36.提示
レアの気配が遠ざかっていくのを、カイザックは目を閉じて待った。
まんじりともしない重く緊張した空気が支配する中の、気配だけを感じる。研ぎ澄まされた感覚が、人心すら教えてくるような―――感覚。
手だけで扉を閉めるように指示し、目を開ける。
「服従か、殲滅か」
ここに来るまでに繰り返してきた問いを、男は何の躊躇もなく繰り返す。冷たく響く言葉の矢が放たれ、その場にいた誰もが凍りついた。
レアが人心を把握する事に長けているのならば、またこの男も同じ。
「―――と言いたいところだが、お前たちの武神アファリアは慈悲深い。彼女を立てて、ここは条件を飲むならば、ある程度の譲歩をしよう」
壇上の王へ、射抜くような視線を放ちながら、男は言い放ち、そして不敵に笑んだ。
「オレは信心深い。神の意志を無視することはしない」
うだつの上がらない王だとは聞いていたが、本当に言われる通りのようで、王は男の一睨みにヒィと悲鳴さえ上げていた。
「じょ…条件?」
かろうじて声を上げられたのは、レアに押し付けられた短刀を持つ初老だった。恐らく、この男が実権を握った軍家パルマの家督であり、現在の宰相なのだろう。
「そう、条件だ」
男はニィと笑った。年など感じさせぬほどの高さから見下ろすように、笑う。
「武神アファリアの娘レア・シィー・ヴァルハイトをロイヤにもらう」
空気がざわついた。
それは二色に分かれるのだと、男にはすぐに分かった。
一つは、彼女を本当に武神とあがめるように大切にする者の放つ、戸惑い。そして、もう一つは、差し出すことで殲滅が免れるなら差し出すべきだというもの。
「お前達にあの娘は不相応だろう。価値の分からぬ者が主では、神も不遇だ」
相応しい者が持ってこその代物だと、男は態度だけで言って見せた。レアの利用価値を計算しながら、取り込むことにあと一歩で失敗してきたパルマの人間にとって、それは最大の侮辱。
歯ぎしりすら聞こえてきそうな、その気配に、男は内心でニヤリと笑んだ。
「その上で、三つ提示する」
男は両手を広げた。
漆黒のマントが翻る。
通貨をロイヤの物に統一する、ロイヤとの貿易の促進、祭事についてロイヤの役人の派遣・監督を受け入れる。
三つ目は明らかな内政干渉だ。普通ならここでの抵抗があって当然だった。
だが、ざわめきはしても大きな反論の声は上がらない。
反論すれば、それはすなわち殲滅を選ぶことになると、誰もが感じていた。
そんな周囲の様子に、男は内心上手くいったと笑んだ。ここで少しでも気概のある人間がいれば、それはそれで楽しめたのだろうが、部族に毛が生えたような国家ではこの程度だろう。
用は済んだと、男は背を向けた。
後の事は、ジルド達が進めてくれる―――そう思って、扉へ足を向けたところで、側近達の一番後ろに控えていた、頭からフードを深く被った男と目が合った。
「あぁ…、そうだった」
一番大切な事を忘れていた。
男の顔に、再び冷たい笑みが張り付いた。
「アレには婚約者がいたらしいな」
ゆっくりと振り返りながら、周囲を見渡す。
「ロイヤの慣例で、婚約者から奪う場合は決闘を行わなければならない。―――お相手願おう」
広場の中の一人に視線を合わせ、カイザックは薄く笑った。
「悪い顔をしてましたね」
廊下を歩いていると、後ろからそう声をかけられた。
「まぁ、この地位に就いて四年だからな。ハッタリのスキルは上がったさ」
振り向かずに小声で応える。相手からも微かに笑ったような気配だけの返事が返ってきた。
後の事はジルド達に任せ、謁見の間を早々に後にしたカイザックは、とりあえず部屋を要求した。岬に野営している自軍に戻っても良かったが、折角だから簡易ではないベッドを確保しておきたい。
