第九話
一階の酒場でトーストに目玉焼き、コーヒーという、質素な朝食を終えた二人は、早々と出かけることにした。連絡馬車の情報を得るためである。
「え? 馬車が出ない?」
二人は声を合わせた。
宿を出て、街の西端に馬車の停留所がある。馬小屋が隣接する停留所はそこそこの大きさで、待ち時間にはコーヒーを飲みながら一息つけるようなテーブルがいくつか備え付けられている規模だ。
そこにたどり着いた二人は、王都行きの馬車について訪ねたのだ。
「あ、いや、すまん。言い方が悪かった。予約が一杯だって意味だ」
「なんだ、びっくりした」
四、五十ほどの壮年の男性が、困ったような顔つきで言うのに対し、リタは胸をなでおろす。
「乗れるのはいつになりますか?」
「ちょっと待ってくれ。……今日の最終便だな。夕方になっちまう」
男はカウンターに置いてある紙をペラペラと捲って確認する。
「問題ありません」
「そいじゃ、夕方の鐘がなる頃に出発するから、それまでに来てくれ」
時間が空いてしまったが、仕方ないと諦め、アルバートは馬車の予約を済ませるとアルバートは停留所を後にする。
「さて」
「どうするの?」
リタが小首を傾げて尋ねてくる。
「時間が空いてしまったのは仕方ありません。少し情報収集でも……?」
言いかけたところでリタが目を細めて見つめてくる。
「クリスティ?」
「……むう」
彼が尋ねると彼女はより一層目を細めて頬まで膨らませる。
「どうしたんですか? クリス……」
「ちょっと、付き合って」
問いかけるアルバートを遮って彼女は彼の腕を掴んで引っ張っていく。
昨日の夕食と同じ席に座っていた。夜の喧騒とは打って変わって、落ち着いた雰囲気だ。昨晩はいかにも酒場といった様相だったが、今は少々気取った喫茶店といっても良い。カメレオンのような変わり様だ。
昼食は終えたが、席を立つことは無い。リタは両肘をテーブルについて手に顎を乗せた姿勢で、鼻歌交じりに目を輝かせていた。
それを見てアルバートはそれほどまで心躍る事なのだろうかと、首を捻りたかった。やってしまうと、彼女から小言を受けてしまいそうだったので、実際には行っていない。
先にアルバートの分のコーヒーが来た。一口つけて、一息ついた。
「嬉しそうですね」
彼女の様子が治まりそうに無かったので、つい口に出してしまった。
「メニューで見てからちょっと気になってたのよね」
目を三日月のようにして彼女は微笑む。
程なくして再び店員が近寄ってくる。
「お待たせしました」
テーブルに置かれたのはケーキだ。
クリームとイチゴをふんだんに使用した、綺麗な円形のケーキだ。
小さいながらも側面を真っ白い壁で覆うそれは、カットされたピースのケーキではなくホールケーキだ。おそらくホールケーキの中では小さいサイズだが、一人で食べきれる量では無いだろう。
「……ホール、ですか?」
「そうよ?」
彼女はおかしな事でもあるのかと、僅かに首を傾ける。
「食べ切れますか?」
「え、あなたも食べるのよ?」
傾けた首の角度が大きくなった。
「……はい?」
今度は、アルバートが首を傾げた。
「甘いもの、嫌い?」
「別に、嫌いではありませんが」
「じゃあ、はい」
彼女は手際よくケーキを分けると、小皿にとってアルバートへ渡してくる。
「……では、いただきます」
拒む理由も無かったので、礼を言って一口取って口にする。
甘ったるそうな見た目に反して主張しすぎない甘味が丁度良かった。コーヒーに合いそうだと思い、一口コーヒーを啜る。案の定、絶妙な組み合わせだ。
向かいのリタも満足そうな笑みを浮かべながら、ケーキを食している。
「付き合って欲しいって、これだったんですか」
「まだあるけどね?」
「え?」
結局、三分の二を彼女が食べきった。
「ねえ、これ可愛いよね? 東部ってちょっと趣向が中央と違うみたい!」
彼女が向かったのは街の服飾店だった。最初は今後の旅を見据えた買い物なのかと思ったが、どうにも一般的なファッションとしての品定めをしているように思えた。
「そう、ですか? 僕にはわかりませんが」
彼女が手に取ったのはワンピースだ。ただ、彼にとってはそれがワンピースであること以上の事はうかがい知れない。例えば、彼女が手に取ったものの隣に掛けてあった物もワンピースだが、色が違うということ程度しかわからない。決して色違いではなく、デザインからして別物であることまではわかるのだが、何が違うのかと問われると答えられない。今まで、女性の服装をしっかりと観察したことなど無かったのだ。
「むう。つまらないコメントね」
「あなたは僕に『その服よりもこっちの色のほうが似合っている』とか『あっちのデザインの方が可愛らしい』とか言って欲しいんですか?」
「いや、そこまで言ってないけど。……ごめん。想像したら面白くて吐きそう」
彼女の表情は笑いを堪えているというのもあるが、あらぬものを想像して鳥肌を立てているように見えた。堪えた笑いが引きつっている。
「で、買うんですか?」
ため息混じりに彼が問うと、彼女は少し眉をひそめた。
「うーん。可愛いは可愛いけど、帰るまではこういうのはお預けかな、さすがに。それに、ちょっと王都では浮きそうだし」
