春、大学進学のために家を出る。彼は北海道へ行く。実家へは、飛行機を使わなければ帰れない。

「逃げるの」

 そう聞いたことがある。レースのカーテン越しに、斜陽が差し込むリビングのソファに座って、兄は困ったような、宥めるような、本音を隠した表情をした。

「結季も」

 彼は、私の名前を、滑らかに、湿った感情を込めて発音した。

「父さんでも母さんでもない、自分の居場所が見つかるといいな」

 怒りとも嫉妬ともつかない、瞬発的な激情が私の中で弾けた。あなたがそれを言うのか。けれど、思いが言葉を伝って舌を操る前に、急激に苛烈さは冷めていき、ただ倦怠感だけが体に残った。

「うざ」

 私は兄から視線を外し、言った。学校指定の、紺のソックスを履いた爪先で、カーペットの毛並みを逆立てる。

「悪い」

 吐息のように、軽く笑ったように、兄は呟いた。反射的に、私は息を吐く。

「謝るな、バカ!」

 強く兄を睥睨すると、たじろぐ彼が瞳に映って、私は勝ち誇ったような、泣きたいような気持になってドアを蹴って彼から逃げた。

 一緒にいても、いなくても苦しい。

「おねーちゃん?」

 望結が私の顔を覗き込み、ふっくらとした手の平を差し出した。触れないで。刹那願ったが、その温かい体温がいざ肌に接すると、自分が求めていたのはこれだったのだと腹落ちする。私は妹を抱擁した。

「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、望結のこと大好きだよ」

 この子にはここしか居場所がない。彼女が気付くその日まで。それまではまだ、ここで。

 望結は幸せそうに、鼻にこもった笑いを零し、肩を竦めた。


 この人は、どうしてあたしのことを愛していないのに、慈しむみたいな目であたしを見るんだろう。

 お姉ちゃんを見ていると、そんな疑問が胸に浮かぶ。八つ離れた看護師の姉は、母に似た色白の美人で(あたしは父さん似の地黒)、穏やかで賢く(おっちょこちょいなあたしと違って)、出来の悪い妹に大層優しくしてくれる。仕事終わりで疲れてると思うのに、あたしがつまんない高校の話をしても楽しそうに聞いてくれるし、あたしの寝ぐせや制服のリボンの曲がりを「仕方ないなあ」って直してくれるし、あたしが熱っぽかったりちょっと体調が悪いと一番に気付いて心配してくれる。

 お姉ちゃんは、あたしに献身的に尽くしてくれてると思う。だけど彼女は、あたしを別に愛したりしていない。そんなの分かる。だって、お姉ちゃんがあたしを見る表情は妙に冷めているし、あたしが巫山戯てじゃれつくとそっと距離を取り、「お姉ちゃん大好き」って言っても絶対に「私も」って言わず「ありがとう」って言う。

 愛されていないということは、仕方ないかなって思う。そりゃ寂しいけど、家族だからって無条件に相性が良いわけじゃないし、馬が合わないこともあるだろう。だけどお姉ちゃんは、あたしを愛していないのに、めいいっぱいあたしを大切にしてくれる。その優しさは、たぶん愛情と呼んで遜色ないくらい、あたしを泣きたい気分にさせる。