部屋の準備をするまでの間に通された部屋は、窓が中庭にしか面しておらず、海を見たかったカイザックは廊下に出ていた。
壁にもたれて外を眺めていると、どこからともなく風が通る。
「風の匂いが違うな」
内陸にはない匂いに、カイザックは楽しむように空気を肺に入れた。
「潮の匂いですね。その日の風向きで、洗濯が干せるかが変わる。そんな生活をここの人間はしているんですよ」
自分と対面の壁にもたれ、同じように外を見つめるフード男の返答に、カイザックは眼下の街並みを見下ろした。
今日は洗濯日和なのか、所々で白い物が揺れている。
「さっきのが貴方の本心ですか?」
フード男の空気がわずかに変わった事を理解しながら、カイザックは小さく笑った。
「安心して良い。あぁ言っておけば、腸煮えくり返ってくれるだろうという計算で言った言葉だ」
本当に過保護だなと、カイザックはフード男へ笑った。
「今までの、レアへの不遇に対する腹いせにしては、可愛いものだろう?」
そう言って、カイザックは肩をすぼめて見せた。
議会は紛糾した。
結論など決まっていたのだが、彼らがなぜ怒鳴り合う事になったのかは、言うまでもなく責任の擦り付け合いだった。
とは言え、すでに何度も行われてきたこの押収に、渦中のヴァルハイト卿はすでに疲れていた。娘が出陣し、侵略の王を連れて帰って来た責任をどう取るのだとか、そんな事を喚き散らす誰もが、今後を考えないようにしているのではないかと疑いたくなる。
カイザックの言葉を借りるなら、所詮は部族が真似事で作ったような弱小国家なのである。
「我々に、要求を飲む以外の選択肢があるのですか?」
罵声のような責めを、ヴァルハイト卿は無視することにした。ここまで来て、これ以上時間を無駄にする気もなく、彼の言葉に一室は静まり返った。
「我が娘、我が家への責任を問うのは後でもよろしいでしょう。…まず、ロイヤからの要求を飲む事は、屈辱ではありますが、総意でよろしいか?」
沈黙する王を見つめ、そしてパルマ宰相を見つめ、一同を見渡す。
ある者は視線を逸らし、ある者は苦々しく舌打ちをした。だが誰も異議は口にしない―――出来ないのだ。それ以外に道はない。
(レアをたった150の兵力で送り出しておいて、本当にどうにかなるとでも思っていたのか)
娘の苦しみを思うと、ハンスは息が詰まった。内心の憤りも抑え込み、静かに息を吐く。
「しかし、アファリア様を差し出す事は…」
共に王に正しい祭事へ誘おうとした仲間内の一人が、苦しげに言った。レアが、かの有名な武神の名を二つ名に持っているのは知っていたが、この場でその名が出ることにハンスは苦笑した。
「我が娘は、そのような立派な者ではありません。ただ、ロイヤ皇帝へ娘の引き渡して、国を守れるのであれば、それこそ慈悲深い武神も、娘も本望でしょう」
(ヴァルハイトめ)
心のいら立ちのままに、ズカズカと歩を進めながら、ドルテ・パルマは歯ぎしりした。混乱する議会を、最後にまとめた男を苦々しく思い返す。
「どうします? 父上」
後ろを足早についてくる長男の問いかけに、ドルテは足を止めた。
「ヴァルハイトは自分の娘を使って、ロイヤへの影響力を持ち、干渉してくるロイヤに自己有利にこの国を動かす気だろう」
つくづく思い通りにならぬ父子である。それならばいっそ、エバンスと共に殺してしまえば良かったのだ。選択をしくじったと苦々しく思う。
ロイヤの監視と干渉がどこまで行われるのかは、派遣されてくる人物にかかっているのだろうが、現段階でロイヤへ影響力を持つのはヴァルハイト卿であるのは明らかだ。
「ヒヨードがロイヤ皇帝と決闘をするという事ですが…」
長男の不安を感じ取り、しかしドルテは何事か思い至って笑む。
「そうか、…それを利用しなければ…な」




