第七話
「アル、あなた、何がしたいのよ?」
アルバートとリタの二人は森の中を歩いていた。
リタがそう思うのも無理もないかもしれない。
昨夜、アルバートは酒場のマスターの頼みを断ったのだ。そして、断った上で魔女の住み家を尋ねたのだ。
彼女にしてみれば不可解極まりない行動なのかもしれない。
だが、彼にも確固とした判断があった。
「僕は、僕の都合で魔女に会いたいだけです。村人のことは正直関係ありません」
「何よ、都合って?」
「魔女とははみ出し者の魔術師を指します。ですが、ほとんどの場合、彼女らは有能です。ならば、高名な魔術師の噂を知っていてもおかしくはないという推察です」
「あっ、ライアン先生!」
「そういうことです。しかし……」
彼は言葉を切って顔をしかめ、目の前の道を見つめた。
二人が歩くのは獣道にも等しいような道だった。かろうじて道だと思えなくもない、ぬかるんだ道だ。時折、成長しすぎた傍らの木の根に足をかけてしまう。
「切り株を辿るって、曖昧な道案内もあるもんね」
リタが彼の言葉を継いだ。
マスターが示した道順は「切り株を辿れ」というものだった。道の傍らの切り株を目印に森の中へと入り、切り株を見つけるたびに、最初は右、次は左と交互に十回曲がれと言われたのだ。
「次は、右よね」
「いえ、左です」
「うそっ」
「嘘じゃありません。しっかりしてくださいよ」
「えー、絶対右よ」
「左です」
結論が出ないうちに次の切り株へと到着してしまった。二人はその切り株の前で立ち止まる。
「ぜえったい右!」
「左です」
「右!」
「……わかりました。どうせこれが最後の切り株です。先に右に行って、何もなければ引き返しましょう」
「わかればいいのよ、わかれば」
自分の意見が通ったことで気分を良くしたのだろう。リタはスキップするように先へと進んでいく。
「転びますよ」
言った矢先に彼女は躓いて体勢を崩す。かろうじて踏ん張ったようだ。リタはアルバートの方を振り返って苦笑した。
アルバートはため息をついた。
しばらく進むと、切り株が見えてきて二人は立ち止まった。
「あれ?」
最後の道のはずが切り株が現れるということは、この切り株は道とは全く無関係ということになる。
「はずれみたいですね。引き返しましょう」
二人は元の切り株まで戻った。
「えっと、左よね」
彼女は言う。
「まっすぐです。僕たちはこっちの道から来て右に曲がったのですから、ここを左に曲がったら元の道に戻ってしまいます」
「え? あれ?」
「……あなた、方向音痴なんですね」
首をかしげる彼女を置いてアルバートは歩き出す。
「あっ、ちょっと待ってよ!」
森の入り口からして相当歩いただろうか、だが、もうすぐで目的地につくはずだ。
「…………え?」
たどり着いたのは、切り株だった。
「どういうこと? 数え間違い?」
「いえ、そんなことはありません」
「じゃなきゃ、何なのよ?」
「マスターに騙されたか、それとも……」
アルバートは切り株に座り込んで考える。
地面を見渡し、上空を見渡し、だが、見えるのは高い木々と隙間から見える空だけだ。
目線をフラットに戻し、辺りを見渡す。見えるのは大小さまざまな木の幹だ。
答えが見つからずに、アルバートは立ち上がる。ふと座っていた切り株に視線を落とした。
「……これ」
アルバートはそれを指差す。
「矢印?」
リタもそれを見て首をかしげる。
切り株の断面にはナイフで傷つけたような跡がある。線が一本と、その右側に短い線が二本交わっていて、矢印のように見える。前に誰かが目印にしたのだろう。これには見覚えがあった。
「これ、三番目の切り株です」
「え? 一周してきたってこと?」
「そんなはずありません。僕たちは最初に右に曲がって、あとは左右交互に進んでいるんです。いくら頑張っても一周することはありません」
リタは頭の中で地図を思い描いているようだが、次第に頭を抱えだした。
「あまり、地図で右とか左とかは言いたくないのですが、わかりやすく言うと、右上にしか進まないんですよ。よほど道がカーブしていれば別でしょうけど、それでも一周はしないでしょう」
