17.動揺
泣いているつもりはなかったし、泣くつもりもなかった。
でも、悲しかったのは確かで、胸が苦しくて、自分の非力が悔しくて。
何が悪かったのか、どんな選択をするのが正しかったのか、―――出陣すら拒んで、殺される覚悟で意見すれば良かったのか、それともみんなの意見を聞いて逃げていれば良かったのか。
(あぁ、…わたしはなんて非力なんだろう)
伸ばした腕の、なんと細いことか。
女弓どころか、短刀の一つも扱えない。
どれだけ腕を伸ばしても、空を切るばかりで、何一つ守れない。それどころか、自分の為に大切なみんなが死んでいく―――ずっと支えてくれた部下達、傭兵の仲間、そして師匠も。
検死をしたドクターも、父も兄も、何も言わなかったけれど、レアには分かっていた。
師匠は左肩を射抜かれて、海に落ちた。呼んでくれたなら、わたしに聞こえたのに、彼は呼ばなかった。
(どうして、師匠…)
「もう分かった! 分かったから、それ以上泣きわめくな。こっちの耳が潰れる」
突然、腰を強い力で引き寄せられ、水面が大きな水音を上げた。空を映していた視界は飛び散る水滴を見ていた。
「体が丈夫ではないと言っておきながら、こんな所で何をやっている?」
「…水行…かな」
「馬鹿な事はやめろ」
呆けた返事をするレアへ、男は怒ったように言った。レアを抱えたまま、ザブザブと岸に向かって歩き出す。
「水に浸かってるくせに軽いぞ。もう少し太れ」
「この三か月ですごく痩せちゃったから…」
「…とりあえず、しばらくはこちらの夕餉に来い。必要なら朝も昼も来い」
力強い腕に荷物のように運ばれている自分の様子に、レアは苦笑した。男のぶっきら棒な申し出も嬉しかった。
「わたし、泣いてないですよ? どうして王様が川に入ってずぶ濡れなんですか」
あと数歩で岸と言うところで、レアは不思議そうに男を見上げた。その瞬間、男の顔が鬼の形相に変わる。
「泣いてないだと?」
ざばっと盛大な音と共に陸へ上がった男は、降ろしたレアの胸ぐらを掴みそうな勢いで人差し指を突きつけた。
「あれほどキンキン響く声で泣き喚いておきながら、泣いてないとか言えるのか!」
「え? 本当に泣いてな…」
そんな言いがかりだと手を振りながら、レアはハッとした。無意識に、師匠がいた時のように声を上げていたかもしれない可能性に気付いたからだ。
もう、受け止めてくれる先はないのに。
手繰り寄せても、何もない糸先に気付いて、苦しくなるだけなのに。
思い当ったのか、急に青ざめて黙り込んだレアに納得して、皇帝は疲れたようにため息を吐いた。
「悪いようにはしない。何かあったら聞いてやるから、さっきみたいな超能力は使うな」
言って、未だに俯いたままの頭を撫でた。ふわふわとネコ毛が指に心地よく絡む。
「な…何にもしてません、わたし」
そこまで言って、レアはギョッと皇帝を見上げた。
「え? キンキン泣き喚いて…? え? 王様、何か聞こえてたんですか? え? えっ!?」
今までどこか飄々とした様子だった魔女の表が、みるみる茹蛸になる様を、男は目を丸くして凝視した。
「えぇ!? なんて…なんて聞こえたんですか!?」
激しく動揺する姿があまりに新鮮で、男はその長身を少し屈めて、その顔を覗き込んだ。突然近づいて来た男の顔に、レアは身を強張らせる。
「そうしてると本当にただの娘だな、魔女」
言われて初めて気付いたのか、レアは慌てて自分の顔を覆う。その動作すら新鮮だった。男は喉の奥で笑いを堪え、再びその頭を撫でる。
「まぁ、溜めこむのも良くない。たまには吐き出すのも良いんじゃないか?」
詳細は告げず、男は笑いながらその頭を激しく掻き乱して、さっさと背を向けて歩き始めた。
それは、自分の胸まで切り裂くほどの痛みと、絶望にも似た後悔。
闇の中に見える、ただ一つの光へ向かって腕を伸ばし、懇願するような祈り。
男は自軍へ戻りながら、ギリリと奥歯を噛んだ。
魔女には軽くあしらっておいたが、あれは下手な精神では耐えられない。彼女の叫びに触れながら、その先の『神』の存在を思い知らされる。
こめかみに汗が滲んだ。
天を指し示す少女の指の先、遥か彼方に在るそれは、少女に応えた。それを見た瞬間、男は興奮に震えた。この娘を手に入れることは、自国の神殿に気を使ってやる必要はなくなるのだ。神事を疎かにし、己の権力に執着する司祭共を一掃することも容易いだろう。
知らず、口角が上がる。
魔女であろうと武神であろうと、自分にはどちらでもいい。
こんな極東にまで来て、当初の目的以外にこれほどの収穫があろうか。家臣達が色々言ってくるだろうが、そんな事はどうでも良い。
(アレを手に入れる)
そう内心で呟いた瞬間、少女の真っ赤な顔が浮かんで、男はぎくりと立ち止まった。
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