78.イリアの想い人
「で、イリアは誰が好きなの?」
遠慮の欠片もない、好奇心の目を四歳の幼女へ向けて、レアはイリアへ詰め寄った。ティーカップの蔭に隠れるようにレアから視線を逸らすイリアは、耳まで真っ赤だった。
「そんなに真っ赤になられちゃったら、母として気になるなぁ…」
イリアはロイヤの正当な第一皇女で、このままカイザックに男児が生まれなければ、王位継承権第一位。そんな彼女が恋をした相手と無事に結ばれるかは、非常に難しいため、レアは何としてもその恋を成就してあげたくなって、内心で鼻息を荒くした。誰が何と言おうと、自分だけは、彼女の味方になる覚悟がある。
「…なまえ」
「?」
震える微かな声に、レアとルイスは二人同時にイリアを見つめた。見られている事を知って、イリアの小さな体がさらに小さくなる。
「…なまえ、知らない」
「…」
「みずうみで、何度か会っただけで…」
潤んだ碧眼を上げたイリアに、レアは思わず抱きしめたい衝動に駆られた。こんなに小さいのに、誰かが好きだと言って、そんなに真っ赤になれることが愛しくてたまらない。
「名前も知らないし、出会った回数も少ないのに、好きになれるなんて―――」
運命だねぇ。
穏やかな午後の一室で、彼女は肩を震わせていた。
美しい手が、持つ紙にしわを刻む。
侍女たちの困惑の気配すら遠く、その美しい瞳を固く閉ざし、眉間には深いしわを刻んでいた。
深い息と共に吐き出してしまいたい感情に、彼女は首を振った。
大人の男性だと聞いて、レアとルイスは思わず顔を見合わせていた。
しかし、紅くなって小さくなっているイリアの気持ちを思うと、無下に否定も出来ず、ただ黙って彼女の発する言葉を聞いているしかなかった。
「一年くらい前に、何度か裏庭の湖で会って、とっても…優しくて…」
大人なのに馴染みのジムみたいに笑う男の人。
「…」
恥ずかしいながら嬉しそうに話すイリアを見つめ、ルイスは例え幼くても恋バナの好きな女子なのだと、関係ないような事を考えていた。そうでもしないと、否定の言葉を口にしてしまいそうだったのだ。
「う~ん、気になるなぁ…」
唐突に割り込んだレアの声に、イリアは首を傾げた。
「ちょっと探してみるから、その人の特徴教えてくれる?」
探してみる、という単語に、イリアの目が輝いた。今まで誰にも話せなかったので、探すことも出来なかったのだ。母親の立場にあるレアが探してくれると言うのだから、これを喜ばずにはいられなかった。
「身体的特徴、覚えているだけ教えてくれる?」
「はいっ!」
黒髪に碧眼と言われて、二人の脳裏に浮かんだのは同じ人物だった。しかし、その特徴はこのロイヤに山ほどいる。記憶力に定評のあるレアは、すぐに数十人の該当者を思い浮かべていた。
「背が高くて、大きかったです!」
鼻息も荒く告げるイリアには悪いが、四歳のイリアにとって、「背が低くて小さな男性」はむしろいないだろうと、ルイスは内心で微笑ましくも苦笑してしまった。
「優しくて、笑顔がとってもキラキラしてました!」
実演でもしているのかと思ってしまうほど、自身が目を輝かせているイリアを、レアは可愛くて仕方がなかった。が、先ほどからの情報では全く特定できない。
「それから…」
二人の内心など気付くすべもなく、イリアは何かを思い出すように空を仰ぎ、自らの右腕の一点を指さす。
「ここに、小さなほくろがありました」
それを聞いた瞬間、レアは盛大なため息を吐きそうになるのを、必死でこらえる事になった。
後宮に入ってから、彼女は常に圧力を感じていた。
否、実際に圧力は強く、それは往々にして皇子を生む事への期待だった。
後宮に入って四年。そのうちの一年は、後宮の主である皇帝が遠征で留守であったため、いくらか気は楽ではあった。それでも、実家からの手紙には相変わらずの事が書かれていた。
「いくら私に言ったって、陛下にその気が全くないのだから…」
一人、小さく呟く言葉は冷たい床に落ちて消える。
最初はそれなりに努力をしてみた事もあった。我が子を抱くよりも身なりを整えることに注視し、話し相手として満足してもらえるよう学の習得にも励んだ。
