99.長い一日の始まり
雲の多い日だった。
重たそうな灰色の雲が、ゆっくりと流れ、空を覆っていく。
「シィー? どうしました?」
じっと空を見上げたまま、立ち尽くしていたレアへ、ルイスは一瞬の躊躇の後、声をかけた。
「…ざわついている」
空を仰いだままのレアが呟いた。
昼餉にカイザックは険しい顔でやって来た。
「レア、これは何だ?」
食事中のレアの腕を掴むと、部屋の隅へ強引に引きずる。青い双眸の奥で、ギラギラとたぎる炎に、レアは苦笑した。
「ざわついてるね。わたしに分かるのは、それぐらいだよ」
「嫌な予感がする」
「うん」
レアも同感だった。
空に張った糸がざわついている。喜びとは逆の感情で、でも、それはごく僅かで、どこがどういう事になっているのかを理解するには、あまりに漠然としていた。
「でも、気を付けた方が良いね。街の方も警備増やした方が良いかも」
まさか、これが後になって、大きな誤解を生むことになるとは、この時誰も思いもしなかった。
「これからの、皆の予定はどうなっている?」
部屋の隅から、カイザックは食卓へ向かって問いかけた。カイザックのいつにない様子に、室内は張り詰めたものが漂っていた。
「私とバローナ様、イリア様は、午後から例のシスター達の所でお茶会です。数名をお招きしています」
ルイスの報告に、カイザックはレアを見下ろした。
「お前は?」
「わたしはアルファを連れて、闘技場見学だよ。今日は、護衛二人の大暴れ解禁ディだから」
時々は好きに大暴れさせておかないと悪さをするペットの様な言い様に、一瞬カイザックは破願する。しかし、すぐにアレビアへ視線を向けた。
「悪いが、アレビア。特に予定がないのであれば、ルイス達と共にいてくれ」
「…後宮も安全ではないという事ですか?」
アレビアの返答に、カイザックは苦い顔をする。
「後宮は男の護衛が入れられない。緊急時は除外されるが、何も起こっていない今、特例は適応されない。そうなると、心もとない」
カイザックの弁を理解した彼女は、静かに頷いた。
「悪いな」
アレビアからの肯定に、ひとまず安堵したようにカイザックは苦笑する。
「でも、何かおかしくない?」
「あぁ、どうやら他国の介入があるな。ユリミアの地方貴族がやたらと傭兵を雇っているって話も届いて来ている」
国内の反発勢力の背後に、他国の介入があるのは分かっていたが、今までは大きな動きはなかった。資金の軽微な提供程度であったが、ここに来て急速に動き始めている。
「悪いな、こんな国情で連れてきて」
苦い物でも呑み込む様な顔で、そんな事を言うカイザックに、レアは笑った。
「貴方の願いは、わたしの願いだよ」
共に戦うなどと口にしたら、きっとどこかに閉じ込められてしまいそうなので、レアはそう応えた。恐らく、レアの真意など、見透かされてはいるのだろう。カイザックはレアの頭を撫でた。
「無理と無茶はするなよ」
「うん、約束だもんね」
にっこりと笑って応え、レアはチラリとアレビアへ視線を向けた。
「彼女は白だ」
その意図を読んだカイザックが低く囁く。
ユリミアはアレビアの故国だ。表面上は、未だ和平は結ばれたままになっている。
アレビアに密偵まがいの事は出来なくとも、彼女からの日常の便りでロイヤの内情を読み取る事も出来る。
しかし、アレビアがユリミアを離れてから、彼女へ故郷からの便りが来ている様子は皆無である。彼女が惜しまれて国を出たとは、とても思えなかった。
「人質ごと、どうにかなっても、…気にしないって事?」
レアの擦れた問いかけに、皇帝は苦々しげに、そうだとだけ答えた。
闘技場の中に入ったアルファは、周囲を見渡して呆気にとられた。
「大会でもないのに、活気が…」
「ちょっとしたバカ騒ぎだよね」
ロイヤに来て三か月。毎週、同じ時間に道場破りならぬ、乱闘希望で乱入していれば、相手もそれなりの用意をしてくるようになっていた。
中央にはすでに待ち構えている屈様な兵士たちが集まっていた。
「おっ! もう集まってるな」
後から入って来たティンが嬉しそうに言う言葉を聞きながら、レアはデッドの傍らに黙って立つモモに視線を向けた。彼女の目が一瞬レアを見返すと、静かに瞼を伏せた。
「ねぇ、アルファ」
巨人の護衛二人と別れ、観客席の空きを探して奥へ歩きながら、周りを見渡している義弟に声をかける。周囲を見渡しているアルファは生返事を返してきた。
「今日、自分が何処に行くかは、誰かに言ってきた?」
「家の者には言ってある。言ったから、護衛が二人も付いて来てるんだろう」
図書館では護衛も付けずに一人でいたのだが、今日は屈強そうな護衛が二名付いている。どちらもスズリムガート家御用達なのか、見たことがない。名を訪ねたが、視線すら合わせてもらえなかったのだ。ただ、この辺りでは見ない顔立ちだなとレアは思った。
「そっか。…まぁ、いいか」
こっそりと周囲を見渡しながら、レアは諦めたようにため息を吐いた。モモはただ黙々と自分の後ろをついてくる。
会場の見える一角に腰を下ろす。喧騒の中、舞台となる中央のデッドと目が合った。
(まぁ、想定外は起こらないと思うんだよね)
自分に話しかけてくるザッカ遠征組の兵士と話をしたり、アルファと話をしている間に、スタートの合図とばかりに剣の打ち合う音が響き渡った。
同刻、茶会場に到着したルイスは、護衛の人数に驚いた。
「普段からこの人数なのですか?」
お互いの自己紹介を終えて、ルイスはマリアにこっそり聞いた。
「いえ、今日はお客様がいらっしゃるからと増えたのだそうです。街の方も警備兵がいつもより多いそうで…何かあるのでしょうか?」
「街の方は、警備兵の訓練だそうですよ」
兄から言われた言い訳を口にしながら、ルイスはこっそりと辺りを見渡した。侍女達が怯えるほどには、いかつい護衛がずらりと並んでいる。
(お兄様やシィーの懸念が、思い過ごしであればいいけれど)
屋敷の中にある会場へ向かいながら、ルイスは空を見上げる。
重い雲が重なって、空を覆っていた。
男はにやりと笑んだ。
「では、始めよう」
男の合図に、ビクッと身を強張らせた彼は、自らの強張った拳をさらに握りしめた。
「…もう一度、計画を練り直しませんか」
絞り出すように発した言葉を、その場の誰もが鼻で笑った。
「今さら、引き返せませんよ」
「目障りな小娘が、これ以上、何かする前に、始末をするべきでしょう」
「…」
自分の心臓が喉から出てきそうなほどの息苦しさを、彼は必死で飲み込み、周囲へ視線を向ける。
「本当に…誰も犠牲にしないで下さい」
しかし、返答は薄い笑みを浮かべた唇だった。
「そんな約束、したことはありませんな。あちら様は、人質が巻き添えになってもやむなし、と仰せだ」
「!」
その瞬間、彼は蹴るように席を立っていた。
止めに入る腕をかいくぐり、入口へ向かって走り出す。
ついにラストスパートに入りました。
題名通り、「長い一日」が始まっていきます。
正確に言うと、長い午後だよな。




