奏でよわが雷火
奏でよわが雷火
生温い空気――大陸の体温。エア・エブアンドフローにより持ち上げられたスフィア・ケイトの生体鋼盤は狭く薄くイオンシールドの設定も最弱で、ほかのスフィアよりも気温は低いはずだが、航行高度もほかのスフィアよりかなり低い。そのため、地表に近い分だけ、温暖だった。上空のスフィアの影にさえ入らなければ、またたく間に洗濯物は乾く。
穏やかなそよ風に栗色のショートカットを梳かれながらベランダで真っ白なシーツを干していたライカの背に、邪気のない声がかかった。
「ライカ、ライカ」
ライカは自分の呼び名を耳にするつど、遠い故郷の妹、ライラのことを思い出す。いかずちとほむら――もともとは自分を指す呼び名を気に入った両親が、そのまま妹の名にしたのだ。そうある事例ではなく、むしろ避けられるべきだった。実際、スフィア・ミミッドにいたころはややこしくてかなわなかった。
ミミッドにおいてキキ家に次ぐ筆頭騎士、ミタライ家のひとたちは常識にとらわれない――というより、あまり客観的な立場から物事を観ようとせず、後先も考えないままその場の勢いで生きていく節がある。そのやや逸脱した感性がミタライの特殊な球面制御魔術への感応にもなり、ミタライを筆頭騎士足らしめていた――ますます逸脱性を助長させる結果にもなった――のだが、そんな環境でライカが潔癖症かつ几帳面、誠実なたちに育ったのはほとんど奇跡だった。
「どうなさったんですか、お嬢さま?」ライカは振り返って微笑む。
ライカより頭ひとつ分以上低い位置に、艶めく金髪に乗ったひょこひょこと元気よく動く猫型耳状デバイス。将来はその由緒正しき血筋に見合った美貌になるだろうあどけない顔つきに浮かぶのは、屈託のない笑顔。歳の程は十とふたつの猫態LMOが、掃きだし窓から顔を覗かせていた。
今はライカよりいつつ年下だが、もうすぐよっつ年下になる――スフィア・ラゴウの領主、ミツバ家の末っ子でありながら、わけあってスフィア・ケイトの、そしてライカのちいさなあるじ。
「今日のおやつ、まだ?」ミツバが首を傾ける。今朝結ってやった三つ編みが肩から零れ落ちた。
「あら、もうそんな時間ですか?」ライカはCP――カード型PDAをエプロンのポケットから取り出して画面を確認する。
現在の旅行軌道と自転から算出されたケイトの主観時刻は十四時過ぎ。おやつにはまだ早いが、家の向こう側、昼前から稼動していた背の高いやぐらは停止していた。
「今日のお仕事は終わったんですか?」
「えへへ、すっごいの捕まえちゃったから、もういいの! ライカにも、あとで見せたげるね!」
「ぐ……あ、ありがとうございます……」前回捕獲し、アラクネと命名した巨大な蜘蛛型の大陸生物の姿を思い出したライカの犬型尾状デバイスの栗毛がぞぞぞと総毛立つ。
ライカはミミッドで大陸生物学概論を受講していた。毎週昼食前にスクリーンにでかでかと映し出されていた身の毛もよだつ異形の地上生物は、受講者の間では教師の創作か、古典の幻想文学からの引用というのがもっぱらの噂だったが、その噂が真ではないことをライカはケイトに来て思い知らされていた。初めて実物と対面した日など、自分の足の遙か下にこんなおぞましい生き物がうようよひしめいていたなんて、と血の気を失った。
だいぶ慣れてきたとはいえ、食べるなら見せられる前。それに、特務を与えられた幼いあるじのご機嫌を損ねるわけにはいかない。
「……まァ、ちょうどお洗濯も済みましたし、お茶にしましょうか」
「やったー! ライカ、だいすき!」
「もう、動けませんってば、お嬢さま」ライカは、はしゃいで腰にかじりついてきたミツバの背に手をまわしながら、室内に戻った。
その国土にして五キロ平方メートル足らずであるスフィア・ケイトに、唯一存在する建物のなかへ。
砂糖をたっぷりまぶした揚げたてのドーナッツを夢中で頬張るミツバの前にミルクココアを置き、「お嬢さま、そんなに急いで食べなくっとも、ドーナッツは逃げていったりしませんよ」ライカはたしなめるように言った。
「だって、すっごくおいしいんだもん……ライカは食べないの?」
「あたしは、お嬢さまにおいしいっておっしゃっていただけるだけで、お腹いっぱいです。お夕飯を残さないと約束していただけるなら、あたしの分も召し上がってくださってもかまいませんよ」
