69.父と子(1)
小さな彼女にとって、父とは、遠くから眺めるものだった。
遠くから眺めている父はとても大きく、たくさんの人にいつも囲まれていた。いつも笑わない怖い人―――それがイリアにとっての父だった。
だから、真正面から見つめることもなかったし、話しかけようなんて思った事もない。
母がそんな父に、怯えながらも必死に声をかける姿を、理解することは到底できなかった。
乳母の目を盗んで、良く一人で中庭に出かける。
中庭とは言っても、広大な王宮の中庭なので、すぐには見つからない。今日もどこかに隠れて、一人で空を見上げて過ごす。大人たちの煩わしい雑音から逃げ出せる大切な時間だった。
もはや迷う事もない中庭の迷路を抜け、庭師もあまり来ない雑木林の先、小さな池のほとりで、イリアは何かに躓いて盛大に頭を打った。
「「ったぁ!!」」
躓いた『何か』もまたイリアと同じ声を上げたので、彼女はギョッとしてそれを見た。
「何が降って来た…?」
むっくりと起き上がった見知らぬ男性に、イリアは硬直した。頭をさする男も、硬直する幼女に気付いて、同じように体を強張らせた。
「…だ、だぁれ?」
しばらくお互いを見つめあったが、沈黙に耐えかねたイリアがおずおずと言葉を発する。その言葉に、男はさらに驚いたように目を見開き、それから、諦めた様に小さくため息をついた。
ため息などつかれる事がないイリアは、その瞬間にむうっと頬を膨らませた。
「ここはイリアのお気に入りなの。ぶすい(・・・)な人間が来て良いところじゃないの!」
幼女の突然の怒りに驚いた男は、全身で怒りをあらわにするイリアをまじまじと見つめると、突然笑った。
その笑顔が、厩舎のジムみたいだったことに、イリアはとにかく驚いたのだった。
「お母様は、貴女がイリアからお父様を取り上げる魔女だって…」
レアからの問い掛けに困ったらしいイリアは、母であるバローナに言われた言葉を口にした。口にしながら、なぜかそれは自分の気持ちとは違うような気がして、イリアは小さく頭を振る。黙ったまま、自分の答えを待つ魔女をまっすぐに見つめた。
「でも、イリアのお父様は、ジムやリリィのお父様とは違うもの。だから、取り上げられたって、良いもん」
本気で良いと思っているらしい真摯な幼女の瞳に、レアは思わず苦笑してしまった。娘を溺愛する父親が聞いたら、泣いてしまいそうな内容だったが、当の本人に責任があるのは理解しているので、彼女を責めようなどとは思えなかった。
傭兵から護衛に転職した大男二人が、必死に笑いを堪えている気配がする。
「そっかぁ…」
しかし、レアは再び微笑んだ。
「わたしはね、イリアの三人目のお母様に慣れるんだと思って、わくわくしてロイヤに来たの」
レアの笑顔と言葉に、イリアはきょとんとレアを見つめた。意味が上手く伝わっていない事を理解して、レアはイリアの手にそっと触れた。
「わたしはイリアのお父様の三人目のお妃だからね。イリアには、三人のお母様がいるんだよ?」
イリアの碧眼を覗き込み、レアは言葉を重ねる。
「わたしは、貴女みたいな娘が出来て、とっても嬉しいの!」
それだけは、一番最初に伝えようとレアは考えていた。好かれようと嫌われようと、それは彼女の存在を知った時からの気持ちだった。何年かかっても、友達にはなろうと決めてロイヤに来たのだ。
「もし、わたしが赤ちゃんを産んだら、それはイリアの弟か妹なんだよ」
「…弟? …妹?」
イリアの唇が震えた。碧眼の双眸にキラキラと光が輝くのを、レアは嬉しくなって見ていた。
レアも義兄がいるとは言え、一人っ子だった。自分の下に兄弟がいる事を望まなかった訳ではない。
「で、でも…」
しかし、急にイリアは俯いた。
「お母様は、そんな事望まない…」
「…」
膨らんだ気持ちが見る間にしぼんでいく様子を、レアは複雑な思いで見つめていた。イリアが後宮の覇権争いを十分理解しているとは思えない。それでも、大人たちの空気を敏感に感じているのだ。
握っていた小さな手に触れて、そっと引き寄せ、レアはその先に軽くキスをした。イリアが驚いたように表を上げる。
「イリアはとても賢くて、お母様想いなのね」
本当に、優しい子だ。