 北海道で就職した兄貴が珍しく帰ってきてた時、相談したら笑い飛ばされた。

「望結は抱っこおばけだからなあ」

「は?」

 あたしはソファに座った足を振り上げ、同じくソファの端に腰掛けた兄の太腿を蹴り付けた。

「どういう意味、てかそれ悪口でしょ」

 き、と睨み付ければ、腹立たしいことに兄は鷹揚に笑い声を上げた。

「早く北海道帰れよ兄貴」

 憎まれ口を叩いていると、「ただいま」とお姉ちゃんが帰ってきた。

「おかえり、お姉ちゃん!」

 立ち上がって駆け寄ると、姉は私に微笑み掛け、憂いと熱を帯びた瞳で兄を見た。

「お兄ちゃん帰ってたの」

 兄貴は嫌いだ。兄といる時のお姉ちゃんは、なんだか切なくて、綺麗だから。

 お姉ちゃんが好きだった。お姉ちゃんの心が欲しかった。お姉ちゃんみたいになりたかった。

 姉がいる友達は、姉なんて鬱陶しいだけだと言う。

「姉貴ー? ちょー仲悪いよ、うち」

 胡坐をかいた彼女は、八重歯を見せて笑った。私は彼女の部屋のカーペットを這って友人ににじり寄った。

「えー、なんで? 絵梨ちゃんにそっくりのお姉ちゃんじゃん」

 彼女はパサついた茶髪を首から払う。

「いやいや、似すぎて無理。どっちも性格きついから、好きなものの奪い合い。小さい頃は喧嘩ばっかりだし、姉貴が大きくなったら小言ばっかり口うるさい、嫌い」

 はー、とあたしは大袈裟に声を上げた。

「喧嘩! いいな、羨ましー」

「あ? 意味わからん」

 顔を顰めた彼女に、あたしはへらりと笑い掛ける。

「あたしさー、お姉ちゃんと喧嘩したことないんだよね。結構年離れてるし、お姉ちゃん大人だからいっつも優しくしてくれる」

「ひえー、そっちのが羨ましいわ、交換しろ」

「えぇ、やだやだ、お姉ちゃん大好きだもん!」

 姉のことが大好き。家族にも、友人にも、先生にだって屈託なく言える。だって本当のことだから。

 お姉ちゃんはこんなにあたしに優しいのに、どうしてあたしのこと好きじゃないんだろう。どうして惜しみなく愛を注ぐのに、好きになってくれないんだろう。

 慈しまれることに慣れてしまうと、際限なく欲しくなって、泣きたくなる。

 気を引きたくて、「宿題分かんないー」と泣きつけば、姉は快く休日の午後に時間を割いてくれた。窓から差し込む白い陽光に満たされたリビングに更に蛍光灯を付けて、テーブルに数学のワークを広げた。「どこが分からないの」と穏やかに問われ、戯れに「全部!」と甘えれば「もう、望結は」と笑って許してくれる。愛されてると錯覚させてくれる。

 大好きなのに、憎くて苦しい。

 それなのに、この痛みさえ姉を好きな気持ちと一体になって愛おしいのだ。

「望結は、志望校決めたの?」

 下校中、絵梨ちゃんが尋ねた。あたしは「んーん」と首を振り、「絵梨ちゃんは?」と問い返す。すると、彼女は少し誇らしげに断言した。

「まだ。でも絶対県外行く」

「えー、なんで?」

「下宿したいからに決まってるじゃん」

「あー、一人暮らし! あたしもしたいー!」

 想像しただけでも、気分が華やいだ。両親が積み重ねたルールが張り巡らされた実家は、慣れてしまえば居心地がいいがやはり窮屈さが拭えない。自分が選んだ部屋で、自分が選んだ家具に囲まれて、自分だけのペースで生活する毎日は、不便を差し置いても魅力的に思えた。

「でも、望結ん家って結構厳しいよなー」

「そうー、絶対お母さん駄目って言うー」

 口では愚痴りながら、頭では別のことを考えていた。独り暮らしは無理でも、姉との二人でなら? お姉ちゃんとなら両親を説得して実家を出られるかもしれない。

 我ながら素晴らしい名案に思えた。姉と二人で生活を築き上げる。家事を分担して、献立を相談して、休みが合えば二人で買い物をする。たまに夜更かしして恋話したりして、気が向けば一緒にお菓子を焼いたりする。そんなの、最高すぎる。