「やたっ」
上機嫌で次のドーナッツに手を伸ばすミツバを満たされたここちで見守りながら、ライカはロイヤルミルクティで喉を潤す。
一年前のライカは、自分が女中の真似事をすることになろうとは露ほども思っていなかった。ミタライは騎士の家、騎士の血統だ。表向きの身分では若くして男爵代行特務護衛官という異例の格上げとなったとはいえ、ちょっと家を開けるだけでしかなかったはずが、紆余曲折を経て新興スフィアで男爵として身を落ち着けることになりました、と報告した際には、名家の長女が素性も知れぬよその国に奉公するなど先祖に向ける顔がないだの、四の五のと文句をたれていた――ずさんなミタライといえど騎士としての自覚はあるようだった――両親のことだ、今のライカの生活を知れば穏やかではなくなるだろう。その一方でライカ自身は、すっかりこの境遇に満足していた。
家元やミミッド領主のネユ家に対する後ろめたさがないわけではないが、どうせ田舎スフィアの騎士なのだから、ミミッドにいても年に一度、海賊を追っ払うぐらいしかお役目はない。それに。
――血のしがらみから解放されることが、こんなにも快適だなんて。
ミツバとライカ以外は誰もいないケイトに住んではじめて、ライカのなかの、ミラタイの片鱗というべき奔放さが芽吹きかかっていた。無論それで家事を怠るような愚は冒さなかった。特務護衛官――その本分はミツバの身の回りのお世話にこそあったし、伸び伸びと女中の仕事につとめられることこそ、ライカの充実と平穏のゆえんだった。
――ひょっとしたら騎士なんて向いてなかったのかしら。
念のため、毎日メンテナンスも欠かさず今も腰に差しているものの、もうずいぶん、ミタライ家特注のNEMESIS積分杖は握っていなかった。台所で包丁に触っている時間のほうがよっぽど長いだろう。
鍛錬も横着していたからか、一年でミツバの身長は五センチも伸びた一方でライカのほうはと言えば、背丈はそのままに体重だけをわずかに増やし、悩みの種のひとつとなっていた。
「今日捕まえたのはねェ……たぶん、ライカも気に入ると思うよ! ほんとに、すっごいの」ドーナッツを平らげたミツバがにこやかに胸を張る。
「そんなにですか?」清潔なハンカチで、汚れたミツバの口元を拭ってやりながら、「また蜘蛛やら蝸牛やら……、あの子たちみたいなのじゃなきゃいいですけど……」
ミツバが誇らしげに披露した大陸生物の数々を、ライカが気に入ったためしはない。それでも護衛官の職務を果たすために、いやいやながらも調査の際には付き添わざるをえなかった。
大陸生物調査。
超小型スフィア・ケイトが生まれた理由であり、ライカが男爵代行を賜った理由でもある。
事の発端は、去年の春休み。ライカがスフィア・ミミッドを発ち、スフィア・ラゴウに渡ったあの日がすべてだった。
王鍵、猛毒回路――エア・エーテルサーキットを保有するスフィア・ラゴウはスフィア連合随一の学術国家だ。その規模は十数年前に滅んだスフィア・ナギミにも匹敵するが、秘密主義のナギミとは違ってラゴウは諸外国に対して開かれている。種や国を問わず優秀な研究者や学者、学生を募い、ミミッドにも勝る熱く活発なLMOのるつぼとなっており、巨大な先進国家を築いていた。
ライカもまた留学生として、三週間ほどラゴウに滞在していた。ライカ自身は、優れた頭脳を持っているわけでもなく勉強熱心でもなかった。留学といっても正規のものではなく短期間で、議会が何年かごとに儀式的に主催している、平和的で文化的な国交があることをアピールするための、連合議会と加盟国との外交のひとつだ。
良家が交流していた事実を作れさえすれば誰でもよく、期待もされないお義理の行事。ライカが選ばれたのは単に、ミミッドの名門たるキキ家の三男坊が当主に引き止められたとかで議会の推薦留学を辞退したために、穴埋めとしてミタライ家が宛がわれただけに過ぎない。そこにライカの希望も意思もなかったが、ライカは、これでミミッドを――家を離れられる、しめたものだと胸中では喜んでいた。
別段、身内が嫌いだったわけではない。ただほんのちょっぴり、彼ら彼女らの傍若無人っぷりに付き合うのに疲れただけだ。
――だって料理もお掃除もあたしにまかせっきりなんですもの、それがさも当然、みたいな顔で!