だが、若き皇帝が自分へ視線を向けることはなかった。そればかりか、不要とばかりに実家へ帰されそうになった。
帰る事など出来るはずがない。
中流貴族の出戻りを、誰が好き好んで迎え入れてくれると言うのだ。産んだのが男児であれば可能性もあったのだろうが、女児では受け入れるには弱い。
「お母様…」
そう言って見上げる我が子を、愛しいと思いながら、しかし、バローナは抱きしめることが出来なかった。
にっこりと自分へ邪気のない笑みを向けた少女の顔がよぎり、バローナは瞳を上げた。
見たこともない程楽しそうに、少女と笑い合う皇帝。二人が並ぶと、それはまるで満月を仰ぎ見るような感覚を覚える。嫉妬の余地すらないほどに、美しい月を見上げて、バローナはそれまで張っていた糸が切れるのを感じた。
手に持っていた手紙が、するりと床へ舞う。
一年の遠征は、思った以上に内戦の復興を遅らせてしまっていた。
当初の計画の六割ほどの進行具合に留まっている。残りの四割が出来ていないからと言って、目くじらを立てるほどではないが、やはり遅れればそれだけ発展も遅れる。
とは言え、この進捗状況に不満はなかった。
ある種の独裁的方法で推し進めた復興である。むしろ自分がいなくて、よくもここまで進めたと、改めてジャックとミヤの宰相親子の腕に感服すらしていた。
(思いの外、妨害は強かったようだが…)
工事の進捗状況の書かれた報告書を何気なく見つめつつ、カイザックはフムと唸る。
ロイヤの皇帝は政治を行うが、その権力を支えている大きな部分は教会にある。教会は各地域をまとめており、領主達とは比べ物にならないほどの強い土地の権利を持っている。
それ故に、道路や橋を造ろうにも必ず彼らの承諾が必要となるのだ。
皇帝は教会へ金品と権利を保障し、教会は対価として、皇帝を肯定するように民を導く。神が聞いたら呆れるほど、俗世間的な存在が教会だった。
(いっそ、「教会」から「協会」に変更すればいいんだ)
その方がしっくりくる。
(大体、ゼウス自身が本当にいるのか怪しいもんだしな)
レアの以前の言を思い出し、カイザックは小さく笑った。
現皇帝ガイディウス・カイザー・サクアは、教会の全面的支持を得ていない、珍しい皇帝だった。
彼を指示したのは、政治的権力第一のジャックの協力が大きい。ミヤが父親であるジャックを説き伏せたことと、軍トップのジルド、そして市井―――特に商人からの支持が厚かった事が、即位へつながった。
悪く言えば、周囲からお膳立てされた即位であったのもまた否定できない。
しかし、即位後の市井のケアを第一に進める皇帝への支持は、自然と高まった。教会の中の穏健派は特に彼を指示し始める。そうなると、教会内は指示不支持の二派に分裂し、政治的反感を持つ貴族達もそれに加わり、水面下での攻防は一層激しくなった。
(市民巻き込んでドンパチやってた頃より、全然マシだけどな)
自分が何度毒殺されそうになったかなど、すでに覚えていない。闇に乗じて何度襲われたのかも、もはや覚えていない。
カイザックはうんっと伸びをすると、書類を机へ投げる。
「ちょっと散歩に出てくる」
周囲へそう告げると、呼び止められるのも聞かずにさっさと執務室を出た。一日中籠っているのは、さすがに息が詰まった。
以前は護衛を常につけるようにはしていたが、帰国してからは自分が帯刀さえしていれば、護衛は待たずにさっさと動いていた。護衛役にしてみればいい迷惑だが、統括のジルドが咎めるどころか、「たまにはお一人にして差し上げろ」などと言うので、彼らは必死に皇帝の後を追いかける事を封じられてしまっていた。
「いいタイミングで、鴨が見つかった」
中庭に出て、再び伸びをしたところで、背後から少女の声がした。
「シィー、いくらなんでも鴨は…せめて、獲物と」
「…どっちも同じだろう」
振り返ると、二人の少女がこちらを見て、意味深に笑っている。
レアとルイスが、二人でわちゃわちゃやってるのが好きなんだけど、
あまり書いてる場がない…。
来週月曜日から、子ども達が平常運行。




