42.問う(1)
瞼を閉じ、視覚に頼らずに周囲を把握する。
以前にも持っていたその感覚は、ここに来て自分でも恐ろしい程に研ぎ澄まされていた。わずかな集中力で、相手の表情まで読み取れるほどに。
剣を凪ぐ。
剣圧は突風になって場を払い、その先の壁に痕を残した。
目を開けてそれを確認し、彼は困り果てた様に深々と息を吐いた。
「毎日こっちに帰ってきてて、ジルドは怒らないの?」
西に陽が傾きかけた頃、父親と一緒に帰って来た男に、レアは呆れながら問いかけた。
「何も言わないな」
邸内に入った事でフードを取ったカイザックが、何事でもないように応える。きっともう、注意することを諦めちゃったのかなと、ジルドの心中を察してレアは苦笑した。
「お前は何してた?」
その髪に糸くずを見つけて髪に触れながら、カイザックはレアの頬に触れる。一瞬身を強張らせたレアは、視線を逸らせる。
「秘密」
「刺繍だろ」
「!」
「なんだ、レアは不器用なのか?」
面白そうに言われて、レアはその手から逃れながら頬を膨らませる。
「娘は器用なはずですよ。やってこなかっただけで、見られないモノは作らないと思いますが」
二人の様子を見ていた父親が言う。
「お父様!」
これ以上は言わないでと言外に滲ませて、レアは怒った。
午前中は軍部に出向いて、事後処理やら引き継ぎなどの雑務をこなし、午後は家に帰ってきて母親であるマリアから女の指南を受けている。
本人が望んだことではなく、マリアがお嫁に行くんだからと目をキラキラさせて迫ったお陰なのだ。レアにしてみれば、突然、殿方にはこう言う言葉が喜ばれるのだとか、こうすれば良いとか言われても、どうしようもない。特に「恥じらいを忘れてはいけない」と言われて、今までが走馬灯のように駆け巡ってしまったレアは、爆発するほど恥じ入っていた。
「あぁ、そうだ。奥方に相談があったな…」
レアの紅い耳を見ながら、カイザックは思い出したように笑った。
「まぁまぁ、楽しそうなお顔されてますわね。何かしら?」
夫のコートを受け取るマリアは、ニコニコしながら皇帝を見上げた。その耳に何事か囁く。
「まぁまぁまぁ…」
レアを横目に、どんどん目を輝かせる母親に、レアは青ざめた。
「カイザック、何をたくらんでるの!? ヤだよ、何か嫌な予感が…」
「まぁ、悪いようにはしないから、安心しろ」
頭をくしゃくしゃにかき回されて、不敵に笑われ、レアは不安で泣きそうになった。その眼がしらに口づけをする。
「ご…誤魔化しちゃ、ダメ」
自分が真っ赤になって動揺するのを良い事に、口づけで誤魔化され続けている事を自覚しているレアは、必死に抗った。だが、上手くいった試しがない。
「もう、暗いぞ」
部屋のソファで本を読んでいたレアは驚いて表を上げた。
「なんだ?」
「…もう、こんな時間だったぁ」
大きく息を吐き出して、レアは見ていた本を閉じる。マリアに、少しは見て覚えるようにと言われて渡された、刺繍の柄図だ。マリーノに伝わる柄から、ヴァルハイト家の物、動植物をモチーフにした柄まで様々。特に、子どもに最初に刺すのはコレだとか言われて、レアは頭を抱えていた。
「熱心だな。秘密だと言うから、逃げ出しているのかと思ったが」
「大切なことだって言われたら、頑張りますよ」
その本が何かを知ったカイザックは、意外そうにパラパラと開き見たが、すぐに閉じた。男の世界には無縁な内容だったから。
窓の外から最後の西日が沈むのを見て、レアはカイザックを見上げる。
「今日は早いですね。いつもは夜が更けるまで男性陣で話し込んでいるのに」
皇帝がマリーノに入って二週間、マリーノに部屋を用意させているにもかかわらず、皇帝は毎夜ヴァルハイト邸にやって来ていた。もちろん、お忍びではある。時間差を作ってジルドやエゲートも加えて、父や兄も含めた男性陣で夜が更けるまで話し込んでいるのが日常だった。その話し合いにレアは呼ばれず、一度デッドが加わり、父と懇意にしている政家の人間も加わっていたのだけは知っている。
「お前の父や義兄が優秀なんで、型は出来たな。後はミヤが来るのを待つだけだ」
「ミヤ?」
初めて聞く名に、レアは首を傾げた。
「ミヤはオレより二つ上の幼馴染で、祭事に詳しい。マリーノに向かう前に、こっちに向かうように早馬を出したから、後一週間ほどでこちらに着くはずだ」
レアはますます首を傾げた。
「皇帝の留守を預かるような方を、こちらに呼んでしまって良かったんですか?」
「…ロイヤには他にも優秀な奴はいるからな」
レアの指摘に、カイザックは苦笑した。恐らくレア自身は何気なく言ったのだろうが、ミヤが自分の腹心中の腹心であると言い当ててしまうあたり、恐ろしくも頼もしく感じる。
「優秀と言えば、お前の義兄は優秀だな。ロイヤに欲しい」
「あげませんよ」
驚いてレアは咄嗟に拒否していた。
「お義兄様は、ヴァルハイトの跡取りなんです。連れて行かれたら、お父様だけじゃない…伯母様が嘆き悲しんじゃいます」
ヴァルハイトの先代は父の兄だった。だが、双子の男児が生まれてすぐに急な病で亡くなってしまい、家を存続させるために弟である父が跡を継いだ。マリアは長く子宝に恵まれなかったため、双子の兄を養子に迎えて跡取りとしていた。レアが生まれた時には、ケイトはすでに兄としてこの家に居た。
「伯母様の為に、お義兄様は父母を叔父伯母と呼んでいるぐらいですから、万が一にもロイヤに連れて行ってしまったら、それこそ伯母さまの呪いが降りかかりますよ」
「では、諦めるとするか」
それが良いですよと答えるレアの頬に、カイザックは触れた。注意を引かれて、レアが彼を見上げる。
その瑠璃色の瞳を見下ろして、男は口を開いた。
「もし、ロイヤに来なくていいと言われたら、お前はどうする?」