自分が家を留守にすることで少しは生活力を身に着けるか、パワードスーツで浪費するのをやめて女中に払う賃金か家事用アンドロイドを買う金を惜しまないようになって欲しい、そんな思いで議会からの申し出に首を縦に振ったライカは、観光気分で大型旅客ユニットに乗り一週間の旅をしてからラゴウの生体鋼盤の大地を踏んだ。
そしてラゴウに到着したその足で、手続きのために大使館に行ったときのことだった。
「だ、男子寮……!?」事務所で滞在先をたずねたライカは、愕然とした。
「は、はァ……ミミッドからの留学生は、たしか、男子という話でしたので……」蛇態LMOの事務員も困り果てた様子で業務用CPの情報を照会していた。
おそらく留学の際の七面倒な申請のいくつかが、当初のキキの情報から後追いのライカの情報に修正されないままだったのだろう。連合議会かラゴウの大使館、どちらの手落ちかはともかく、由々しき事態だった。
ライカは身を乗り出さんばかりに事務員に詰め寄った。「ほかの寮は空いてないのでしょうか?」
「空いてはいるのですが、変更手続きや確認の諸々に数日はかかるかと……申し訳ありませんが、しばらくは男子寮で過ごしてもらうことになります」
「そんな……」
妹なら頓着しないのかもしれない。だがライカの生理的な嫌悪感は収まりがつかなかった。宿を取るという選択肢もないではないが、ここはラゴウの首都、そう安くはつかないだろう。
と、「――遅くなってすまない。実験が長引いてしまって」事務室に白衣姿のいかにも研究者然とした、男性の狼態LMOがずかずかと踏み込んできた。
ぼさぼさの銀髪に目つきばかりが冴えていて、身なりを整えればそれなりに見えるだろうに――ライカの抱いたその感想は、一瞬にして恥に変わった。
「ラゴウ領主のミツバだ、よろしく」
「は――……はいッ!?」よもやこんなところでこんな格好の領主と会合するとは夢にも思わなかったライカは、呆然とした後にあわてて背筋を伸ばし、「こッ、このたびは――」
「あー、そういうのは、いい、いい。留学生の、えー、キキくんだったか?」
「……いえ、キキは辞退しましたので、変わりにこのわたし、ミタライが推薦されたのですが――」
「あー……」領主がぽりぽりと鼻の頭を掻いた。「そういえばそんな承諾待ちの申請が議会からきてたような、きてなかったような……どおりで男なのにスカートをはいて、立派な胸をしていると思ったんだ、うん」
「あは、は……」
ライカはどうにか引きつりそうになる頬を乾いた笑みで緩めたが、事務員はそうもいかなかった。誰に責任があるのかはっきりしたうえ、さらにその張本人たる領主の威厳が他国の人間の前で失われようとしていたからだろう。
「……まァ、あとでちゃんと目を通しておくとしよう。で……、あー、その、なんだ、滞在中、困ったことがあったらなんでも言ってくれ」
「あ、あの、領主さま、実はですね――」ライカはすかさず今夜の宿の件について相談する。ライカには落ち度はないのだし、宿代ぐらい出してもらえるんじゃないかと期待してのことだった、が。
「あー……そうなのか。それはこっちが悪かったな。んー、そうだな……」そして何気ないふうに、「……うち来るか? 部屋、空いてると思うし」
ラゴウ領主のライカに対する面目は粉々に打ち砕かれ――それはまだはじまりに過ぎなかった。
かくして頭を抱える事務員を置いて案内されたのは、巨大スフィア領主の住居にふさわしい屋敷だった。ただし、屋敷のおおきさだけは、だったが。
「しばらくひとを招く予定はなかったからちょっと散らかってるが……まァ、大目に見てくれ」
どさり、とライカの手から旅行鞄が滑り落ちた。「……ちょっと散らかってる?」オウム返しに問うてしまったライカのぶしつけなつぶやきは、しかし幸いなことにぼりぼりと首を掻いていた領主ミツバの耳には届いていなかった。
領主の提案を無碍にするわけにもいかず――領主ミツバは気にしないだろうが一応学校の制服を着ていたことだし無礼ではないはずだった――、のこのことミツバについてきたライカは、これはきっと悪戯、サプライズ的なもてなしなのだろうと自分に言い聞かせはじめていた。
