22.糸を引く(1)
その時は、いつも突然だった。
急に視界が暗くなって、気付いたら自分のベッドの上で、みんなが心配そうに覗き込んでくる。自分に何が起こったのか、その原因も経過も分からず、ただ目を覚ます。
「今日の夕餉は何かなぁ~」
嬉しそうに言う魔女の言葉に、前を歩いていた皇帝は若干呆れた様な視線を向けてきた。
「だって、毎食食べに来てもいいって言ってくれたじゃない」
夕餉の用意が始まる頃、一日の雑務を終えたレアと、どこで何をしていたのか分からない皇帝とが食事場に向かう途中で出くわした。
「来いとは言ったが、お供が多くないか?」
そう示されたのは、レアの後ろにいる副官セイル、デッドとティンだ。セイルとは、ちょっとした相談があったので、そのまま着いて来ているのだが、傭兵二人に関してはレアも与り知らない。
「夜には酒が出るかと思って」
ティンは悪気もなく言った。確かにマリーノに今は酒はない。その点、ロイヤなら出るだろうと目星をつけたのだろう。
「煽るように飲める酒はないぞ」
入り口をくぐって、男は言う。それでも飲めるだけ良いと思ったのか、二人は遠慮なく着いてきた。
「お邪魔しまーす」
男の広い背中に続いて入り口をくぐると、バスと目が合った。午後の処置に駆り出されたが、夕餉には間に合ったようだった。他に誰がいるのか確認しようとして、レアは気付いた。
気付いたが、もう遅かった。
沈む視界の中で、目の前の大きな背中に手を伸ばした。
何の前触れもなく背中を引っ張られて、男はバランスを崩しそうになった。
「おい、魔女」
服を掴んできた人物へ抗議しようと振り返ったが、その耳に何かが地面に落ちる音がした。音の方へ視線を動かして、男はギョッとする。
「シィー!?」
魔女の後を着いて来ていた副官が驚いたように声を上げる。誰もが最初、ただ躓いただけだと思った。が、起き上がるどころか、ピクリとも動かない。
その顔色に、男はぞっとした。
「シィ! どうしたっ!」
駆け寄った副官を押し退けて抱き起そうとしたティンの肩を、皇帝は咄嗟に掴んだ。殺気も露わに睨まれたが、男はバスへ視線を走らせる。
「バス、診ろ」
短い命令の意味を理解し、軍医が床に倒れたレアに近づいた。バスがロイヤの軍医である事を理解していたティンも、それ以上は何も言わず、睨み付けるようにバスとレアを見ていた。
「どうやら眠っているようですが…」
困惑したようにバスは皇帝へ報告する。それを聞いて、男はレアへ手を伸ばした。抱き起そうと肩に触れ、骨ばったそれに奥歯を噛む。
「疲れでも出たんだろう。しばらく寝かせておけば、そのうち目を覚ます」
内心を微塵も出さず、男は言ってその身体を抱き上げた。その時初めて、男はレアがいつも軍服をきちっと着こなしていたのか、理解した。
その細く、小さな体を少しでも隠すためだ。
テントのさらに奥、簡易のソファに寝かせた。この青ざめた顔に、自分以外は誰も気付かない事に、怒りにも似た焦りを覚える。
「さぁ、食事にするぞ」
場の騒然とした空気を打ち払うように、男は声を上げた。これ以上の騒動はごめんだと言い放つ。その言葉に動き出した面々の中、顔色もなく棒立ちのセイルの肩を、皇帝は叩いた。
「お前たちの軍医を呼べ。絶対に周りには気付かれるな」
その耳に低く囁く。ビクッと震えたセイルは、しかし確かに小さくうなずくと、そっと出て行った。そのやり取りを無言でデッドが目で追う。
「何か知っているようですが?」
皇帝の行動の意味を探るように、デッドはそっと聞いた。が、男は薄く笑む。
「今、魔女が倒れたとマリーノ兵が知ったら、動揺でパニックになるだろう?」
答えになっていない応えに、デッドの瞳に怒りが揺れる。
「他言無用に願うぞ、魔女の傭兵達」
言葉とは裏腹に、恐ろしい程の眼光で見据えられ、さすがの二人も押し黙るしかなかった。
ホルス軍医がレアの診察の為に通されたのは、ロイヤ皇帝の寝所だった。
その事に多少の驚きはあったが、軍医はいずれはこうなるだろうと覚悟していただけに、動揺はない。それよりも、レアの身体の異変に、ついに来たかと奥歯を噛みしめた。
迎え入れた皇帝の顔色が陰っていることに、軍医は内心驚いた。
「心配はいりません。…いつもの事です」
寝台で微かに寝息を立てるレアを見下ろし、ホルスは静かな声で言う。皇帝は簡易のソファに身体を預けたまま、睨むように自分を見た。
「診もせずに分かるのか?」
その言葉に棘を感じて、ホルスは苦笑して頷き、寝台の傍らに跪いて、レアの脈を取った。
「出兵後は必ず…この状態になる。…ただ、今回は帰り着くまで持たなかったんでしょうな」
「持たないって…」
「あるいは、あんたがいるから大丈夫と思ったのかもしれませんな」
細い腕を毛布の中にしまいながら、ホルスはため息をついた。レアがこの皇帝を信用に足りると判断しているのだと感じた時、こうなる事は予想できた。しかし、だからと言って、対策は出来ないのだ。
「そんな顔色で、本当に寝ているだけなのか?」
ぶっきら棒な男の言葉に、ホルスは驚いて振り返った。驚かれた事に驚いて、しかし、男は憎々しげに舌打ちをする。その様子に、ホルスは嬉しくなると同時に泣きたいような衝動が胸を占めた。
「…そうですか。あんたにはシィの顔色が分かりますか」
「逆に聞くが、なぜ誰も気付かん?」
軍医の呟きに、男は苛立った。
「なぜ?と問われると答えられません。分かっているのは、彼女と同じ『糸引く者』にしか、シィーの事は分からんのです」
「『糸引く者』?」
聞きなれない単語に、皇帝は首を捻った。その反応は当然と分かっていたのか、ホルスは皇帝へ向き直り、小さく肩を落とした。
「聞かれますかな? 神話と同じぐらいには、馬鹿馬鹿しい話ではありますが」




