51.宴(2)
「ミヤ様も、カイザックの事を愛称で呼んでいらっしゃるでしょう?」
レアはミヤが皇帝を何度か愛称で呼ぶのを聞いていた。それだけ仲が良いのだと、安堵していたが、ミヤの口ぶりから何か違うのかと、レアは首を傾げた。
「私達に敬称は不要ですよ、シィー殿。…ねぇ、ジルド殿」
そう言ってミヤはレアの背後へ盃を上げた。レアが振り返ると、やや渋い顔をしたジルドがレアの背後に立っている。
「そんな所に立っていると怪しいですよ、ジルド殿。せっかくですから、一緒にどうですか?」
「怪しいつもりはないですぞ、ミヤ殿」
「しかめっ面でそこに居られても、せっかくの酒の味が落ちますよ。同じ守るなら、親睦も一緒に深めた方が良いでしょう?」
「…」
知った仲同士の会話を黙って聞きながら、自分を見上げるレアを、ジルドはチラリと見下ろして、諦めたように先ほどまで皇帝の座っていた場所へ腰を下ろした。が、カイザックのようにリラックスした様子はなく、佇まいも崩れない。
「ジルド殿、カイザックも羽目を外していいって言ってたから、楽にすれば…」
「そうそう、そこにいた方が、守れるでしょう」
レアの言葉を遮って、ミヤが満足そうにジルドへ盃を進めた。それを受け取り傾けながら、ジルドはそっと周囲を見渡す。
先ほどからレアの周囲がざわついていた。本人は気付いていないようだが、給仕の微かな変化やパルマ家の人間の視線は確実に変化している。
誰に言われたわけでもない。散々、辛酸を舐めさされた相手を守る義理もないのだが、ジルドの体は気付けば動いていた。
「そうですな、我々に敬称は不要です。陛下を呼び捨てにしている者が、その部下に敬称を付けるなど、もっての外です」
盃を置き、ジルドはレアへ視線を向けた。
軍服からドレスに変え、髪を結い上げただけで、これほど変わるとは思ってもいなかったジルドにとって、レアの今の姿は内心複雑だった。
どんなに自分に拒絶を納得させようとも、皇帝の隣にこの少女が立つだけで、その場が満ちる事を否定する事は出来なかった。場は満ち、それまでの手探りな不透明な道が、切り開く―――そのビジョンを打ち消すことは出来なかった。
「最初は抵抗を感じる者もいるでしょうが、その内、慣れるでしょう。だから、他の者にも敬称を付けることはなりませんぞ」
以前にカイザックに似たような事を言われたなぁと、レアはジルドの怖い顔を見つめながら小さく笑った。
その笑みを見つめ、ジルドは堪らずため息を吐く。そのあまりの珍しさに、レアとミヤは目を丸くした。
「ジルド殿がため息など、珍しい」
レアよりもジルドを知るミヤが、本当に珍妙なモノを見た様な驚愕を含んだ視線を向けた。その視線に降参するように、ジルドはレアを見つめた。
「私は陛下に、魔女に飲まれますなと忠言いたしました。その自分が飲まれている現状を奇妙に思っているのです。…貴女はまさに魔女ですよ」
「そんな、しみじみと言われるなんて…」
武神とあがめられても困るが、しみじみと魔女だと言われるのも、また困る。
「私も、貴女を武闘会で一見した時は、魔女だと思いましたよ」
ミヤにまでそう言われ、レアは困り果てた。皇帝の側近二人に魔女だと思われて、この先ロイヤで無事にやっていけるのだろうか。
そのレアの不安を理解したのか、ジルドは諦めたように小さく笑った。
「今の格好なら、陛下とつり合いが取れるでしょう。多少、安心しました」
「えっ!?」
レアがジルドの言葉に飛び上がった。それはまるで、自分を多少なりとも認めてくれたような発言ではないか。
(…陛下だけでなく、ジルド殿からのお墨付きとは、また…)
これには、レア以上にミヤが内心驚いていた。ジルドは皇帝からの信が最も厚いと言っても過言ではない。故にジルドの信用を得られると言う事は、皇帝から信用を勝ち得る事と同異義語と語られるほどだった。
ジルドの主に近づく者への精査は厳しく、また厄介な事に、その者の人となりを見抜く力もジルドは備えている。その彼のお墨付きとは、いくら金品を積もうとも手にはいる物ではなく、他の者が喉から手が出るほど欲するモノだ。