でなければ、何かの間違い。現実であるはずがない、そう、一国の領主の屋敷がこんな――ゴミ屋敷だなんて。
錆びた工具に高価そうな破損したNEMESIS積分器、しわくちゃになった衣類、ほこりをかぶった調度品、割れた酒瓶と、玄関先でさえ、なんでここにこんなものがと思えるようながらくたで埋め尽くされ、本来なら実家のライカの部屋より広いだろうエントランスホールを足の踏み場もなくしていた。ライカは目を覆わんばかりだった。
領主はそのスフィアの象徴であり、偶像だ。ライカはほかの領主の屋敷はおろか、ミミッド領主の屋敷に招待された経験すらない。ないが、一般的な国民の感覚として、領主の邸宅といえば瀟洒で気品に溢れてしかるべきだという幻想と期待があった。
ひとを招く招かないで納得できる問題ではない。ひとが生活しているのかもいぶかってしまうほどだった。少なくとも、女中も執事も、アンドロイドもいないだろう。
――男子寮のほうがまだマシだったかしら……。
そう悔やむことを、失礼だと感じなくなってさえいた。
「……あの、領主さまはここにおひとりで住んでいるのでしょうか」おずおずと訊くライカ。
「あー……、いや、わたしはあまりここにはいないからよくわからないが、そんなことはない――はずだ。まァ、どこかに誰かはいるんじゃないかな――たぶん」確信なさそうに応じる領主。「うちは、ミツバのものは、それぞれ研究機関を抱えてるから、みんなちょっと忙しくってな。少なくとも半年に一度ぐらいは帰ってきてるとは思うんだが……あー……、いや、あれはいるか……おーい! ひかり! ちょっと来なさい!」領主が階上に向かって声を張り上げた。
すると二階の手すりの間からにゅっと小さな頭が飛び出してきた。くしゃくしゃの金髪に猫型耳状デバイス。ホールのライカと領主を見下ろす幼い猫態LMOのあめ色の目には、まるで生気というものがなかった。猫の子は一言も喋らず、こちらに喋らせないまま、すぐに頭を引っ込めてしまった。
「あー……わたしの娘の、ひかりと言うんだが、すまない、人見知りなやつで……まァ、仲良くしてやってくれ」
「は、はァ……」心中で首をかしげながら、ライカは曖昧にうなずいた。
身だしなみを整えていないという点以外、親子にしてはあまりにも似ていなさすぎた。
領主の血は強い。魔術的観点から遺伝にも作用し、選択的に形態が受け継がれる。領主は婿養子だったのか、という雑念がライカの頭のなかを一瞬よぎった。
そのとき、領主のCPがけたたましい呼び出し音を発した。ライカにかまわず領主は音声通話を受け、「もしもし。……あー……そうか、とりあえず原料供給を止めて……うん、わかった、すぐ行く」そして通話を切るや、「あー……、というわけで、すまないが、わたしは野暮用ができてしまった。客室はあそこで、食堂はここの奥にあって、厨房も、冷蔵庫の中身も――あるかわからないが――自分の家のように好きにしてくれ。動きづらいだろうし、適当にものも移動させていいから――痛ッ、あァ、いや、平気だ、小指をぶつけただけだ……きみも気をつけたほうがいい……家のコードは……あァ、これだ。きみのCPで自由に出入りできるようにしておく。で、その、まァ……、あー、あれだ、言い忘れていた。ラゴウへようこそ、頑張って勉強していってくれ」そうまくしたててあわただしく屋敷を出ていった。
屋敷に置き去りにされたライカは、幻滅するのはあとにして、とひとりごち、「ひとまず、適当に動かさせていただきますか……」ブレザーを脱いでブラウスの袖をまくり、潔癖症のおもむくままに、ゴミ屋敷の大掃除にとりかかった。
「まったく、今日会ったばかりのよその国の小娘に屋敷を明け渡すなんて、大国を預かるものとして、防衛意識どうなってるのかしら……」ぶつくさとぼやきつつ、廊下にうずたかく積まれたがらくたをゴミ袋に投げ込んでいくライカ。
掃除にはそれなりの騒音が伴っているはずだが、誰も廊下に顔を覗かせたりはしなかった。ミツバの御令嬢をのぞいて、どうやら無人らしい。領主がコードを渡してきたのは単純に屋敷に価値のあるものがないから――それでも娘とよその騎士をふたりっきりにさせるのはどうかと思ったが――かもしれないと、ライカはうすうす考えはじめていた。
