72.ハイド
しばらく腕の中でイリアを撫でていたのだが、彼女の乳母が探しに来てしまったので、そこで別れることになった。
「…あんなイリア様を見せられてしまったら、お兄様に父親をしなくて良いなんて言えませんわね」
「同感」
手を振って見送った後、ルイスは深々とため息を吐いた。ずいぶんと砕けた様子に、レアは嬉しそうに笑む。
「バローナが子ども嫌いなのかな?」
父親がダメでも母親がいると言外に言ったのだが、ルイスは首を振った。
「先ほどのお話ですけれど」
そう前置きをすると、ルイスはレアへ顔を近づけた。その瞳に若干の嫌悪が滲んでいることを理解して、レアは意外に思った。ルイスが他人を悪く思っているのは、あまり想像できない。
「バローナ様のご実家は、貴族の中でも上の下なんです。私達の母親と同じ階級なので、親近感を持ってくださっているのか…」
そこでルイスは眉を寄せると、小さくため息を吐いた。増々珍しくて、レアは目を丸くした。
「私に縁談を持ってきたくださるんですよ。好意と言うよりは、これを機に、皇帝への影響力を増したい空気が濃厚で…」
何を思い出したのか、ルイスは三度目のため息を大きく吐く。
「ルイスにも、想い人がいるんだね」
「!!」
さらりと言われて、ルイスはそのままの表情で硬直した。
「あれ? 違ったかな? そんなに何度もため息をつくから、よっぽど嫌な相手でも勧められているのか、ルイス自身に想い人がいるのか、どちらかと思ったんだけど」
嫌な相手の可能性もあるが、後宮に匿われるように住んでいるルイスに、王宮に出入りする人物をそれほど詳しく知る機会は少ないと考えたのだ。だったら、想い人の方が納得できる。
「…本当に、シィーは侮れませんわ」
諦めとも感嘆とも言える声音で、ルイスは笑った。
「私、これでもなかなか情報通なのですけど、貴女には敵わない気がします」
「勝ち負けじゃないから、問題ないよ」
そう、これは勝ち負けじゃない。情報通だと言うなら、協力すれば最強コンビではないか。
「ルイスの想い人も気になるけれど、まぁ、何となく分かっちゃったから聞かないよ。それよりも先に、解決した方が良い問題もあるし」
「…分かっちゃったんですか。今まで誰にも気づかれたこともないのに」
ルイスは苦笑する。本当に、この自分より半年ばかり若い義理の姉には敵わないと思った。だが、それは嫌悪ではなく、喜びでもあった。
「私では、どうにも動かなかったものが、貴女なら好転しそうな気がします」
ルイスの嘘のない称賛に、しかしレアは目を丸くした。
「何を言ってるの?」
そして、本当に不思議そうに言うと、悪戯好きの子どもの様な無邪気な笑みを浮かべた。
「貴女も一緒によ、ルイス」
その瞬間、ルイスは昔に見た兄の笑顔を思い出した。
就業前に執務室に集まっておくよう、皇帝直々に命があった。
仕事が終わったのだから、さっさと帰りたいという気持ちを持っているのは、この執務室内で自分だけで、他の者は皇帝直々の勅命で何を言い渡されるのかと落ち着かない様子だった。
ただ一人、何かを知っているらしい部下の男だけが、居心地悪そうにじっと扉を見つめていた。
「キグセン、君は何か知っているようだな」
上司の突然の問いかけに、名を呼ばれた部下は驚いたように自分を見つめてくる。まんじりともせずに待たされている面々の意識が、一斉に自分に向いたことを理解して、キグセンの目が泳ぐ。
「父から、あらましは聞かされております」
「父…? エゲート将軍から?」
キグセンの父は軍部の人間だ。それが、文官である息子に仕事の話が降りてくるという事は、元来ある物でもない。
しかし、その瞬間、彼は何やら嫌な予感が背中からジワリとにじり寄ってくる感覚を感じた。エゲート将軍と言えば、遠征からの帰国後、ちょっとした時の人だからだ。
