第8章6
随分とお待たせしました。
近くを流れる小川の水で顔を洗い、両頬を手で軽く叩き身を引き締めると、ローレライはゼロの待つ木陰へ向かい急ぎ歩き始めた。
随分と予定より時間も下がっていた。急ぎ訓練に取り掛からなければ本日予定された日程を終える事もままならない。
(これで、もう大丈夫!)
自らに言い聞かせ、待ってくれているであろうゼロの前まで戻って来ると、踵を正しローレライは深々と頭を下げた。
「私事で随分とお待たせしてしまい申し訳ありませんでした。ご指導宜しくお願い致します!」
自分が溜めに溜めこんでいた感情を露わにした為に、今日の練習予定はかなり崩れていた。
これ以上遅れを取る訳にはいかないと、腰に下げた剣の鞘に手を添えて、自身を奮い立たせながらそう告げれば、ゼロの口からは思いもよらぬ言葉が吐き出された。
「今日の練習は無しだ!」
ゼロは泣き止んで気丈に振る舞おうとしているローレライに、憮然とした態度でそう告げた。
「えっ? でも、時間が幾らあっても足りないって、何時も……」
「こんな不安定な精神状態の時に剣を繰り出した所で、何の訓練にもならない。時間の無駄た。それともお前はおざなりに剣を振り回すつもりか? それこそ迷惑な話だ!」
急に態度を翻したような、ゼロの冷めたような態度に、ローレライは戸惑いを覚えた。
「ぁっ……、でも、私……そんなつもりは……」
「つもりは無くても、見ていればわかる!」
「いえ、もう大丈夫です!」
「指導者は私だ。お前は師に逆らうのか?!」
先程の優しさを何処かに置き忘れて来たかに思わせるような憮然とした態度は、出会ったばかりの頃のゼロを彷彿とさせている。
ただ確かにゼロの言う事は最もで、半端な気持ちで剣を繰り出す事は、ともすれば危険を伴う。その事はこの数日間ゼロから指導を受けていて十分理解していた。けれど……。
「ッ……」
何処か口惜しげな表情で言葉を詰まらせるローレライの姿を目にし、ゼロは大きく息を吐き出した。
ゼロはローレライの何処か肩肘を張ったようにも思える内面を見透かしていた。
「逆効果だったか……」
「えっ?」
「粋がるな。こういう時に無理すると、怪我をするだろ?」
そう言われた時、ローレライはゼロの本当の優しさに初めて触れた気がした。
ゼロは自分が気負っていた事に気付き、少々無骨だったかもしれないが彼なりのやり方でそれを制そうとしてくれていたのかもしれないと……。
「……ゼロ……」
粋がっていたつもりは無かったのだが、気負いして力んでいたのは事実だった。
ローレライがゆっくりと肩の力を抜くと、ゼロが少し笑みを含みながらローレライの頭をクシャクシャっと撫ぜてくれた。
(ああ、この人は……)
ゼロが自分とそれを取り巻く環境に厳しいだけで、本当はとても優しい面を持っている人なのだと言う事に気付くと、ローレライは自分の先走りすぎた落胆的な考えが、急に恥ずかしくなって来た。
「ジュリアスを治療する事もお前の重大な役割の一つだ。今日はジュリアスの状態を見極めることを重点に置き、務める事にしよう。足の状態も良さそうだぞ。これから草の上で少し馴らすぞ。調子が良さそうならそのまま騎乗して帰っても良いしな」
ゼロは指笛を鳴らし馬達を呼んだ。
指笛の音に反応し耳を動かすと、ジュリアスとイクタシオは草を食むのを止め、頭を擡げこちらを振り向いた。すぐさま上体を翻すと気持ち良さそうに草原の向こうから駆けて来る。
その姿を見ていると風貌だけでなく走り方も良く似ていて、ローレライはとても微笑ましく思った。
“ブル、ブルルルルッ”
傍に来て擦り寄るイクタシオとジュリアスの双方の背を撫ぜてやると、ゼロはジュリアスの痛めた足を覗き込むと手を添えて労わるように擦り何かを確認していた。
ゼロの優しげな馬に対する対応に、思わずローレライは顔を綻ばせた。
状態を確認しジュリアスの回復具合に満足すると、ゼロはローレライに声をかけた。
「そろそろ少し乗ってみるか? 馴らして行かなければならないしな」
「ホントに?」
「ああ」
ローレライのジュリアスに向ける表情が、一瞬にして花が咲いたように明るくなった。
「良かったわね、ジュリアス! でも、本当に大丈夫!? 痛くない?」
ジュリアスを覗き込むと今度はローレライが心配し、何度も賢明に話しかけている。
その様子に、ゼロは思わず破顔した。
「聞くのはそれ位にしておけ。少し過保護すぎではないか?」
「でも急に騎乗して、また痛めたりしたら……」
「大丈夫だ。こいつも同じ場所を以前やった事がある。騎士隊に入った最初の頃は長距離を走った後は気をつけて薬を貼ってやったりしていた事もあったが、今は全然平気だ。丈夫になったものだ。ジュリアスも徐々にこれから内筋力がもっとついて来れば痛めなくなるだろう」
「本当に? 良かったわねジュリアス!」
ローレライが優しく背を撫ぜてやると、ジュリアスはとても満足そうにすり寄り尾を振り上げていた。
「でも、薬の作り方はどうやって?」
城では多くの騎士や貴族の馬の管理や世話をする為に、常勤の動物専門の医術師と管理番が常勤していると言うのは有名な話だ。
馬の怪我などの治療についても勿論その者達が行う筈だ。それなのに何故ゼロが治療について、こうも詳しい知識をもっているのか?
「厩舎の馬番にな。俺にとってこいつは戦友だからな。家族と同じだ。こいつが居なければ俺はきっと既にこの世にはいなかったかもしれん」
戦友……。
馬を友と……、家族と呼べる人。
ローレライにとって屋敷で飼っている動物たちは皆家族であり友であった。
それを口にすると屋敷の者達や友人の中には笑顔で同意してくれる人もいる。
家族もそうだけれど他人の……、それも男性の口から同意とも思える言葉を聞くのは初めてだった。
ローレライはゼロの事を今まで自分とは真逆の人だと思っていたが、もしかしたら自分と似たような感性を持っているのかもしれないと思い始めていた。
(知りたい……、ゼロの事がもっと……)
自然と、そう思った。