教えられた客室の前まで辿りついたところで、ライカは額の汗を拭いた。
――とりあえずはこれでいいかしら。
その周囲はなんとかひとが小指をぶつけることなく安全に歩行できるほどには片付いており、依然として衛生的とは言いがたいものの、すっかり見違えていた。
隅々まで綺麗にする義理も必要もないし、鍵をもらったとはいえ領主の屋敷中をひっかきまわす権利はない。玄関から客室、食堂への道を切り開くだけにとどめておいたライカは、ひと段落つけて客室に荷物を運び込んだ。
客室の清掃をはじめる前に、空腹を感じたライカは愛用のエプロンだけを持って厨房におもむいた。こちらも惨憺たる様相で、シンクには油のこびりついた食器や黒ずんだ銀器が放置されている。ただ、奇妙なことに調理器具が使われた痕跡はない。冷蔵庫を開けてみると、調味料だけで、ほとんど空だった。
次に冷凍室を開けたライカを出迎えたのは、「はいはい、そんなことだと思いましたよ……」数々の冷凍食品。もはや想定の範疇だったが、なんと不摂生な、と呆れるほかなかった。
戸棚も物色してみると、缶詰や乾燥食を見つけた。パスタぐらいならどうにかできそうだ判断して早速鍋を火にかける。
――まさか留学先で掃除や料理をするはめになるなんて、ね。
ライカはひとり、苦笑する。家事をさせられるのが嫌で家を出たと言ってもいいぐらいなのに、自分から進んで家事をしようとは。しかも領主の邸宅で、だ。ある種、貴重な体験ではあるのだろうが、実家にいたときより骨が折れた。
フライパンにトマトとツナの缶詰を空けて炒めていたライカは、ふと御令嬢に思いを馳せた。
領主の言葉から推察するに御令嬢はいつもこの屋敷にひとりでいるはずで、ならば普段、まともなものを口にしていないはずで――。
一度気にしてしまうと、ライカはいてもたってもいられなくなっていた。無用なお節介だとは理解しながらも、あとでパスタを持っていってみようか、でも騎士から領主の家のものを食事に誘うなんて許されるものかしら、もしかすると外交問題になるかも……、などと頭を悩ませていると、食堂のほうから視線を感じた。
換気のために開け放たれた扉の影から、こちらをうかがう冷たいあめ色の瞳。ライカと目が合うや、櫛の通っていないほつれた金髪がさっと隠れた。
匂いに釣られたのだろう、いい機会だと意を決してライカは声をかけてみる。「あの、ミツバさま、ご飯を作ってみたんですけど、食べ――じゃなかった、召し上がられますか?」
調理台の上のパスタが盛られた皿を示したライカが望んでいたのは、イエスかノー、どちらかの返答だったが、領主の娘はとことこと皿の前にやってくるや、パスタを――貴族ともあろうおかたが立ったまま、素手で! ――掴んで口に運んでみせた。あめ色の目がまんまるに見開かれ、そのままがつがつと食べはじめたためにライカはあわててフォークと手ぬぐいを出した。
パスタがすっかり食べつくされ、完食するなり口の周りをソースでべたべたにした御令嬢が厨房から姿を消したのはあっという間の出来事だった。
野良猫か何かに餌をやっている気分に陥ったライカは、ため息をひとつ吐き出す。
――感想ぐらい聞きたかったんですけども。
しかしその消沈は、空になった皿を下げようとしたライカの耳が拾った、消え入るような声が打ち消してくれた。
「あの……ごちそう、さま……おいしかった」
前を向いたとき、ミツバ嬢はすでに走り去っていたが、ライカには充分だった。「おそまつさまです」ライカはにやにやと頬をほころばせながら、もう一人前、自分の分のパスタを作った。
次の日もそれからまた次の日も、一日に三度、ライカが厨房に立つそのつどにミツバ嬢は食堂に現れた。本来なら許されてしかるべきではないのだろうが、ミツバ嬢があんまりおいしそうにライカの料理を味わい、実際に褒めちぎるものだから、ライカは期待とやりがいを感じてついつい作ってしまっていた。
はじめのうちは一言二言を発するだけだったミツバ嬢も、次第にその口数を増やしていった。
とりとめのない話をした。天気の話。ラゴウの気候の話。ミミッドの気候の話。今食べているご飯の話。次のご飯の話。好きなものはあるか、嫌いなものはあるか。ミミッドは温かい、ラゴウは寒い。今日は洗濯日和。
