第八話
「……やはり、右腕のほうがしっくりきますね」
アルバートは右手を握りしめ、開き、という動作を繰り返している。その行為によって彼の体になんらかの感触が現れる訳ではない。しかし、腕があった頃の名残りだろうか(覚えてはいないが)、それとも他人の所作に影響を受けたのだろうか、いつからか定期的に行う癖となっていた。
魔女からもらったブラウンのコートのおかげで、血のシミだらけのコートからおさらばできただけでなく、躊躇いなく右腕を使えるようになったのだ。
「あら、利き腕はないんじゃなかったの?」
いつだか話した、利き腕がないという話を思い出してか、リタが意地悪い視線を投げかけてくる。
「多少の動かしづらさはありますよ」
忘れたんですか? と付け加えようとして、止めた。思ったことをそのまま口にしてしまうと、どうも彼女の機嫌を損ねるらしいと、学習しつつあった。
「それより、大丈夫かしら」
彼女は空を見上げる。つられてアルバートも顔を上げた。
西の空は赤く染まっている。丁度、彼が捨てたばかりのコートのシミと同じ色だ。天候に問題はない。ただ、そろそろ夕闇が襲ってくる頃合いだ。彼女は野宿しなければいけないのでは、という心配をしたのだろう。
辺りは多少緩やかな起伏のある草原だ。今歩いている道も多少なり舗装されていて歩きやすい。こういった、人の手が入った場所は獣もあまり寄ってこない。野宿になったとしても比較的安全な場所だろう。
それでも、野宿しないに越したことはない。実際、ラズ村を出てから、手ごろな集落が見つからず、すでに一日野宿をしているのだ。出来るだけ、連日の野宿は避けたい。
「もうすぐ、街があるはずです。ただ、それなりに大きい街だと聞いてますから、急いだ方がいいかもしれませんね」
大きな街は周りを防壁で囲っている場合もある。王都がその最たる例だ。その場合、入り口は複数、あるいは単一の城門のみとなってしまい、日が落ちると閉まってしまうことも多い。
「何ていう街?」
「確かマウエルといったかと」
「知らない」
「大きいといっても東部の中ではそこそこ、といったレベルですからね。それでも、王都直通の連絡馬車が通っているらしいですから。……噂をすれば、あれじゃないですか?」
アルバートは前方を指差す。緩やかな上り坂を登りきり、今まで遮られていた視界が開けてきた。数キロ先には目指している街が見えた。この距離からでは断言は出来ないが、おそらく防壁に囲まれている形式のようだ。
「急ぎましょうか。門が閉まりそうです」
多少速度を上げ、しばらく歩く。やがて近づいてくと、丁度大きな門が閉じられるところだった。
「あっ、待って!」
焦ったリタが走り出す。アルバートも後を追う。二人に気がついたのだろうか、閉じつつあった門の動きが止まった。その隙に門を潜り抜ける。
「間に合いましたね」
アルバートは深く息を吐いた。彼の一呼吸に対してリタは肩で息をしている。
そんな彼女を尻目に、彼は辺りを見渡す。閉門作業を行っていた男が近寄ってきた。
胸当て、脛当てをして、右手には槍を持った、軽装の若い男だった。
「審査はいりますか?」
アルバートは訪ねる。
「いんや。マウエルにようこそ、くらいは言っとこうかね」
男は欠伸をかみ殺した後、ニヤリと笑いながら言った。
「仰々しい壁に囲まれてるけど、結構ゆるい町だよ。ああ、宿を探すなら大通りだね。裏通りに入っても、質の割に、たいして安くならないよ」
そう言って、左手をひらひらと振りながら彼は立ち去っていった。
「さて、大丈夫ですか?」
アルバートは膝に手をついて息を整えているリタを見遣った。
「ええ……。行きましょう」
多少強がりが見て取れるが、彼は気に留めずに宿を探して歩き始めた。
日が落ちてきたこともあり、特に寄り道はせずに大通りの宿を見て周った。三件ほど周って、相場がほぼ同じだったので、最後に入った宿屋に決め二部屋を借りた。宿屋の一階で食事が出来るようだったので、そこで夕食を済ますことにする。
レストラン、というよりは酒場という方がふさわしい喧騒の中で、二人は隅のテーブルに腰掛けた。
「私、この雰囲気やっぱり嫌い」
料理を待つ間、リタが不貞腐れたように言う。苛立たしげにテーブルの隅をトントンと指で突いている。
「酔っ払いの高揚した気分についていくのは疲れますからね」
「どうして、あそこまで馬鹿騒ぎできるのかしら。喧嘩沙汰にまでなったりするじゃない。ほら、今もあそこで」
呆れながら目を細めるリタの視線を追うと、店の中央で言い争いのような雰囲気が生まれていた。
さして興味は無かったが、料理が来るまで手持ち無沙汰だったのと、喧騒に負けない大声だったので、耳に入ってしまった。
「だから、見たって言ってんだろ!」
革製の胸当てと腰巻をした若い剣士風の男がテーブルを叩かん勢いで声を荒げる。よもや椅子に立てかけた剣を引き抜くのではと思えてしまうほどの勢いとも思えたが、さすがにそこまでの事態ではないようだ。
