26.糸を引く(5)
ちょうどその時、入り口で自分を呼ぶ声があった。
「ジルドか。…入ってくれ」
皇帝の合図で内側に入ったジルドは、そこにマリーノの軍医がいることに驚き、次に皇帝である男が身を預けるようにして座り込んでいることに瞠目した。
「なんでもない」
彼が口を開く前に、男は言った。騒ぎにするわけにもいかない。その意図を理解したのか、ジルドは足早に近づいて膝を折った。
「ちょっとした立ちくらみだよ。寝不足なだけ」
視線だけでこちらの様子を伺ってくるジルドに、男は苦笑した。その言い様に、ジルドはさらに驚いたように目を見開く。
「陛下、言葉遣いが…」
言われて初めて気付いたのか、男はしまったと口を押えた。
「そう言えば、偉そうな感じではなかったな。あれは演技なのか?」
そう言ったホルスを睨むが、この軍医も全く動じない。
「なぜ、貴殿がこちらにおられる?」
「オレが許可したんだよ。朝晩、ちゃんと診に来いって」
ホルスが応えるより先に、男は後ろ手に寝台の少女を指して言う。理由には納得したが、不用心だとでも言いたげなジルドの顔に、男は笑った。
「まぁ、害はないさ」
言いながら、慎重に体を起こし、座り直した。まだ違和感はあるものの、問題なさそうだった。チラリとホルスを盗み見れば、彼もこちらを見て安堵したような顔をした。
「手配は?」
声音の変化に気付いたのか、ジルドは背筋を伸ばす。
「はい、ティン殿に明朝出ていただきました。すぐに戻るとおっしゃってましたが、連絡あるまでは留まるように伝えてあります」
レアはマリーノへ向かった事になっている。一人で行くのはどう考えてもおかしく、そこで動けるものが付き添った事にしようという事になったのだが、マリーノで事情を知っていて動けるものは三名のみ。お互いに行けない理由合戦になっていたために、じゃんけんで決まったのだが、自称レアの何番目かの父親であるティンはごねた。
それでも決まったのだから、行ってもらうしかなく、嫌がる師子王を宥めて脅して、ようやく明朝、人気のない間に送り出すことが出来たのだ。
「いい大人が、16の娘に夢中だな」
「…」
手こずったジルドは、男の感想に無言で応えた。相当、困ったのだろうと男は内心笑う。
「そろそろ、医療班が動き出すので、儂はこの辺で」
魔女の熱の具合も、男の状態も大丈夫と判断したのか、ホルスはさっさとテントを出て行ってしまった。その後ろ姿を見送って、男はため息を吐いた。
「自分が捕虜だという事を分かってないんじゃないか?」
「何をお話になられましたか?」
男の呟きに、しかしジルドは応えず、固い声音で尋ねてきた。振り返って見たジルドの顔は硬く強張っていた。
「こんな所で、小娘に躓いている暇はないのですよ」
断罪される事すら厭わず、主が間違った道へ進もうとしているのなら正そうとする強い意志を感じて、男は目を細めて喜んだ。息子か、下手をすれば孫ほど年の離れた若造に、ここまで忠誠を誓ってくれる者も、そうはいない。
しかし、男は返答を少し考えた。
「…思いっきり、躓いたな」
「!!」
何か言おうとして、混乱して言葉の出てこない忠臣をよそに、男は腕を伸ばして、魔女の手に触れた。この細い手が顔を覆い、指先に伝った涙を思い出していた。
「まぁ、お前たちのついでに、ちょっと背負ってみようかと思っている。…軽いしな」
簡単な事のように、男は言ってのけた。
もしかしたら、一国を背負うよりも重いかもしれないと、心のどこかで考えたが、どうでも良かった。
「それに、考えてもみろ」
苦虫を噛み潰しているジルドへ、男は笑顔を向けた。
「この娘は頭が切れる。オレ達の目的の方向を最初から分かっていた。敵なら脅威だが、味方なら心強いと思わないか?」
そうは言っても、未だ納得していない忠臣の様子を、男はまぁ当然かとさして咎める気もなかった。ゲリラ戦に一番頭を悩ませていたのは、自分ではなくジルドだ。
「この性格で、荒れ果てていた空気を緩和してしまった。…まぁ、緊張感をぶち壊したとも言うが」
言い募る男をじっと見つめていたジルドは、しかし俯いた。
「連れ帰るための口実に聞こえます」
絞り出された声には、苦々しさが色濃く混ざっていた。何が言いたいのか理解できなかった男は、首を傾げた。
そんな男へ、ジルドは再度睨むように見つめてくる。
「気に入った―――惚れたから、側においておきたい、のでは?と申し上げているのです」
ジルドの言葉に、男は目を丸くした。
空に飛翔する翼を見つけて、鳥笛を吹く。
腕に留まった大鷲に託された文の、いつと違う在り様に、胸がざわつく。知らず震える手で文を開き、自分の直感が当たってしまった事に愕然とした。読み進めるうちに、胸が苦しくなる。
「…レアっ」
遠い地で戦う義妹の名を呼び、踵を返す。
「叔父上! 叔父上はどこですか?」
自室で妻に手伝わせながら、出廷の用意をしていた叔父は、息を切らしながらも青ざめた様子の甥に驚いた。が、その手に握られていた文を見つけ、顔色を変える。
「見せてみなさい」
差し出された叔父の手に文を託し、青年は気持ちを落ち着けようと深く息を吸った。
隣で不安げな色を浮かべる妻の肩を抱き寄せ、男は妻にも見えるように文を開く。
力強く、しかし落ち着いた字が、その書き手を表していた。綴られていた文を目で追い、途中で妻は夫の肩に顔を埋めてしまった。その背中を撫でながら、続きを読み進め、最後のサインをしばらく見つめていた。
「…叔父上」
意を問うように呼びかける甥へ、男は頷いて見せた。青年の顔にも、男の顔にも、覚悟がはっきりと浮かんでいた。
二度と会えないかもしれないと思い、送り出した愛しい娘。誰よりも人と国を愛していた彼女が、遠い戦地で自分を押し殺し、いかに命と身を削ったのかは、想像に難くない。
「レアの繋いだ道を、これ以上踏みにじられるわけにはいかぬ」
嗚咽を漏らす妻の肩が震えていた。
いつも読んでくれて、ありがとうございます。
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