第一印象と違って、こころを開いてくれたミツバ嬢は年頃の女の子らしく感情豊かでスキンシップが多く、おしゃべりだった。初日は徹夜明けだったらしい。ミツバ家はジェネレータも積まず、オーガニズムレベルいっぱいいっぱいまで高速催眠学習や演算機構をインプラントするような研究者の家だそうで、ミツバ嬢もまた部屋にこもりきりで何かの研究に明け暮れていた。
――そんな無防備な娘をひとりにしておくなんて。
領主に対するライカの疑念は、膨らむばかりだった。
ライカがミツバ邸にやってきて三日。その夕食後。ライカのCPに一件のメッセージが入った。
『差出人:羅喉大使館事務局
タイトル:寮の手配について
本文:
御三堵騎士
御手洗殿
先日は当局の不手際により、御手洗殿に多大なるご迷惑とご不便をおかけしましたことを心よりお詫びします。
さて、表題の件につきまして、女子寮への入寮手続きが完了しましたことをご報告いたします。明日よりいつでも入寮できるそうです。
また、学校の始業式は来週の月曜日に執り行われる予定です。
慣れない土地で大変だと存じますが、勉学に励まれることをこころよりお祈り申し上げます。』
メッセージの表示を消して、紅茶をすすった。ライカはソファに深く腰掛け、サロンをぼんやりと眺め回した。
日中は食材の買い物以外、特にすることもなかった上にライカのなかの潔癖な虫がうずいてうずいて仕方なかったため、結局居室以外のすべての部屋に手をつけてしまった。家紋を刻まれた暖炉があるサロンもまた、ライカの手によってかつて漂わせていただろう高貴な雰囲気を取り戻していた。
すぐにふたたび物置になって荒れ果てるのだろうが、もともとライカが口を挟む余地はない。
――ついにここともお別れですか。
ラゴウのお嬢さまとも。
そろそろ冷えた頃合だろうとライカは厨房へ向かった。事前に焼いておいたシフォンケーキを切り分け、ホイップクリームを添えて皿に盛り付ける。そして皿を持ってミツバ嬢の部屋の前に立ち、扉を叩いた。「あの、ミツバさま。ケーキを焼いたのですが、お召しに――」がちゃり。言い終わらぬうちに電子錠が外れる音。なかから飛び出してくる影。
「わあ、すごい! ライカ、ありがとう!」腰に抱きついてくるミツバ嬢。ライカの手料理のおかげか、痩せ細った肢体は二日前よりいくらか血色がよく見えた。「さ、入って入って」
「あ、でも、そんな、お邪魔してもよろしいんですか? あたしなんかが――」
「へーきへーき」
「し、失礼します……」恐縮するライカは、エプロンを掴まれてぐいぐいと引っ張られるがままにミツバ嬢の居室にお邪魔した。
薄暗い室内はライカの予想を外さず散らかり放題で、林立する背の高い筐体、解析用端末が視界を悪くしていた。
テーブルに皿を置くなり、ミツバ嬢はむさぼるようにしてケーキを口に詰め込みはじめた。
「おいしい! ライカ、ほんとうにすごいね、なんでこんなに料理上手なの?」
「昔から家族の分も毎日作ってましたから。それに、ご飯がおいしいといえる限り、ひとはしあわせですからね、食べ物に感謝して、きちんとおいしく作ってさしあげないと」
「……わたし、誰かが作ったご飯を食べるの、はじめてかも。だから、知らなかった。ライカの言うとおりね、ご飯がおいしいとやる気も沸いてきて、研究がすっごく捗るの。わたし、今、すっごくしあわせ」
「それは光栄というか身に余るというか……あたしにはもったいないお言葉です」そういえば自分も家族以外のひとに料理を振舞ったのははじめてだと、ライカは思う。自分の料理をここまで絶賛されたことも。そのはじめての相手が、よもやラゴウの領主伯の娘とは。
「これからも、わたしにご飯作ってね、ライカ」こころの底から信じきった笑顔。
ライカは思わずうなずきかけたが、はっとしてなんとか踏みとどまり、「ミツバさま、あの、実は――」恐る恐る切り出した。「寮の手配のほうが済んだそうですので、明朝に発とうと思います。その……短い間でしたが、お騒がせしました」
ミツバ嬢がきょとんとする。「――ライカ、メイドじゃなかったの?」