レアは複雑な大人達の中で一人佇む事を余儀なくされたイリアを想って、小さく神に祈った。
「じゃぁ、わたしとお友達になってちょうだい。そしたら、わたしはイリアのお母様とお友達になるわ」
そうして、少しずつ、関係を築いていこう。
「わたし達は、もう家族なんだから」
「ねぇ…カイザックって愛されてるの?」
レアの何気ないつぶやきに、ルイスは思わず紅茶を噴き出しそうになった。
「わっわっ! 大丈夫?」
かろうじて噴き出すことを避けられたが、気管に入りこんだ液体にルイスはむせる。まさか自分の呟きが原因だとは思っていないらしいレアは、慌てた様子でハンカチを差し出してきた。
「…シィーは、すごい事を…」
口にする人だと言いかけて、言葉にするのを止めた。心配そうに覗き込んでくる、同い年の少女の様子に、大丈夫だと示すように手を上げた。落ち着くまで、ゆっくりと呼吸を整えてから、ルイスはレアへ微笑んで見せた。
いつも通りの重い空気にも、一切躊躇しないレアを加えた昼食の後、ルイスはレアへ午後のお茶へ誘った。女性の社会へも誘ってやってくれとの兄からの願いでもあったのだが、そんな事など知らないレアは嬉しそうに了承した。了承しながら、さっさと食堂を後にしようとするアレビアとバローナにも遠慮なく声をかけてくれたのだ。
「私は午後から先生が来られますから」
と言ってレアから逃げるように立ち去ったのは、アレビアだった。確かに彼女は、午後に講師を呼んで様々な学びをしている。何度か声はかけているが、出てきた事はない。自分の誘いだからかと思っていたが、どこからの誘いにもほとんど応えている様子もなかった。
(まぁ、仕方がないお立場ですからね…)
そんな事を思っているルイスの横で、敵意剥き出しの視線も意に介さないレアはバローナの返事を促していた。
「貴女は、少し空気をお読みになった方がよろしいですわ」
つまり嫌がっているのだから、声をかけるなと言っているわけだが、レアがそれを理解していないのではなく、気にかけていないだけなのである。
「では、次の機会にでも。…あ、イリアちゃんは来る?」
嫌味が歯牙にもかけられていない事に頬を引きつらせているバローナを置いて、レアはイリアに駆け寄っていた。
「…行っても良いの?」
嬉しいさと恥ずかしさが忙しく変わる表情をするイリアを、レアは思わず抱きしめたくなって、慌てて自分を律する。
「もちろん! 新米ママに色々教えてよ」
「いけませんよ、イリア」
ピシャリと言われて、イリアとしゃがんでいたレアは声の主であるバローナを見上げた。眉間にしわが寄っていると、美人の顔は怖く見えるんだなぁとレアは関係のない事を考えていた。
「貴女は、午後からお勉強でしょう」
そう言うが早いか、イリアの腕を掴むと引きずって行った。名残惜しそうな視線をレアに投げるイリアへ、「じゃぁ、また今度、誘うからね」とレアは手を振った。バローナが振り返ってレアを睨み付けたが、彼女はそれにすらにっこりと笑って返してしまった。
「だって、好きな夫の同じ奥さん同士だったら、仲良くしようとか思うでしょう?」
不思議そうにそう聞かれ、ルイスは苦笑するしかなかった。
彼女がバローナの敵意に気付いていないはずはないし、アレビアの関わろうとしない空気を読めないはずもない。仲良くできない理由もまた、理解できている事は、言動を見ていれば分かる。
「まぁ、複雑なのは、充分理解するけどね…」
そう言って、レアは花の香りのする紅茶を口に運んだ。
自分の記憶の始まり部分は、三歳だか四歳だかのその辺の、じぃちゃんとの記憶が一番古いような気がします。
後から補てんされた、後付けな部分も否定は出来ないんだけど。
で、今家にいる次女が四歳。
イリアもこんな感じかなぁと思って書いてます。
娘より「えーと、えーと、あのね、あのね」がないだけ、しっかりしゃべってるけど、小説でそれ書いてると文字数ばっかりとられるから、省いてます(^_^;)
四歳児が一年前の事を覚えてるかと言われると、覚えてない。
でも、遊んでもらった叔父さんの事は覚えてるから、その感覚でイリアも…。
娘さまさま。
君たちのお蔭で、子どもネタは調べなくてもいい☆




