8.王の送り魂
流石に魔女と言うべきなのか、レア・シィー・ヴァルハイトは次々と要求を提示してきた。男がそのどれもを受け入れたのは、捕虜の扱いにおいて、大国のプライドに関わるものだったからだ。
十分な治療と食事を提供すること。
彼女の訴える言葉は穏やかで、取り乱す様子も恐怖する様子も見られなかった。
だが、その瞳の奥に、微かに―――ほんの微かに、焦りを見つけた。
「拠点を構えるのでしたら、わたし達が今設置している場所が、水場も近くて良いですよ」
地図を指示しながら、魔女は言った。
なるほど、水場も近く、雑木林が上手く目隠しになっている場所だった。地図の上をするすると動く細い指が、何気なく目に留まる。
「正直に申し上げれば、動かせない負傷者もいるので、無理な移動がしたくない、と言うのが本音です」
そう言って、魔女は苦笑した。
「陛下、どうなさるおつもりですか」
困惑と懸念の混濁したような問いかけが、背後からかけられる。ゆっくりと馬上に揺られながら、案内人として先頭を行く傭兵二人を見ていた男は、側近の中でも一番の忠臣であるジルドの問いに軽く振り返った。
「ここまで相手の要望を聞いてやることはありません。陛下ともあろうお方が、魔女の策略に嵌ったと申されますか」
ジルドの言い分に、男はわずかにその可能性を考えて、違うと笑った。
「あれは策略ではないだろう」
あの指揮官は、自分の欲しいものと差し出せるものを、包み隠さず提示しただけにすぎない。自分の価値を高らかに謳い、高待遇を要望することも出来ただろうが、それをしないのは、自分がこのザッカにおいて、人道にも劣る戦略を繰り返した事を引け目に感じているからだ。
どれほど不利な状況であろうとも、自国を守るためならば、どんな手段も講じなければならない―――それを自身が絶対の正義であると、思い切れていないのだ。
お花畑も、良いところだ。
「ですが、…一体どうなさるおつもりですか」
卑怯なゲリラ戦を三か月繰り返した結果、ロイヤの兵には恐怖と同時に強い嫌悪感が植えつけられている。命を差し出すと言った魔女を、最大の辱めを与えて処刑し、その首をさらしてもなお、怒りが収まるかは分からない。
「…とっくに覚悟を決めてるような奴を処刑しても、多少の鬱憤が晴れるだけだ」
さて、どうしたものかと男は顎を撫でた。
マリーノの拠点に到着した時、その場は一種の異様な空気が支配していた。
十数個のテントが張られ、中央の小さな広場に炊事場が用意されていた。炊事担当の者らしい数名が、夕餉の用意をしようとしているようではあるのだが、どの顔も鎮痛な面持だった。
それを最初、降伏した事への不安から来るものかと思ったが、500のロイヤ兵が続々と到着する中でも、彼らはこちらにあまり注意を払っていないようだった。
「皇帝陛下、シィーが…指揮官が、こちらに立ち会ってほしいと」
その異常な空気に疑問を持ち始めた頃、正規軍の先ほどの三人の内の一人が呼びに来た。
皇帝陛下を直々に呼びつけるなど、礼儀もなってないといきり立つ部下達の言葉をさえぎって、男は伝言してきた者を見た。
忠実そうな壮年の使者は、一瞬身を強張らせたが、意を決したように口を動かした。
「私は副官のセイルと言います。先ほど、…ロイヤ兵の一人が息を引き取ったので、可能ならば一目逢ってほしいと…」
言いながら、セイルは深々と頭を下げて、絞り出すように声を出した。
そこで初めて、男は交渉の場から慌てて帰っていった魔女の行動の意味を理解した。
「案内しろ」
引き止める側近たちの声も聴かずに、皇帝は腰を上げた。
足早に進むと、20名ほどの人だかりが出来ていた。
ロイヤの軍服を着た者がほとんどだったが、中にはマリーノの兵もいた。その誰もが傷付き、お互いを支え合いながら、その場に立ち尽くしていた。
「二か月も…よく頑張ったよね」
少女のものと思われる声が微かに聞こえた。
人だかりの中央で、横たえられた身体の傍らに跪き、それは俯いていた。
「国に帰ったら、結婚するんだって…こいつ…」
少女の隣に、支えられながら立つロイヤの青年がボロボロと泣きながら、嗚咽を漏らしていた。少女の頷く小さな相槌。
「看取ってくれて、ありがとう、シマ。きっとトムも、それだけで安心できたよ」
言って、魔女は表を上げ、遺体の対面に同じように跪いていた人物へ視線を向ける。
「トムの家族に、トムは国と家族のために戦ったとお伝えください、エゲード将軍」
「…分かった」
一瞬の間の後、男にとっては聞きなれた声が肯定を発した。
瑠璃色の瞳が伏せて、再び横たわるトムへ向けられる。細い指先がその額から頬に触れた。
「…大丈夫。魔女は地獄に落ちるから…」
囁くような声は、男の胸中をひどくイラつかせた。
「お前は自分が全てを背負えるとでも思っているのか」
胸の内のいら立ちを抑えながら、男は声を上げた。驚愕と畏怖で開いた人垣をズカズカと進み、跪く少女を見下ろす。
目を見開く瑠璃色が、瞬いて困ったように笑った。
「戦争なのだ。自国を守るために部下が命を落としたとしても、前に進まなければ、後ろにいる国民が蹂躙されるのだぞ」
男の鋭い双眸に、いら立ちを見とって、レアは困った。皇帝である男の言う事は、至極当然の事で、自分がいかに甘いかを、十分すぎるほど理解もしていた。
お前は軍人には向いていないと言った師匠の笑顔が浮かぶ。
なのに、どうして自分は未だに、こんな所にいるのだろうか。
「皇帝陛下のおっしゃる通りです。部下の死も敵国の兵士の血も、国の柱も同然。尊びこそすれ、悲しみ嘆き背負う事など、指揮官としてはあってはなりません」
師匠はそう言っていた。
でも、そう口にする師匠の、自分を見下ろす目には、深い困惑と憐みが映っていた。
「でも、…わたしには忘れられないのです」
トムの顔を再び見下ろし、レアは小さく諦めたように呟いた。
もし自分がいなくなった時は、この世界から全力で逃げろと、師匠は口癖のように言っていた。忘れることが出来ない自分には、務まらないからと。
囁く魔女の言葉に女の感傷を見て、皇帝は苛立った。軍人としての気概を持ち合わせぬ者がこの場にいることに。そして、そんな感傷的な女に、ロイヤが振り回された事に。
その時、視線を感じて、皇帝は魔女の前に跪く男へ視線を転じた。
最初の襲撃の際、死んだと思われていた忠臣の一人エゲートが、何事か言いたげに自分を見上げていた。
男はいら立ちを吐き出すように、息を吐き、腰の獲物を抜く。
鞘から放たれた光が、視界に映って、レアは表を上げた。
「この御霊、天へ還りて、我が国の柱とする」
低く静かな、男の声が耳に響く。
それは戦死した者への鎮魂と感謝の言だと理解して、レアは目を細め、そして瞼を伏せてトムへ頭を下げた。