「えッ!? ……あ」はっきりと自分の身分を告げていなかったことに今更になって思い至り、ライカはかいつまんで説明した。「――というわけで、領主さまにしばらくお部屋をお借りしていたのです。その、ややこしくて申し訳ありません」
「じゃァ、もう明日から、ライカのご飯食べられないの?」今度はほとんど泣きそうな顔。
ミツバ嬢が誤解するのも無理はない。確かに普通は、ある日突然やってきて屋敷中を掃除したり毎食用意したりする人間を留学生とは呼んだりしないからだ。ライカの行動はミツバ嬢にいらぬ期待をさせただけに過ぎず、ミツバ嬢の悲痛な面持ちにライカはとてつもない罪悪感――娘に一言も自分のことを告げてくれなかった領主を恨む余裕はライカにはなかった――を抱かされていた。
「……あの、ミツバさま、失礼ですが、今までどうして女中を雇ってこなかったのでしょうか」
うなだれる小さな頭。「うちは、いつもこの子たちのせいでかつかつだったから……」ミツバ嬢がキーのひとつを押し、部屋の明かりがついた。
このとき初めて、ライカは部屋の壁が天井まである強化硝子の槽で埋め尽くされていることに気づいた。そして槽の中身を目の当たりにするや、危うく失神するところだった。
半透明で緑色をしたゼリー状の塊のなかに、ぎょろぎょろとそれぞれが好き勝手に動く拳大の眼球が無数。その隣の槽には、鱗に覆われたライカの胴体より太い四つの四肢、静かに隆起する小山ほどの胴、そこから伸びる九つの頭部――人面の。
「――ッ」奥歯をかみ締めて暴れる胃袋を必死に押さえつける。「こッ、れ、は……」
「かわいいでしょ? 昔は魔種とか蚕って呼ばれてたらしいけど、今は大陸生物っていうのが一般的かな。正式にはエーテル活動群っていうんだけど」シフォンケーキを咀嚼しながら、ミツバ嬢。「でも捕まえるのにすっごくお金がかかるの。ご飯もたくさん食べるし。研究機関もなかったから、ここでしか飼えないし」
「あ、あぶ、危なく、ないんですか」
「平気だよ。エアレプリカで、眠ってるようなものだから」
「そ、そうですか……」ライカはぶるぶると身体を震わせて顔を背け、犬型尾状デバイスを逆立たせた。
生まれてこの方ずっとこんなおどろおどろしい生き物の頭上で暮らしていたなんて――さらに言うならこの三日間、本当にすぐ側で寝起きしていたのだ。だがそれも明日までの辛抱。ライカは一刻も早く退出したくなっていた。
ミツバ嬢が照明を落とした。「ねェ……ほんとに出てっちゃうの? ここにいちゃダメ? 留学してる間だけでも?」小さな手が、すがるようにライカのエプロンの裾を握りしめた。
「ミツバさま……、あたしはミミッドの騎士ですし、ミツバさまのお側にいすぎるのは、あまりよくないんです」
「そんなァ……じゃァ、わたし、もうしあわせじゃなくなっちゃうんだ……」
「いッ!? いえッ、そんなことはないかと――」
「でも、ライカは言ったじゃない。ご飯がおいしいと思えなきゃ、しあわせじゃないんでしょ?」
「そ、そういう意味で言ったわけじゃァ――」
「わたしにしあわせを教えておいて、すぐにまたしあわせを取り上げて……その責任も取らずに逃げるんだ、ミミッドの騎士って……」
半泣きのミツバ嬢に、おろおろするライカ。完全に墓穴だった。
そんなライカに思わぬ助け舟がやってきた。ぽーんとやわらかな通知音。モニタに屋敷の表口の映像が現れ、領主の機動ユニットが映りこんだ。
「あの、ミツバさま。領主さまにもお伝えしなければならないので、申し訳ありませんが、失礼しますね」ライカは痛む良心に目を瞑り、逃げるようにして部屋をあとにした。
エントランスホールでは、がらりと姿を変えた我が家を前に、ラゴウ領主伯がぽかんと立ち尽くしていた。「ものを動かしてはいいとは言ったが……これは……なんというか、自分の家だとは……にわかには信じられないな」
「も、申し訳ありません、勝手なことを――」領主を出迎えたライカは頭を下げた。
「いや、いや、いいんだ……めいこ――妻が生きてた頃みたいで、ちょっと懐かしいし……領主の屋敷はほんとうはかくあるべきなんだろうし……」そわそわと領主。
やっぱり少しやりすぎたか、とライカは自省し、大使館から送られてきたメッセージの件について話した。