そうは言ったが、彼女はそれからも店内の商品を品定めしていった。小一時間経った後で、結局何も購入せずにこう言った。
「次は魔具店に行きたい!」
満面の笑みで訴えられ、かつ断る理由ももはや無いので黙ってついていく。
店を出て五分ほど歩いたところでたどり着いたその店は、先ほどの服飾店と比べるとややこじんまりとしていた。
「うーん。さすがにこの手のお店は王都と比べるとちょっと見劣りするなあ。あ、でも、杖の値段がちょっと安い? うん? こっちのはやたら高いなあ……」
「鉱山が近いんじゃないですか? その分、その宝石は安くなるし、採れない宝石は物流量からいって王都より高くなる、ということではないでしょうか?」
「ふーん」
魔術師の杖には微量ながら宝石が埋め込まれている。それは決して単なる装飾ではなく、どうやら宝石が魔術の発動を安定させるらしいのだ。また、宝石の種類ごとに魔法の効率が変化する。アクアマリンであれば水の魔法、ガーネットであれば火の魔法、といった具合だ。
「ところで、あなたは何を使っているんですか?」
「水晶。学院の生徒の標準。バランスが良いのよ」
「他の宝石にしても問題ないんですか?」
「一応、問題はないけど、ちょっと浮くかもね。あと、発動効率に偏りが出ちゃうから、在学中は変えないのが一般的かな。というか、高すぎて買えないし」
「……ということは?」
「ということは? って?」
「買わないんですか?」
「買わないわよ。無理。お金ない。見るだけ」
「そうですか……」
いわゆる冷やかしというやつだ。アルバートは買うものを決めてから店に向かうことがほとんどのため、買う予定が無いのに店に立ち寄るという行動が理解できなかった。
店を回っているうちに日が傾いてきた。馬車に乗り遅れても面倒なので、早めに停留所へと向かった。目的の馬車は既に待機していた。今は馬に干草を与えているところだった。
出発直前まで、停留所で待つことにした。馬車に乗って待っていても良かったのだが、お世辞にも乗り心地は良くない。
「ああ、久々に楽しかった!」
椅子に腰掛けたリタが第一に口を開いた。
「それは良かったです」
結局、彼女の冷やかしの買い物に付き合ったため、師匠に関する情報収集は進まなかった。
不満、とまではならないまでも、仕方が無いという諦念の感情が表にでてしまったのだろうか、ふとリタが表情を曇らせた。
「アルは、つまらなかった?」
「あ、いえ……」
いつものようにジト目で睨まれたのであれば、『別に。ただ、師匠の情報収集は出来ませんでしたけどね』と小言の一つでも言ったのだが、予想外に寂しげな表情をされたので、言葉に詰まってしまった。
「あの、さ」
彼女は躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「私が偉そうに言うのもなんだけどさ……。アルって、遊びが無いかなって」
「遊び、ですか?」
「そう、遊び。余裕、って言うのかな。アルって事ある度に師匠師匠ってさ。そりゃあ、二年も探しているわけだし、今までそうしてきたってのもあるのかもしれないけどさ。見ていて息が詰まりそうって言うか……。いや、私は良いんだけどさ。アルが、さ。だからさ……。けど、私、どうした良いかなんてわからないからさ。気晴らしって言うか、まあ、私の趣味になっちゃったけど、けどさ……」
息が止まりそうだった。今まで考えて来なかった事だ。師匠を探す事だけを考えてきた二年間だった。それ以外の事も、それからの事も何も考えていなかった。他人の事も、他人からどう見えるかも考えてこなかった。
自覚は無い。息が詰まるほど余裕が無いように見えても、それがどうなるとも思えない。
ただ、そう見えた事が驚きだったし、それを気遣われたのも驚きだった。
思えば、人との深い付き合いなど、今までしてこなかった。師匠は世間の喧騒が嫌いだったし、ここ二年間も、師匠を探すために国中を探し回っていた。そこで出会った人々は善人もいれば悪人もいたが、一時的なやり取りだけだった。
彼女だって、高々一週間弱の付き合いだ。だが、これほどまで一日中寝食を共にしたのは師匠以来ではないだろうか。
そんな間柄に、こんな気遣いに、応えるべき言葉を一瞬見失った。
だから、何も考えずに、頭に浮かんだ言葉を述べた。
「ありがとうございます。クリスティ」
間違ってはいないはずだ。
そう思った。
「…………むう」
だから、彼女が不機嫌になる理由がわからなかった。
時間が来て、馬車に乗ってからも彼女の機嫌は直らなかった。素直に礼を述べただけなのに、何が不満だったのだろうか。間違えたのか、不足していたのか、アルバートにはさっぱりわからなかった。
幌に覆われた馬車の中からは外の様子はうかがい知れない。だが、聞こえる音が、土を踏むものから、石を蹴るものに変わった。ルーイント川を架ける大橋に差し掛かったのだろう。
その間も、答えを探していた。
思えば、彼女の事は深く知らない。頭は切れるが方向音痴で極度のお人よしという程度だ。最初は単なる足手まとい。そして、成り行きで彼女を王都まで送ることに――
「……あ」
何か閃いた気がしたが、その瞬間、大きな崩壊音。一瞬の宙に浮く感覚。そして、水に体を打ちつける衝撃が体を襲った。