70.父と子(2)
「ザック兄様は、どう接していいのか分からないんです」
ジャムの乗ったクッキーを物珍しそうに見つめるレアを見つめ、ルイスはついつい微笑ましく感じて、笑った。
「分からない?」
見つめるところから、指で摘まんでみる動作に移ったレアは、ルイスの言葉に首を傾げた。その動作を確認して、ルイスは彼女が両親の揃った家庭で育った事を理解する。
「わたし達、…先帝の子はほとんど父親という存在を実感して生活はしていません。父は皇帝であり、遥か彼方の存在でした。生活の大半は母親と屋敷の人間との関わりが大半です」
先帝が女性好きだった事は有名で、あちこちに手を出しては子どもを作ってくるのもまた、他国に知れた有名な話だ。極東のマリーノにすら、その噂は聞こえていたのだから、相当だったのは想像に難くない。
「父親や夫と言った男性が担う役割を、良く分かっていないのです」
兄のフォローをしつつ、ルイスはなんだか言い訳みたいだなと苦笑した。兄は皇帝なのだから、父親も夫も役割など担う必要はないと、言ってしまっても良いような気もするのだが、目の前の彼女にそれを言いたくはなかった。レアには、兄をずっと慕っていて欲しいと勝手な願いを抱いている。
「カイザックは皇帝なんだから、父親も夫もこれ以上頑張る必要はないけどさ」
ルイスの内心を理解したのか、レアは手の中のクッキーを見つめながら、それでも不服そうな声を上げた。
「もうちょっと、言い方があるでしょう? どうして、バローナにあんなに冷たいの!? アレビアには声もかけないし! イリアは貴方の娘でしょう!」
言いながら腹が立ってきたのか、レアはクッキーに視線で穴を空けるのかと聞きたくなるほど睨み付けて言った。
「愛は持てなくても、優しさは大事!!」
言ったかと思ったら、そのままの勢いでクッキーを口へ放り込む。ガリガリもぐもぐと口を動かしていると、しばらくして表情が軟化した。
「おいしいぃ~」
あまりの変わりように、ルイスは思わず笑った。表情のコロコロ変化する彼女は、子どもの様に無邪気で愛らしく、建前ばかり気にする後宮では珍しかった。
「小麦粉と砂糖と言えば、軍事衝突時の保存食しか連想できなかった。すごくサクサク! しかも甘いっ!!」
「卵が入っているんですよ。後はバターでしょうか。ジャムも乗せているから、見た目も鮮やかになります」
「ルイスは物知りだねぇ」
二つ目のクッキーに手を伸ばしたレアは感心したような声を上げた。
「アレビアには、長く想いを寄せてる人がいるんじゃない?」
「えぇ、そうですっ…っ!?」
まるでクッキーの話の続きのようにさらりと話題をすり替えられていた事に気付かず、うっかり応えたルイスは、ギョッと身を強張らせた。咄嗟の硬直後、慌てて周囲を確認する。
控えの侍女たちは、幸い自分達からは距離があり、レアの護衛として側に控えているモモは皇族の忍びであるため、安易に彼女から情報が漏れることはないと安堵する。
そうして、やっとルイスはレアを見た。
視線が合った事に気付いたレアが、にっこりと笑んだ。
その深い色の双眸が、全てを見透かしているようで、ルイスは一瞬背筋に冷たい物を感じだ。彼女はどこまで分かって言っているのか。
「ご存じだったのですね」
彼女がこの情報に触れられるとすれば、兄かミヤからの可能性が高い。ジルドや他の軍人がこれを知っているとは思えない。しかし、レアはルイスへとんでもない事を言った。
「アレビアを見ていれば分かるよ。後悔しないようにって、最初に会った昼食の時に話したら、何か言いたそうだったでしょう?」
「…それだけで?」
確かに、レアの言葉にアレビアはあの時、口を開きかけた。それはルイスも見ていて感じていた。アレビアの今の生活は、彼女の望みからは遥かに遠い場所にあるのだろう。
それでも、あの一瞬の動作だけで、想い人がいるなどと分かるものだろうか?
