6.風の中
馬を駆った。
それでも追いすがってくる者達を巻くことは出来ず、レアは内心怒っていた。
と同時に、自分の命を惜しんでくれる部下達に感謝もしていた。だが、ここでその気持ちを表に出すわけにはいかなかった。
「シィー!」
副官の制止の声に、レアは愛馬の手綱を引いた。驚いた愛馬のいななく声を理解しながら、馬首を背後へ向ける。
「くどいっ!」
砂埃を含んだ風が背後から吹き付ける。
突然、馬首を変えて止まったレアに、追って来た副官セイル、ルディ、ロマの三人は慌てて馬を制止させた。
「お前達は、わたしに恥をかかせる気か!」
空気を震わせる、良く通るその声は、三人を貫いた。瞬間に硬直した体で、なんとか指揮官を見上げた。
普段からは想像もできないほど、彼女は大きく、自分達を見下ろしていた。愛くるしい瞳に映るのは、鋭い色。その瞬間に背筋が凍る。
「道徳も騎士道も捨て、非道を指示しようとも、わたしにはお前達を守るという誇りだけはある!」
まるで彼女の荒ぶる心のままに、風が吹く。天上の太陽へ吹き上げる風に、柔らかい茶色の髪がなぶられる。
「それを捨てるならば、もはや、わたしはわたしではない!」
言い切った者の肩で、風になぶられていた髪が、ふわふわと穏やかに揺れた。
風が止み、馬上の人物が微かにため息をついて、こっそりと苦笑したのを男は見ていた。
再び馬首をこちらに向けた女と目が合った。目が合うには距離があったはずだが、女もまた驚いたように目を見開いた。
そして、少しバツが悪そうな顔をする。
「どうやら、説得は失敗したようだね」
「成功する要素なんか、なかっただろ」
デッドとティンのため息混じりの会話が聞こえた。
「魔女…」
奥歯を噛みしめるハッカの殺気を含む呟き。背後に控える五百の兵達から感じる憎悪の念が背中を押す。
デッド達の乗って来た馬がいる辺りで、女も馬を降りた。そこで初めて、男は驚いた。地面に降り立った女が、あまりに小柄な事に。
先ほどの部下への豪喝から、女とはいえ立派な体躯を持った美丈夫を想像していた。剣の一つでも携帯しているものと思っていたのに、こちらへ近づいてくるのは、武器らしい武器も持たない―――少女。
マリーノの軍服に身を包み、細い肩に勲章を三つ持つ。それ以外に位を示すものはなく、腰に小さなポーチを付けているだけだ。
そして、肩の辺りでふわりふわりと揺れる、明るい茶色のくせ毛。色の白い表に、大きな瑠璃色の瞳。
「お見苦しいところをお見せして、申し訳ございません」
目の前に立った小さな少女は、そう言った。
「初めまして、皇帝陛下。わたしがマリーノの指揮官、レア・シィー・ヴァルハイトです」
目が合った。
その瞬間、やってしまったと後悔した。
自分の声が良く通る事を失念していた。自分の部下へ喝を入れているところなど、敵対している相手に見せるべきものじゃない。
こっそりと周囲を確認してみれば、どうやら眼前の五百人のロイヤ兵にも聞こえていたような様子だ。
(あぁ、やっちゃった…)
演説の時以外では注意しろ、と師匠に言われていたのを思い出す。正直、頭を抱えたい気分になったが、そういうわけにもいかないので、レアは切り替えて馬を進めた。
デッド達の馬が放置されている辺りで、愛馬を降りる。その首筋を撫で、休んでいい合図を送ると、デッドとティンの待つ前線へ向かう。
二人が苦笑を浮かべているのが、何やら情けないような気分にさせられた。
その二人の前に立つ男を、レアは見つめた。
年は23だと聞いている。精悍な表からは、もう少し年上にも見えた。ティンほどではないにしても、引き締まった体躯の長身。装飾の見事な黒い剣を腰に差している。きっと見た目だけじゃなくて、立派に使いこなせるのだろうなと、少しうらやましく思う。
遠目からも分かる意志の強い、青い瞳。睨まれたら、たいていの人間は委縮してしまうだろう。
胸が跳ねた。
緊張と共に、ずっと逢ってみたいと思っていた相手に会うことが出来る喜びもあった。
ティンの横に並び、チラリとティンを見上げる。
彼はこの出兵がなってすぐに、自分を抱えて逃げ出そうとした。最後までこの交渉には反対していた。その彼が、諦めたように肩をすくめて見せる。
一歩踏み出す。
一呼吸おいて、まっすぐに視線を上げた。
「初めまして、皇帝陛下」
脳裏に、師匠と見上げたロイヤの王城が浮かぶ。
「わたしがマリーノの指揮官、レア・シィー・ヴァルハイトです」
そんなつもりはなかったのだが、レアは思わずにっこりと微笑んでしまった。