「何となく、わかる。……気がする」
頭を抱えたまま、自信なさげに彼女は言う。
「可能性は二つです。一つは、僕らが道を間違えて、これは道順とは関係ない切り株で、たまたま三番目と同じ傷があった」
「でもそれって、明らかにナイフか何かで傷つけてるじゃない。道順と関係ないのに、そんな傷つける人いるの? それってもう迷子でしょ」
「迷子だからつけたのではないですか?」
「あれ? あ、そうか……」
「しかし、可能性は低いでしょう」
「……何で、人の揚げ足を取っておいて、自分で否定してるのよ」
「まあ、いいでしょう。この可能性がないとなると、もう一つの可能性。これは三番目の切り株です」
「いや、だから、それはないって言ったじゃない。全然わからないけど。というか、さっきのが可能性が低い理由を教えてよ」
「前者の可能性が低いのではなく、こちらの可能性が高いのです。これは三番目の切り株。けれど、そんなことはありえない。となれば、起きている事象は一つです。それを検証しましょう」
アルバートは刀でその切り株にバツ印の傷をつけた。
「少し、歩きます」
その切り株を右に曲がり、現れる切り株を左、右、左、右、左、右、左と曲がっていく。
「何が、少しよ……」
リタは肩で息をしながら愚痴を言う。
次の切り株でアルバートは立ち止まる。
「やっぱり……」
「何がやっぱりなのよ」
「これです」
アルバートは切り株を指差す。矢印のような傷とバツ印が刻まれていた。
「これって……?」
「すでに魔女の思惑に嵌っているということです。常識的に考えてありえませんが、現にこれは先ほどの、つまり三番目の切り株です。これが起こりうるということはどういうことでしょうか」
リタは腕を組んで考え込む。そして、何かを思いついたようで大げさに手を叩いた。
「……結界系の魔術!」
「か、幻術系の魔術でしょう。どちらだと思いますか?」
「たぶん、結界系の魔術よ。幻術系の魔術はある程度至近距離から直接仕掛けなくてはいけないから」
「なるほど、これは空間を別の場所に繋いでいるということでしょうか?」
「そうね。十番目の切り株から三番目の切り株にたどり着くように空間を歪めているんだと思う。……あっ、もしかして!」
「ええ、先ほどの傷は、前にも誰かがこの検証をしたのでしょう。ところで、何とかできますか?」
彼女は大げさに首を振った。
「無理よ! 私、結界系は苦手なの。対結界なんてもっとダメ。そうでなくてもこんな広大な森に張った、しかも空間を歪める結界なんて、強大すぎるわ。すごい魔術よ、これ。こんなの使える魔術師なんて世界に何人いるか……」
「そうですか。魔女はおそらくこれで疲労困憊になったところを捕えるのでしょうね」
蜘蛛のようだと彼は思った。巣に絡まり動けなくなったところを捕えるのだ。
「どうするのよ?」
「このまま黙っていても、餓死することはありません。死んでしまっては実験体としての価値がありませんから。きっと、ですけどね。まあ、どちらにせよ結局は同じ末路ですね」
「そんなことわかってるわ。何とか魔女に捕まらない方法を考えないと……」
アルバートは切り株に座って目を瞑った。
彼自身に魔術の経験はない。その代りに、今までの人生で体験したことを回想する。精神を研ぎ澄まして、役立ちそうな記憶だけをピックアップする。例えば、修行と称して谷底に突き落とされた事。例えば、お使いと称して獣の巣食う洞窟へ鉱石を取りに行った事。例えば……。
「……そういえば、山賊に襲われたとき、氷を使いましたよね。発現系は得意なのですか?」
「別に。普通よ。動きを止めるのにはあれが一番いいと思ったから。発現系なら、炎の方が得意だわ」
「いいことを聞きました。この森を、燃やしてください」
「はあ!?」
彼女から間抜けな声が発せられる。眼を見張り、信じられないというような表情でアルバートを見る。
それに対し、アルバートは至って冷静に話を進める。