ルイスが、先ほどから自分の言動に驚愕していることをようやく理解したレアは、一瞬空を仰いで苦笑し、ルイスへ視線を戻した。
「ルイスは、カイザックがわたしを神の憑代だって言った事、どこまで信じてる?」
「えっ?」
全知全能の神ゼウスに会った事があるのかと、兄がこの少女に聞いた。その時の彼女の答えはなんだったか―――そこまで考えて、ルイスはレアを見つめた。
「神さまと人を結ぶのが、わたしの力でね。自分の意志とは無関係に、…まぁ、いろんなことが分かっちゃうんだ」
そう言ったレアは、空を示すように手を伸ばした。導かれるように顔を上げたルイスは、午後の日差しに目を細める。
「さすがに、アレビアが誰を想っているのかまでは、分からないけどね」
自嘲気味に小さく笑ったレアの声が耳に届いた。視線をレアに戻すと、気付いた彼女の瑠璃色の瞳がいたずらっ子のように微かに細まる。
「信じるかどうかは自由だよ。でも、出来るなら、わたし達の事を怖がらないでいてくれると嬉しいな」
そう言って笑う彼女は、午後の光の下で、無邪気に妖精が笑ったようだった。それはここ数日、兄が彼女へ向ける笑みに似ていた。
「…わたし達?」
気付かれないように、こっそりと仕込んでいたモノに気付かれて、レアは悪戯が失敗したときみたいな顔をした。が、すぐに意味深な笑みを浮かべる。
コレは聞いても教えてくれそうにないと理解して、ルイスは小さく苦笑した。
「アレビア様の事が分かるのなら、お兄様がバローナ様に優しくない理由もご存じなのでは?」
意趣返しをしたつもりはなかったが、結果的には返しになってしまった。レアが眉間にしわを寄せる。
「きっと覗き込んだが最後、こっちが丸裸にされるよ」
ザッカ前線で、自分の中で仁王立ちしていたカイザックを思い出して、レアはぶるっと震えた。他人に踏み込んでいるとか、そういう感覚に鈍いらしい彼の、悪く言えば無遠慮な介入は、レアを恐怖させた。「なんだこれは?」とか言って、見られたくないモノまで覗かれそうだ。
「バローナ様にきつく当たるのは、お兄様(ご自分)に好意を持たせないためだと思いますよ」
レアが思い出して震えていると、ルイスが話を戻してくれた。
レアが首を傾げる。その様子に、ルイスは苦笑した。自分はどうして兄の妻に、他の妻の話をしているのだろうかと、奇妙な感覚に襲われる。
「お兄様は昔から、女性関係にとても疎いんです。というか、女性に興味がないようにすら見えました」
だから、皇帝への慣習として三人の女性との関係を強要された時、兄は露骨に抵抗した。相手の女性を侮辱することは決してなかったが、慣習に対しては徹底的に否定していた。女性を道具のように扱う事にも抵抗はあったのだろうが、兄には別の真意があったとルイスは今でも思っている。
「お陰で、お兄様は男の方が好きな性癖ではと、散々ささやかれましたわ」
当時を思い出して、ルイスはげんなりと言った。レアもつられて笑う。
「お兄様がお父様みたいになりたくなかったのは、良く分かりますけれど。それにしても、本当に頑なで…」
「ミヤもそんな事、言ってたなぁ」
「ミヤ様が、皇帝になってやるべきことがあるのに、そこで駄々をこねるのかって、散々なだめすかして、やっとです」
その時、きっとカイザックの中では、二つを天秤にかけていたのだろうと思うと、レアは当時のカイザックを労いたくなった。自分の信条を歪めてまで、彼は皇帝になって、何をしようとしたのだろう。
(…なんとなく、分かるような気はするんだけどね)
小さく苦笑して、しかし、レアは本当に微かに微笑んだ。
「乗り気じゃない義務の為に、女性を抱いて、その上、子どもまで作らなきゃならなかったのなら、後ろめたくても仕方がないのかなぁ」
あぁ見えて責任感は人一倍あるし、潔癖でもある。義務でしかなかったのならば、満足いく保障と身の振り方を示して、後宮からお引き取り願っていそうなものだ。
「バローナ様は兄様よりも八つも年上でしたから、出戻る訳にもいかず、ご実家で厳しい立場に立たされていらっしゃいます。それを知って、突っ返すなんて出来なかったんですよ、お兄様は」
レアの内心を理解してか、ルイスはやや不満げにクッキーを摘まみながら言った。ルイスの漂わせる不満げな空気を、レアは珍しいと思った。
レアの丸くなった双眸に気付き、ルイスは苦笑した。
「最近、バローナ様のご実家が、私への縁談を強く勧めてくるので、腹を立てているのです」
そう言って、深いため息を吐き出した。
冬休み特別スペシャル!
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…別に大したもんではない(^_^;)
90まで書けたんで、少し余裕が出てきました。
でも、二月下旬までに完結させられるのか…分かんない雲行き(笑)




