5.正午
太陽が真上から傾き始めた頃、ザッカの西にある荒野の中央で、男は腕を組んだ状態で空を見上げていた。
いくつもの雲が穏やかに流れていく。
「遅いですね」
控えていた側近の一人ハッカが抑えた声で言う。約束の時間は半刻ほど過ぎていた。
「もしや、罠か?」
やや緊迫した声色でバスが辺りを警戒した。
マリーノ側から使者がやって来たのは、陽が昇り始めた頃。
「マリーノの将軍レア・シィー・ヴァルハイトより、ロイヤの皇帝陛下へ」
正規軍の制服を着てはいたが、くたびれた感のある中年兵は、そう言って言伝を持ってきた。
書状、と言うには形式がなっておらず、取り急ぎ、手元にあった物でこしらえたと受け取れる伝文だった。
女性のものと分かる、丁寧な文字が目を引いた。
きちんとした形式に則っていない事への謝罪と、この度の戦について話し合いを持ちたいとの旨が書かれていた。いくつかの場所の候補とその地形を示す地図が添えられており、選択してほしいとあった。
それを見た男は、あまりの無防備さに呆れた。
が、罠だとは思わなかった。
伝文には、降伏も停戦もなく、ただ話をしたいとあったことに、なぜか気が向いた。散々辛酸を舐めた部下たちは憤慨したが、男は面白いと思ったのだ。
捕虜たちが自分ではなく助命を懇願する指揮官―――しかも、年若い女だという。
逢ってみたいと、素直に興味が湧いた。
「この地図に偽りはないのか?」
地図に視線を落としたまま、使者へ問う。
「ありません。ただ、信用していただくのは無理なので、調べていただいてから指定していただければ良いと言っていました」
「ふーん」
地図から使者へと視線を移す。
居心地が悪そうな、冷や汗をかいてはいるが、偽りを語ろうとしている様子はなかった。
「分かった。じゃぁ、ココに今日の正午」
「「「「えっ?」」」」
自分の背後と使者からと、同時に疑問の声が上がる。
「なんだ? まずいのか? 闇討ちでもする気で準備期間がいるとか、そういう事か?」
使者へにやりと笑みながら返す。
「いえっ! そんな事が出来る戦力もありませんし…」
言ってしまってから、アッと慌てて口を覆うその使者を横目に、男は笑った。
これは本来、こう言う役割を持っていない一兵なのだろうと当たりをつける。それほど向こうは人員不足なのだ。
「こちらとしても、長い戦で疲れているしな」
何か抗議をしようとする部下達へ、その一言でけん制して、使者へ視線を戻す。
「一応、警戒はさせてもらうが、正午で問題ならまた連絡をくれ」
そう言って使者を返した。
「軽率です、陛下!」
去っていく背中が消える間もなく、側近からの苦言が飛んでくる。まぁそう言うだろうと思っていた男は笑む。
「王都を空けて、そろそろ八ヶ月になるしな。頃合いだろう」
男の黒い笑みを見た一同は、次の言葉を呑み込んだ。男の視線は目前のマリーノではなく、遥か遠いロイヤの王都へと向けられていた。
目的達成のための準備期間としては、頃合いだった。マリーノでこれほど時間を取られるとは思っていなかったが、ここで相手が交渉の場についてくれるのなら、こちらとしてもありがたい。
そう男が内心考えていた時、土煙を上げて、こちらに向かってくる騎乗の二人が見えた。
遠目にも大男だと分かる一人と、引き締まった体躯の一人が、まっすぐにこちらへ向かってくる。マリーノの指揮官は女だと言う話だから、どちらでもないのは明らかだった。
それとも、男に見えるほど屈強な女子なのだろうか。
そんなどうでも良い事を考えているうちに、彼らは目前で馬を下りて、こちらへ歩いてくる。
その瞬間、周囲がざわついた。
「双剣のデッドと師子王ティンです」
驚愕を隠しきれないのか、ジルドにしては珍しく、やや興奮したように示される。男もまた、それを聞いて少し驚いた。
噂は本当だったのだ。
背に長剣を腰にもう一本を装備する男は、一見すると優男に見えるメガネをかけた壮年。しかし、ひとたび戦場に立てば、彼に近づくことは叶わないと言われている―――双剣のデッド。
燃えるような赤髪と驚くほどの巨体と、背に背負われる大剣はまさにその名にふさわしい―――師子王ティン。
敵陣に二人だという事にも、周囲のざわめきも気にした様子もなく、二人は大国ロイヤの皇帝の前に立った。
側近たちがざわつき、男の前へ立とうとするのを、彼は手だけで止めた。
二人の驚異の前で、男は気後けされる様子もなく、静かに見つめ返す。
その様子に、ティンがわずかに目を見開き、そして観念でもしたようにガシガシと赤い髪を掻いて、大きな肩を落としてため息を吐いた。
「たまげた。けっこう殺気放っておいたんだけどな」
「それ、下手したらシィの立場を悪くするでしょう。やめなさい、無駄に喧嘩を売るのは」
「分かってて止めなかったのは、お前も同じだからだろ」
二人のやり取りと同時に、その場にあった圧迫感が融解する。気付かずに拳に汗を掻いていたことに気付き、皇帝の男は内心苦笑した。
「この場に応じてくださり、感謝申し上げます。皇帝陛下」
デッドが気を取り直して、丁寧な口調で礼を述べた。
「こちらの準備が少々手間取ってしまい、時間をいただきたいのですが…」
「準備?」
デッドの言葉に男は眉を寄せる。その様子に、デッドは困ったような、何かを思い出した様な複雑な笑みを浮かべる。
「この後に及んでやっと、本気であいつを逃がす気になったんだよ」
曖昧にごまかそうとしたデッドの思惑もむなしく、ティンが盛大なため息とともに言った。
意味が分からないと首を傾げる男の様子に、ティンが吐き捨てるように続ける。
「シィのやつに、逃げるように説得してんの! 今頃そんな事言うぐらいなら、オレが逃がそうとしてる時に手伝えってんだ」
ティンの言葉に、男も聞いていた部下たちもすぐには反応できなかった。
師子王がマリーノの指揮官を戦場から逃がそうとしたと言う話は、傭兵ジルから聞いていたし、捕虜となったマリーノ兵が指揮官の助命を懇願してきたことも分かっている。
だが、交渉の場に付こうとする指揮官を逃がそうとするなど、軍の中において、ありえない。
そう、それはまるで、一国の主に対するそれの様ではないか。
「マリーノの指揮官は、王位継承権内の王族なのか?」
王族ならば説明が付くと思い、男は聞いた。が、デッドとティンはお互いの顔を見合わせて、苦い物でも噛み潰した様な顔をした。
「いえ…、彼女は政家のお嬢さんですよ」
男の疑問ももっともだと分かるだけに、違うと言うのははばかられた。いっそ、そう言う事にしておけば、少なくとも殺される事だけは避けられたかもしれない。しかし、そんな付け焼刃など、意味がない事も、二人は良く分かっているのだ。
「俺達は傭兵だからな。マリーノの誰が死のうが、国が滅びようが、どっちでもいい。けどな―――」
ティンが言葉を続ける前に、彼らの背後で言い争う声と、複数の馬蹄の音が聞こえた。
一頭の葦毛を先頭に、四頭が駆けてくる。