「強力な結界を魔術で破る技量がないのなら、物理的に破りましょう。これが幻覚ではなく、本物の木ならば燃えるはずです。これほどの森を燃やせば、もしかすると結界が解けるかもしれません」
「正気? そんなことしたら、私たちが灰になるわよ」
アルバートは口元を吊り上げそうになるのをこらえた。自分たちが灰になるほど強力な魔術を使えるのならば、脱出する可能性は格段に上がるだろう。
問題は、自分たちが灰にならない方法だ。
「何とかなりませんか? それこそ、結界で」
「結界系は苦手だって。……耐熱結界、なら何とか、いや、でもちょっと心細いなあ。中に氷の壁も作って……。ねえ、それ以外に方法はないの? てか、そもそも森を燃やして結界が破られるのかしら……」
「他に方法はありません。少なくとも僕には思いつきません。そして、うまくいくかどうかも分かりません。代わりにあなたが考えますか? 首席の頭脳を駆使して」
「うう……。本当に、保証なんてできないわよ」
「構いません。どうせこのままでは死ぬんです」
「わかったわよ。やるわ。ちょっと近寄って。範囲を狭めたいから。えっと、まず、森に火をつけるわ。いくつか炎を放ったら、次は私たちの周りに耐熱結界を張る。それだけじゃ心細いから結界の中に氷の壁を作るわ。最初は凍えるほど寒いけど、どうせすぐ溶ける」
「わかりました。それでいきましょう」
「ああ……死にたくないなあ」
リタは杖を取り出した。
『待ちなさい』
どこからか声が聞こえてくる。頭上から響いてくるような声だ。その不思議な声にリタは動きを止め、アルバートは上を見上げた。
『まったく、なんてことをしようとしてるんだい。今まで来たやつらで、そんな無茶をしようとしたのなんていなかったよ。……まあ、ろくに魔術も使えない連中しか来なかったわけだけどね』
「あなたが、魔女ですか?」
『その呼ばれ方は好きじゃないがね。そう呼ばれているのは事実だよ。あんたらは、何だい。村人に頼まれて私を懲らしめようとでもしに来たのかい?』
「いいえ。村人は関係ありません。お聞きしたいことがあるのです」
『ふん。私が答える義理はないね。おとなしく材料になりなさいな』
「もちろん、お断りします。答える気がないのなら、森を燃やして、ここを出ます」
『おもしろい。いいさ。会ってやるよ。それから私が判断を下すさ』
「材料にするか、の判断ですか?」
『黙ってこっちに来るこったね。こっちへの結界は解除したよ。だが、森の出口への結界はそのままだ。逃げられないよ』
それっきり上空から声は聞こえなくなった。
「どうする?」
リタが怯えるように聞いた。
「行くしかないでしょう」
二人は何度もそうしたように切り株を目印に左右に交互に曲がっていった。最後に左に曲がったあと、今までならばまた切り株が見えてくるはずだった。
だが、その気配は一向になく、やがて木々が伐採された開けた空間へと出た。
久々に光が差し込み、近くには小川が流れている。そして、そこに一軒の家が佇んでいた。
丸太を組み合わせたような家だが、それなりに大きい。背は低く一階建てのようだが、縦にも横にも広く、不思議なことに窓がなかった。
「ここが魔女の住み家、ですか」
「アル、先に行ってよ」
リタはアルバートの後ろについて身を縮めている。魔術師である彼女にとって、魔女という存在は恐怖の対象なのだろう。
アルバートは扉の前まで歩いていき、ゆっくりとそれを引いた。
目に飛び込んだのは薄暗い空間に無数に存在するたくさんの蝋燭だ。窓がない空間にも関わらず、それのおかげである程度の視界は確保されている。
だが、炎が作り出す揺らぎが景色をぼかしていて、それがアルバートには不快に感じられた。
アルバートは中へと足を踏み出した。
「キャッ!」
リタが短い悲鳴を上げて、アルバートのコートを掴んだ。
どうしたものかと周りを見渡すと、壁に異様なものが掲げてあった。
壁は一面、物で埋め尽くされている。
古臭い装飾刀、用途のわからない仮面。奇妙な絵画に、動物の剥製。そして。
「……人間、ですか?」