「…もしかして―――」
そう彼が口を開きかけた時、皇帝の訪問を告げる言葉が響いた。
同室で待つ官吏達の緊張がピークになる。
ある者は生唾を飲み込み、別の者は背筋を伸ばした。
扉が開き、良く知る青年が先頭で入ってきた。業務の忙しさを理由に、極力関わらないようにして来た―――現皇帝。
その碧眼が自分を捕らえ、微かに笑うように細くなる。
内心で忌々しく舌打ちをすると、皇帝の後ろから入って来た数人の人間へ視線を投げた。
まず、一番後ろから入室してきたはずなのに、頭一つ分皆よりも抜きんでている巨体が目に入る。燃えるような赤い髪を確認した時、彼は自分の予感が当たってしまった事を理解した。
続いて、エゲート将軍の姿を見とめる。六十も近いというのに、年の方を疑いたくなるほどの気迫と伸びた背筋。容姿は似ているにもかかわらず、腰の柔らかいキグセンの父と言われても、ピンとこないほどだ。
そっと端から見渡していた彼は、一人の人物に目が留まった。
その瞬間、世界が揺らぐ。
月へ伸ばした手に応えた幼い指先の感覚と、微笑んだ少女。
微動だに出来ずに凝視する男に、相手の瞳がぶつかり、その特徴的な瞳が驚愕に大きく見開かれる。
男が何かを口にする前に、その人物は先頭の皇帝を押し退けるようにして駆け出した。皇帝の制止すら振り切って、それは驚く男の手を取った。
「カイザック! この人っ!!」
レアは目を輝かせて振り返ると、押し退けた皇帝へ嬉しそうに叫んだ。その手を握ったまま、喜びのあまり飛び上がりそうな雰囲気だ。
「えっ?」
周囲が驚くほど、皇帝はレアが指し示す人物を見つめて硬直した。見つめられた男は、皇帝の視線に眉を寄せる。
相手の不愉快そうな空気を理解して、皇帝はようやく顔を引き締めた。が、すぐに破顔して顔を覆う。
「まさか、よりにもよって、ハイドだなんて…」
「ハイド? 貴方、ハイドって言うのね! わたし、レア・シィー・ヴァルハイト! 貴方の事、探してたの!」
興奮で鼻息を荒くするレアは、呆気にとられたような男の手を両手で抱いて、ぴょんぴょんと跳ねた。その様子に、顔を覆っていた皇帝はため息を吐く。
「レア、それはミヤの兄だ」
喜びに目を輝かせていた少女が、次の瞬間、目を瞬かせた。
「…あんまり、ミヤにもジャックにも似てないのね?」
そう言って微笑んだ少女の笑顔に、手を握られたままの男は身を強張らせた。
宝石のような瑠璃色の瞳に、下からまっすぐに見上げられ、ハイドは内心動揺していた。これが今噂の人物だと言う事は、彼にもすぐに分かった。長い遠征の先に、皇帝が遠征の最も大きな戦果だと言って示した、己の二人目の側室。
どこかの軍師だったとか、魔女だ武神だと言われているようだったが、正直ハイドは興味がなかった。関わる事もないと思っていたし、目的の障害になるとも思っていなかった。
(なんだ、この胸を締め付ける感覚…)
似ても似つかないはずなのだが、その瞳になぜかあの少女が重なる。恋い焦がれるような、ずっと探し求めていたような、―――安堵で泣き出したくなるような感覚。
(いや、これは恋い焦がれている訳じゃない)
なぜなら、自分の心に居るのはずっと昔から一人しかいないのだから。
自分を見下ろして硬直している男を覗き込み、レアは小さく笑った。
現在、ざざぁ~と読み返して、訂正を加えて、こちらにアップしているんですが。
本当に、ざざざぁ~って目を通して、誤字訂正してるだけなんで、「あ、ここ足りない」って言う加筆まで出来てない。
そういうのは、全部書き終えてからでないと、脳みそが冷静になってないなって思う。
子育ても、たぶん終わってからじゃないと、反省も総評も出来ないんだろうな…(遠い目)




