16.天へ導く
皇帝の招集がかかったのは、陽の昇り始めた頃合いだった。
「今行けない!」
しかし、伝言を伝えてきたロイヤ兵に向かって、レアは振り向きもせずに叫んだ。皇帝の招集をその一言で拒否する魔女に、兵は何事か言おうと口を開いたが、その背を突き飛ばされ、ふらついた。
「どけっ! 邪魔じゃ」
白衣の男が鋭い一言を放った。
「心拍が50まで落ちてる。呼吸も浅くなってる」
「いつからじゃ?」
「五分前。腕の包帯交換時に。意識は朝はあったって事だけど、わたしは話してない」
魔女からの報告を聞きながら、軍医は横たわる兵の身体を診ていく。周囲には他の者を治療していた救護班が慌ただしく動き出していた。
「バスの奴を呼んで来い!」
突き飛ばしたロイヤ兵に向かって、軍医は怒鳴った。あまりの気迫に、文句を言うのも忘れ、兵は慌てて走り出す。
そうしている間にも、心拍はどんどん落ちていく。
自分の早鐘を打つ心臓の音で、その心拍を拾う事もままならなくなって、レアはギュッと目を閉じた。額から頬へ汗が伝う。
「シィー、覚悟はしておけ」
ドクターの声が聞こえた。その声に抗うように、レアは目を開ける。
「サザリ! しっかりしろ! もうすぐ国に…息子の元に帰れるんだぞ!」
色の抜け落ちた男の顔を見下ろし、レアは叫んだ。医術に詳しくない自分には、これ以上何もできない事を、良く分かっていた。
「ここまで耐えておいて、ここで諦めるな! サザリ!!」
バスが駆け付け、続く処置が慌ただしく行われていく中で、レアは声をかけ続けた。
「サザリっ!」
そして、その肩をドクターに掴まれて、瞬間にレアは理解した。ドクターが首を振る様子を見つめ、レアは音が鳴るほど奥歯を噛みしめる。
見下ろすサザリの表に、命の色は今にも滲み消えていこうとしている。
あぁ、どうして自分には、こんなことまで分かるのだろう。
ぼんやりと思いながら、レアはその者の顔の横へ静かに座った。周囲の息を飲むような静まり返った静寂も遠く、遠く遠い遥か彼方より小さな風が生まれる音を聞いていた。
右手を消えゆく者の胸に、左手を自らの胸に当て、レアは瞳を閉じた。
「我らが天の神、地の神よ。戦い傷付き、今消え入るこの魂を…」
ふわりと風がテントの裾を揺らした。
それは優しく、踊るようにふわりふわりと裾を揺らし、薄暗かったテント内へ光を呼び込んだ。
暗い瞼の裏に、優しい光の舞う方向を見つけて、レアは瞳を上げた。自らの胸においていた左手をサザリの額に当て、その上からキスをする。
(さぁ、貴方の行く先は、あそこ―――)
「優しい貴女の腕の中へ―――」
指し示すように、空へ腕を上げた。
風がそれを導くかのように、吹き上がる。天井にあった空気講がバタバタと音を立てた。昇り始めた光がテント内に溢れ、風と共に去っていく。
ゆっくりと腕を下し、レアは色のないサザリの顔を覗き込んでいた。
再び薄暗くなったテント内で、レアはその額に触れ、髪を撫で、小さく感謝の言葉を呟くと立ち上がる。
「ドクター、後の事は、…お願い」
「どこへ行く?」
立ち去ろうとしたレアへ、軍医ホルスは呼び止めた。見送った後も埋葬するまで側を離れた事のないレアが、後を任せて立ち去る事は今まで一度たりともなかった。それが故に、一抹の不安を感じずにはいられなかった。
ホルスの内心が分かったのか、レアは苦笑して見せた。
「大丈夫だから。お願い」
それだけ言って、レアは歩を進めた。
入り口の前で、皇帝と皇帝を追いかけてきたであろうジルドと腹心たちとすれ違ったが、彼らの視線だけを受け入れて、レアはその場を後にした。
初めて見送ったのは、五歳の時。
師匠と出会って間もなく、連れて行かれた厩舎で、戦馬として戦い老いて、今静かに眠ろうとしている雄馬に対してだった。