それは、どう見ても人間の剥製だった。恐怖に目を見開き、その場から逃れようとするところで時間が止まってしまったかのような姿勢だ。
「ああ、一時期、実験体が余ってしまってね。どうしたもんかと考えて、思いついたのがそれだよ。お気に召したかい?」
部屋の奥から声がする。
ガラスの容器や膨大な本が積まれた机の向こうに女性が座っている。
『派手な』、『銀色の』長い髪、高い鼻で、細長い輪郭。黒っぽいマントのようなものを羽織っている。やはり、赤い髪ではなかった。
見る限り、二十代に見える。だが、見た目通りの年齢ではないのだろうと直感した。
「おやあ、珍しい腕をしているね」
「好奇の目で見られるのは慣れています」
彼は右肩をさすった。
「いやいや、そっちの中身だよ」
彼女は薄気味悪い笑みを浮かべ、アルバートの左腕を指差す。
「わかるのですか?」
彼は驚いた。今まで魔術師と名乗る人物には何人か会ったことがあるが、コートの上から中身を当てられたのは初めてだった。
「正体がばれるのには慣れていませんね」
彼は苦笑した。
この腕は好奇の目で見られる以上に恐怖や畏怖の目で見られるだろうと思い、自分からそれを明かすことはなかったし、正体を見破られることもなかった。
この腕のことを知っているのはライアンとリタ以外には、昨日の酒場のマスターくらいだろう。彼に関しては致し方なかったし、知られたところで何かが変わるわけでもない。
魔女は高らかに笑った。奇妙な、野獣を思わせるような不快な音響だ。
「面白い、実に面白い。どうだい? あんたが実験体になってくれれば、後ろのお嬢ちゃんを無傷で返してあげるよ?」
リタのコートを掴む手の力が強くなった。
「駄目よ、無理無理、あんなの化け物……」
アルバートに訴えているのか、独り言なのか、微かな声が漏れるように音になる。ある程度の実力を持った魔術師ならば、相手の魔術師を見ただけである程度の実力がわかるという。彼女は目の前の魔女の力量を理解して萎縮してしまっているのだろう。
アルバートも、魔術は使えないが、魔力で腕を形成している以上、相手の魔力を感じずにはいられない。目の前の女性がただの魔術師ではないことは何となくだがわかった。
「どうする?」
魔女は問う。
「残念ながら、僕にはまだすべきことがあります。もちろん彼女も渡せません」
「いやはや……。力ずくは嫌いなんだがね。もったいないよ。これとない譲歩だったのに」
魔女は、クッと出来の悪い木琴楽器のような音を喉から鳴らし笑った。
「あなたの一方的な要求だけではアンフェアです。こちらからもいいですか?」
「ふん。身の程をわきまえてないね。何だい? 言ってみな」
「イアン・ライアンという魔術師を知っていますか?」
瞬間、魔女の態度が急変した。
ガタンと椅子から転げ落ち、その際に足で机を蹴ってしまったのか、本が床に大量に落ち、いくつかのガラスの容器も音を立てて割れた。
彼女は立ち上がると、腰を引かして壁際まで後ずさった。
「イイイイア、アン・ライ、アン!?」
先ほどの冷静で見下したような様子はもう跡形もなく、動揺しきって何かに怯えているようだった。
「師匠を知っているのですか?」
「ししっ師匠!? あんた、まさかあいつの……?」
「ええ、僕はイアン・ライアンの弟子です」
「うわあああっ!!」
彼女は蹲ったようで、アルバートの視界から消えた。机の向こうまで歩いてみると、魔女は頭を抱えて蹲っていた。
「イアン・ライアンの弟子……。あの、悪魔の弟子……」
「一体……」
「うわああ! 何も喋るな! 止めろ、何しに来た!? 私を殺しに来たのかああ!?」
彼女の変わりようにアルバートは唖然とするしかなかった。リタも事態が変わったのを悟ったようで、ようやく彼の後ろから体を現した。
「わかった、もう何もしない……。村人ももう苦しめないからああ! 何が目的だ!? 何が欲しい? 何でも言うことを聞く! だから見逃してくれえ!!」
「……どうする?」
リタがそっと言った。
「そうですね……」
アルバートは少し考え込む。そして、言った。
「コートが、欲しいですね」