 夕方、意気揚々と姉の部屋を訪ね、切り出した。お姉ちゃんは、淋しい顔で笑った。

 古い学習机とセットの椅子に座って、僅かに首を傾げ、眉を下げる。姉のベッドに腰掛けたあたしは、間違えたのだと血の気が引いていくのが分かった。

 知っていたのに。あたしは、お姉ちゃんの特別じゃない。

「ごめん」

 固い声で告げれば、姉は優しく「どうして謝るの?」と問う。

「あたしの存在が、お姉ちゃんを悲しい気持ちにさせるから」

 言葉にすれば、痛みが胸の奥で弾けた。心が切り裂かれるたびに、あたしは本当にこの人のことが好きだと思い知る。涙が零れるのをぐっとこらえれば、姉はすっと表情を消した。

 長い睫毛でゆっくりと瞬き、静かな溜息と共に言う。

「結局、望結を一番傷付けるのは私なんだね」

 こらえきれない雫があたしの頬を滑った。濡れた顔で必死に笑う。

「お姉ちゃんにもらった傷なら、あたし一生大切にするよ」

 諦めたように、彼女も力なく笑う。

「じゃあ私にも、大切な傷をちょうだい」

 その週末に、あたしはお姉ちゃんの長い髪を切った。ベランダに簡易椅子を持ち出して、バスタオルで姉の細い首筋を包み、豊かな黒髪に刃を滑らせる。風が少し冷たくて、お姉ちゃんが風邪を引かないか心配だった。お姉ちゃんも「寒くない?」って心配してくれて、ちょっと泣けた。

「お姉ちゃんには、ショートが似合うってずっと思ってたんだ」

 短くなった細い髪が、夕焼けに靡く。振り向かないまま姉は言った。

「望結は優しいね」

「ううん、あたしがお姉ちゃんを閉じ込めてたんでしょう」

 脆い心が、砂のように砕けていく。茜色に染まる。

「違うよ、私が望結の隣を選んだんだよ」

「お姉ちゃんに一瞬でも選んでもらえて、あたし幸せだった」

「ごめんね。いいお姉ちゃんになりたかった」

 髪の切れ端に塗れた手で、あたしは乱暴に目元を拭った。

「いいお姉ちゃんじゃなくていいから、本当のお姉ちゃんに触れたかった」

 少し冷えた手が、あたしの手首を掴んだ。姉の薄茶の双眸が、あたしを覗き込んでいた。

「まだ、間に合う?」

 途方に暮れた子供みたいに、彼女は言った。あたしは何にも言えなかった。逡巡しながら彼女は言葉を紡ぐ。

「私、本当はお姉ちゃんじゃなくて名前で呼んで欲しかった」

 確かめるように、祈るように、ひとことずつ私は声を紡ぐ。

「じゃあ、これからは結季ちゃんって呼ぶね」

「パフェとか食べに行くんじゃなくて、映画とか観に行きたかった」

「へえ、結季ちゃんはどんな映画好きなの?」

「スプラッター」

「ひえー、バイオレンスだー」

 髪の毛と西陽に汚れながら、あたしたちは友達みたいに他愛なく笑った。

「今やってるので、結季ちゃん観たいのある?」

「魔王のはらわた」

「あはっ、じゃあ次の休みそれ観に行こ」

「えへ、楽しみ」

 あたしたちはやっと、幾重にも張り巡らされた姉妹のルールから抜け出して、互いの輪郭に触れ合った。熱くて痛い。でもそれが本当だった。

 翌週映画を観て、ポスターの前で二人で自撮りした。アプリで兄貴に写真を送り付ける。

「あの野郎、望結のこと抱っこおばけって言いやがったんだよ、むかつくー」

 むくれながら、「クソ兄貴」とメッセージを打つ。結季はくすくすと笑って、「あいつ、望結のこと溺愛してるからさ」と揶揄う。

「はー、嫌ってるの間違いでしょー」

 茶化して、でも結季が兄のことを話してももう切ない顔をしなくなったのが嬉しかった。彼女のようにはなれないし、彼女を手に入れることもできない。それでもよかった。ゆるくてぬるい幸福でも、幸せになることを受け入れてくれた。それだけで、もう。


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