21.太陽
自分の身一つでどうにかなるなど、到底思っていなかったレアにすれば、皇帝が自分に価値を見出してくれたのは、ありがたかった。
「エゲートのお陰で、わたし、生き延びたみたい。ありがとう」
ロイヤ負傷者テントの様子を見に来たレアは、そこで診察を受けていたエゲートへ無邪気に言った。レアの言葉と笑顔に、大腿部の大腿部の包帯を切ってはずそうとしていたバスがハサミを取り落しそうになって、慌てた。一瞬、ぽかんとしたエゲートは、飲み込み損ねた唾でむせ込む。咳き込んだせいで、痛めた肋骨に響いて胸を押えた。
「な、何を…」
「だって、エゲートがわたしの助命嘆願してくれたんでしょう? 足首を痛めてるのに土下座までしてくれて。土下座はさすがにドクターが怒ってたけど」
あの後、治りかけた傷を悪化させたとして、鬼の軍医に頭ごなしに説教された事を思い出し、エゲートは青くなったり赤くなったりする。腹立たしい事に、主に敵の助命をするよりも、その敵方からお礼を言われる方がいたたまれない気がするのは、なぜだ。
「お前に礼を言われる筋合いはない」
なんとか胸を落ち着かせ、エゲートはレアを睨み付け、言い放った。
昼餉の席の前、レアの処遇が言い渡された時、エゲートは複雑な気分だった。助命が聞きいれられた事に安堵する一方、その後のこの少女の運命は過酷だろうことが想像できたからだ。
ロイヤの王宮は未だ、混沌の中にある。
「陛下はお前が思っているような、…お優しいだけの方ではないぞ」
喉から押し出すような低い呟きに、レアは目を丸くした。そして、にっこりと笑う。
「王様は太陽だよ」
何の迷いもない言葉に、エゲートもバスも驚いて少女を見た。見つめられた少女は、さらに嬉しそうに笑うと、右手を空へ上げた。
天に輝く、太陽を。
「なくては生きられないのに、触れることは叶わない。強く輝くから、闇もまたはっきりと分かる」
それはまるで呪文のように響いた。
「王様がとても怖い人だって、知ってるよ。心配してくれて、ありがとう」
自分を生かしておくのは、目的の為に役に立つと判断したからだ。そうでなかったら、脅威となるであろう存在を見逃してはくれないだろう。
二度目の礼を口にして、レアはバスへ視線を向けた。
「わたしに言われたくないだろうけど、治療を請け負ってくれて、ありがとう。お陰で、この二日はドクターに怒鳴られる回数が少なかったよ」
減った分は、バスへしわ寄せが来たのは言うまでもない。
「…マリーノの軍医は他にいないのか?」
「あれぐらい場慣れした軍医はいないかな。性格がアレなんで、軍家から追い出されたんだよ」
それを聞いて、バスは恐ろしい程に理解した。
皇帝だろうが、敵将だろうが、気負う様子もない。そこは魔女と似ているが、命の現場において、誰であろうとこき使い、指示が届いていなければ、遠慮なく罵声が飛んだ。
バスの青ざめた顔を覗き込んで、レアは苦笑した。
「でも、ドクターは使えない人間は呼ばないから、バス殿の腕はすごいと思うよ」
「…少しも嬉しくないわ!」
今も、午前中にロイヤの治療は終わらせておけと、指示という名の命令をされている。午後からマリーノの重傷者の治療に手を貸せという事なのだろうが、正直逃げ出したい。大体、自分の上司はロイヤの皇帝だ。
それでも、逃げ出さずに指示に従うのは、あの軍医の腕が神業を繰り出すからだ。
軍医の家系に生まれたバスにとって、今回の遠征は初めての大きな戦だった。医療班の指揮や前線を経験するために送り出されたようなものだった。
だから、例え憎い敵が相手でも、学べるものは学ぶ。プライドよりも好奇心と向上心が、バスを支えていた。
晴れた空に大きな翼が旋回していた。
微かに笛の鳴る音がして、翼が地上へ向かって急降下し始めた。地上に近づくそれの大きさに興味を引かれ、男はそこへ足を向ける。
林の先、小さく拓けた場所で、魔女の細い腕に二メートルはある大鷲がそっととまった。
「いい仔だね。っと、どうしたの?」
首につけられた文を取ろうとしてたレアは、大鷲が羽を広げて威嚇したことに気付き、後ろを振り返った。
「王様、一人でウロウロしていて、怒られませんか?」
元から隠れる気もなかったらしい皇帝は、ズカズカと寄ってきた。威嚇が通用しないと分かったのか、大鷲がレアの腕から空へ舞い上がる。空中で狙いを定めた大鷲に、レアは慌てた。
「ダメ! ダメだよ、シイリーズ!」
鳥笛を吹き、近づいてくる男から離れて、レアは腕を振った。宙で躊躇するように旋回したそれは、レアの腕ではなく隅の地面へと降りた。
「王様も危ないなぁ。目の一つや二つ、簡単になくなっちゃいますよ」
「人慣れさせていないのか?」
「シイリーズは、お義兄様とわたしにしか扱えないんです」
皇帝の不用心さに怒ったようにレアは言った。男のいるせいで近づいて来ない大鷲に駆け寄り、その首から文を外す。
「ありがとう、シイリーズ。行って良いよ」
頭を撫でると満足そうに目を細め、大鷲はそのまま飛び立った。
「餌付けじゃないのか?」
「違います。昔、お義兄様とわたしが怪我をしたのを助けて、それで恩義でも感じてくれたみたいで、時々手伝ってくれるんです。普段は野生ですよ」
もうすぐ繁殖期に入るから、呼ぶのは控えてやりたいと魔女は言った。そう言いながら、手元の文へ目を落とす。
その横顔が、やはり良くない気がして、男は眉を寄せた。
「やっぱり、お父様が陛下を説得しているけど、上手くいってないみたいですね」
独り言のように、魔女は小さく漏らした。
「なぜ、そんなに揉めるんだ? まだ兵を出して戦うかどうかを揉めているのか?」
不思議に思った男の質問に、レアはため息交じりに首を左右に振った。
「出兵する気はさらさらありませんよ。軍家はこの責任はわたしにあると、声高にお父様を攻め立て、保身を図っているだけです。お父様は陛下に、門を開けてロイヤを受け入れるか、陛下自身が出て交渉するか、今後の道筋を提示していますが、のれんに腕押しと言いましょうか…」
心底困ったと言いたげに、魔女はまた息を吐いた。
「…お前、本当に大丈夫なのか?」
その腕を引いて、こちらを向かせ、男はレアの顔を覗き込んで聞いた。
マリーノの状態がいかんともしがたいことも、魔女が自国をどうにかして守ろうとして苦心している事も、良く分かっていた。元々、部族も小国も潰しに来ているわけではない。その事を見抜いている風でもある魔女の、表に陰る色が、どうしても落ち着かなくなる。
「大丈夫だよ。…あぁ、でも」
驚いたように目を見開いた魔女は、困ったように笑った。
「プツッと糸が切れちゃったら、もう何も出来ないから、後の判断は王様に任せるよ」