会話の対象は向かいに座る体格の良い中年の男だ。蓄えた顎鬚を弄りながら胡散臭そうな目で青年を見ている。
「そりゃあ、流木かなんかを見間違えたんじゃねえのかい?」
「んなもんと見間違うわけ無いだろ!」
「だいたいあんた、何でライル湖になんて行ったんだ?」
「ミール草を取りに行ったんだよ」
中年の男は肩をすくめた。彼にはその理由が理解しがたかったようだ。ミール草は切り傷などに効く薬草として知られるが、栽培可能で大抵の町には売られている安価なものだからだろう。
とはいえ、若者の風貌を見る限り、旅人に見えたし、少しでも節約しようと金策に走る彼の姿勢はアルバートには理解できた。事実、アルバートも同様の事をしたことがある。
話を聞く限り、若者がライル湖で何かを発見したらしい。何を見たのかは定かではないが、中年の男が信じないという事は、いわゆる未確認生物の類だとか幽霊の類であろうとアルバートは推察した。
「男って、ああいう話、好きよねえ」
「人によるんじゃないですかね」
少なくとも、アルバートは好きではない。
夕食を済まして、部屋へ引き上げたアルバートは、すぐに寝てしまおうかと考えたが、程なくして扉がノックされた。返事をする間もなく、リタが部屋へ入り込んできた。
「全く……」
彼はため息をついたが、リタは気にも留めずに、ずかずかとベッドの端に腰掛けた。
「何よ」
アルバートは彼女を睨んだが、睨み返されてしまう。
「こっちの台詞ですが」
「別に。これからどうするのかなって」
これから寝るところですが、と答えようとして、質問の意味がそういうことではないと思い至った。彼女は今回の旅程について知りたいのだ。
言われてみれば、これまで落ち着いた時間がなかったこともあり、この旅の計画を共有してなかった。
良い機会だと、彼は愛用のボロ皮袋から古ぼけた紙をとり出し、部屋の中央に置いてある小さな丸テーブルの上に広げた。
「これ、地図?」
「ええ、読めますか?」
アルバートは二重の意味を込めて尋ねた。一つは単純に文字を読めるか、と同義の教養の問題だ。そしてもう一つは……。
「もちろん! えーと……、今、この辺?」
彼女は地図を指差した。しかし、彼の予想通り、てんで方向違いの地点を指していた。
「やっぱり、方向音痴なんですね」
そう言うと、彼女は頬を膨らませたが、反論できずにいるようだった。
「僕たちがいるマウエルはここです」
アルバートたちの住むゲルニ王国は北側は海となっている。西はオーラント、南はソルチェ、東はフラウと面している。
彼が指したのは国土中央より、やや東側の地点だ。西には大きな川が縦断しており、海まで続いている。
「王都はここですね」
今度は中央より北の地点を指差す。マウエルとの間には先ほどの川を隔てている。
「この川って、ルーイント川?」
「そうです。そのくらいはわかるんですね」
ルーイント川は国内最長の河川だ。一般教養さえあれば、たとえ地理に疎くとも、名前程度は知っているはずだ。
「あなた、どれだけ私を馬鹿にしているのかしら」
彼女がジト目で睨むのを無視して、彼は続ける。
「王都へ帰るには、ルーイント川を渡らなければなりません」
マウエルと王都の間を指でなぞる。
その説明を受けて彼女は眉をひそめる。何か考えているようだ。
「……ああ、自分は川を渡った記憶はないのに、何故川の東側にいるのかが不思議なのですね?」
「なっ、あっ、いや。そ、そんなわけあるはずないじゃない!」
顔を真っ赤にして、彼女は叫ぶ。どうみても図星のようだ。
「おおかた、マルト湖を迂回する南のルートでも通ってきたんでしょう。そもそも、僕らは今まで北上してきましたからね」
ルーイント川は王都より南東、国土中央から東寄りに位置するマルト湖に端を発している。王都、マルト湖、マウエルを結ぶと、東側が短いV字の形になる。魔女のいたラズ村、二人が出会った町ノマリットはマウエルより南に位置し、地図上では一直線となる。北上するうちに王都とは川を隔てる形になってしまったのだ。
また、山賊のいた荒野はラズ村よりもさらに東に位置しており、かなりの遠回りをしたことがわかる。
「そ、そうよ。そのくらい、わかってるわよ!」
上ずった声で彼女は言う。ここまであからさまだと、呆れを通り越して愉快にも感じられる。
「で、話を戻しますが、王都へは川を渡る必要があります。というわけで、マウエルの西の大橋を渡ります。ここから王都への連絡馬車がありますので、いくつかの街を経由して三日もあれば王都へ辿り着きます」
「ふーん、なるほどね」
わかっているのか、わかっていないのか、彼女は曖昧に頷く。
「そういえば、聞いていませんでしたが、どんな目星をつけてノマリットにいたのですか?」
「え? とりあえず、出発しそうな連絡馬車に乗ったのよ」
「聞いた僕が馬鹿でした」
アルバートは盛大にため息をついた。