その姿を見た瞬間、彼の雄姿が見えた気がした。女神がその魂を慈しんでいる事が分かった。無事に貴女の元へ―――それだけを強く願い、自分が何をしたのかは分からなかった。
「お前にも分かるのか…」
師匠がそう呟いたのを、その背に背負われながら聞いていた。
「アファリアは、戦い傷付いた命を癒す神だとオレは思ってる。だからこうして時々、分かる人間を遣わしていらっしゃるんだろうな」
師匠は時々、アファリアについての自分の見解を話してくれた。それは神話にあるような武神ではなく、命を最も尊び慈しむ慈愛の女神だった。
わたし達は彼女の意志を、風に光に水に命に感じ取り、読み取る。出会った瞬間から、人とは異なる感覚を共有していた自分達は、お互い一番の理解者だった。
目的地もなく、ただ突き進んだ先の水辺で、レアは足を止めた。水面で反射する朝日が目に辛く、レアは靴のまま浅瀬をざぶざぶと進んだ。すぐにブーツに水は浸み込み、膝まで濡れても、レアは気にしなかった。
風が耳元でささやく。
水が肌を優しく撫でていく。
見上げて伸ばした腕の先、光が慰めるように舞う。
「…女神さま」
わたしは貴女の名前がアファリアではない事も分かるし、貴女が望むことも居場所も分かるのに、どうしてわたしは命を繋ぎ止めるすべを知らないの? 持つならば、もっと―――傷を癒す力が欲しかった。
その願いが女神を苦しめることも、自分の非力の責任をただ転嫁してるだけに過ぎない事も、レアは良く分かっていた。
分かっていたけれど、この時初めて、レアはそれを願った。
少女の指し示す天へ、昇る風を見た。
軍服の裾から伸びる指先は細く、風に舞いあがる茶色の髪にも微かな光が宿っていた。
死者を送る姿が、武神アファリアの憑代のようだった、と言った者がいた。それを思い出した瞬間、全身の毛が逆立つ。
それは得体のしれないモノへの恐怖、あるいは畏怖。
同時に興奮した。
その場を後にする少女と、一瞬目が合う。が、その色は深く、何も読み取る事は出来ない。静かに俯いて、自分を拒絶するように過ぎていく細い背中を見送った。
魔女の立ち去った後のテント内には、目の前で起こった事象に呆然とする者、神の名を口にする者、そしてただ一人軍医だけが、ゆっくりとした手つきで、遺体の乱れた服を整え始めていた。
「アファリア…」
口を突いて出てしまったのか、側近はハッと自らの口を塞いだ。その様子に皇帝は不敵に笑んだ。ハッカの上司であるイスマルでさえ、あんな光景を見せられてそう思うのだから、捕虜になっていた150人が懐柔され、魔女の助命を願ってもおかしくはない。
「オレも良いか?」
サザリのはだけたシャツのボタンを留めていた軍医は、顔を上げた。
「あんたが皇帝陛下か」
それだけを言って作業を続ける。それを肯定と受け取って、男は持っていた布を水で浸し、一礼して顔を拭き始めた。穏やかに眠るようなその表を整えながら、男はこの魂の行く先を想った。
その慣れた手つきに、軍医は少し驚いたようだったが、小さく笑った。
「慣れていらっしゃるようだ」
「軍には下積み時代からいるからな」
軍医はまた笑う。
「あんた、シィーに似とるよ」
「…オレにあんな力はないぞ」
「いや、アレは別に特別な力じゃない。誰もが持っている力だ。ただ、ちょっと他より強いから特別に見えるが―――」
そこまで言って、軍医はピクリと動きを止めた。何かあるのかと表を上げた皇帝は、突然の耳鳴りに思わず耳を押えた。
その様子を見た軍医は、困惑したような喜んでいるような複雑な顔で、皇帝を見やって小さな笑みを浮かべた。
「あんたの耳には聴こえるはずだ。あの子の声が―――」