「と言う事は、ロイヤでは常にドレスを着ていろって事なのかな?」
認められたと言う事を理解しつつも、レアはその可能性に少々うんざり気味に自らの姿を見下ろした。せっかく着飾っていると言うのに、嫌そうな様子の年頃の少女に、ジルドは呆れた。
「常に着飾れとは言っとらん」
「それを聞いて、すごく安心したよ」
打算のない無邪気に笑う少女と、どこか諦めた様な表情をしつつも盃を傾けるジルドの間にある不思議な空気感に、ミヤは感心した。
「ジルド殿にそうまで言わしめるとは、ザッカ前線では見事な戦略だったのでしょうね」
ミヤがにこやかに言った瞬間、二人の顔が急変した。
「思い出したくもない」
ジルドなど、舌打ちすらしそうなほど苦々しい表で吐き捨てた。
「その話はやめましょう。せっかくの食事が楽しめませんので」
冷や汗をかいた青ざめた顔で、レアはミヤへ食事を勧めた。二人のあまりの豹変に気おじし、ミヤもそれ以上の追及はやめた。後日、他の将からレアの取った戦略を聞かされ、愛らしさの背後の恐ろしさに青ざめ、ジルドの舌打ちの意味を理解するのは、また後の話。
「お二人はカイザックの名前、ご存じなんですよね?」
普段口に出来ない食事に純粋に喜びながら、レアはこの談笑を楽しんでいた。
パルマ邸に着いた時には、どうしたものかと思ったが、幸い、ジルドとミヤが気を使ってくれているので、嫌な思いをせずに済んでいる。気を使わせている申し訳なさもあるが、ここは素直に甘えておくことにした。
「もちろんです。私は陛下がオムツをしている頃から、存じ上げていますから」
ミヤがにんまりと笑う。
「私に陛下の事で分からない事はありませんよ。―――あぁ、いえ、女性の好みは分かりませんでしたが」
そう言って、ミヤはレアを見る。
外見だけを言うなら、愛らしい。性格を大雑把に言うなら、大胆。それだけならば、今までもロイヤで出会う事はあったはずだ。
「何見てるんだ?」
あれはまだ、内乱の予兆もなかった幼い頃。自由に出歩き、どこへでも行けた頃。
早朝のうさぎ狩りを終えた帰路で、幼い彼の背中へ問いかけた言葉だった。霧の立ち込める街を見下ろし、東の空へ昇る陽をじっと見つめていた幼き頃の背中。
「…ずっと、探してるモノが」
「探してるモノ?」
そんな話を聞くのは初めてだった。だから、彼が何を言っているのか分からず、ミヤは重ねて問い返す。しかし、彼からの返事はなかった。
ただ、昇り始める陽をじっと見つめていた。
広がる眼下の世界はどこまでも広く、立ち尽くすその背中は絶望しているように見えた。
今でも、なぜ、あの時、そう思ったのかは分からない。
(きっと、探していたモノなんだろうな)
この少女を見ていると、あの時の陽を思い出す。あの独り立つ背中に寄り添えるのは、恐らく、この小さな陽しかないのだ。
「ザックは姉上と妹君に挟まれていたので、女性からの好意に疎かったんでしょうね。アプローチされても気付いてない感じでした」
どこか懐かしそうな目をするミヤを、レアは楽しげに見つめた。彼がザックと呼ぶ時、そこには兄が弟を想う親密さが滲む。
「カイザックはモテました?」
昔の女性関係を尋ねるレアの悪戯に加担する奇妙さを感じつつも、ミヤは彼女の気安さに同じように笑った。
「老若男女にモテましたよ。本人にその自覚は全くないようでしたが。自分の人望は、皇子と言う地位に付いて来るものだと思っていたんでしょう」
12人もいた兄達が皆、同じ人望があったとは到底言えなかった。
「…昔から、人を引き付ける方でしたね」
ジルドは皇帝からの問いを思い出す。なぜ自分を皇帝にしようと思ったのだと問われた。今さらな問い―――だからこそ、今問うのかもしれない。それだけ、この八年はひたすら進むだけだった。
「先帝がご存命だったとしても、陛下の存在に気が付かれていたでしょう」
ジルドの独白めいた言葉に、レアは嬉しそうな笑いをもらした。まるで自分が褒められているかのように嬉しそうに笑む。
その笑みを、ミヤは盗み見ていた。
日本に帰国するまでに、あと三キロ痩せたいなぁ…
案の定、五年間で太りました。