「あー……そうか。わたしとしては、ずっとここを使っててもらってもかまわなかったが……最後ぐらい、きみのような人間に住んでもらったほうが……家としても冥利に尽きるというやつだろうし……まァ、おかげで、いくらか綺麗な形でここを手放せることになったが……」
ライカは目をむく。「お引越しなさるんですか?」
「あァ、みんなそれぞれ、研究所の近くに部屋を借りて住むことになってな……ここは伯爵に売り払うことにした。いい家だとは思うし、歴史ある屋敷だが……われわれには手に余るし……そのほうが合理的だと」
聞き捨てのならない台詞。「御令嬢はどうなさるんですか」
「ん? あァ……、あれか。あれも、来月には新規稼動する、連合と共同開発したスフィアへ移ることが、決まっている。スフィア連合にエーテル活動群――あれの研究なんだが――の研究機関がようやく設置されることになったから……な。組まれた予算のほとんどはスフィア開発に注ぎ込んだから大した報酬も出せないし……研究施設以外には何もない土地だし……誰も雇えず、人員はまだあれひとりだが……まァ、海賊すらいないような空域だから、問題はないだろう」
「ひとりで、新しいスフィアに……」ライカは絶句する。
ミツバ嬢は移住についてこれっぽっちも言及していなかった。それは当然ミツバ嬢が、ライカが件のスフィアに同行する人員であると解釈していたからだろう。ライカはこの三日間、ミツバ嬢をぬか喜びさせていたのだ。
「あー、ところで」領主が困り果てた顔で言った。「着替えをとりにきたんだが――わたしの部屋はどこだろうか」
深夜。豪邸で過ごす最後の夜。ラゴウ領主は本当に何着かの服だけを持ち、ふたたび研究所へ戻ってしまった。娘の顔も見ずに。
ベッドの天蓋を見つめながら、なかなか寝付けないライカは何度目かの吐息を漏らした。
明確に形容できない、もやもやとした感情がくすぶっていた。
よその家庭の事情、しかも遙かに身分が上の、恩情ある相手。腑に落ちないが、ライカはあれこれと口出しするほどのおこがましさを持ち合わせていなかった。
――忘れよう、忘れなくちゃ。
そう自分を戒め、寝返りを打っていると、
「……ライカ」客室の外から、かぼそい声。「まだ、起きてる?」
「あッ、はいッ、ちょっと待ってください」ライカは飛び起き、ざっと髪を手櫛ですいてネグリジェの上からカーディガンを羽織って電子錠を外す。「すみません、こんな格好で」
開けた扉の前にはパジャマ姿のミツバ嬢がぽつんと立っていた。「ううん、こっちこそ、こんな時間にごめんね」
「いかがなされたんですか?」
「……あのね、ライカ」言い出しづらそうなミツバ嬢。「ほんとうに明日、出てっちゃうの?」
「……はい。何度も申し上げたとおり、あたしはただの、田舎の騎士です。三日も宿泊させていただいているのだって、本来は許されないのです」
「そっかァ……」頑として折れそうにないライカに、諦念の響き。「じゃァ、最後にひとつ、お願いしていい?」
「その、あたしにできることならば、なんなりと」
「なんだか眠れなくて……一緒に寝てほしいの」
「どどど、同衾、ですか」予想の斜め上の要望に、どもるライカ。「それはさすがに――」
「一緒に寝てくれなきゃ、議会にあることないこと告げ口しちゃうかも」ライカにとっては脅迫まがいの鬼札を切ってくるミツバ嬢。
「ぐ……わ、わかりました」渋々ミツバ嬢を部屋に迎える。
ミツバ嬢はちらりと荷造りされた旅行鞄に物憂げな視線を送り、ベッドへ向かうや、シーツをかぶって有無を言わせぬ風にあめ色の瞳でライカをじっと見据えた。無言の圧力に耐え切れなくなり、逡巡していたライカも上着を脱いで照明を消し、「失礼します……」のろのろとシーツのなかに潜り込む。待ってましたとばかりにミツバ嬢がしがみついてきて、ライカは身をこわばらせた。
「ライカ、石鹸みたいないい匂いがする……それにすっごくあったかくて、ふわふわして、きもちいい……ママって……こんな感じなのかな――」闇のなかで、胸元に感じるかすかな息遣い。
鼓動が高鳴る。「あたし、まだ十六なんですけども……」
「じゃァ、おねえさま? でも、ライカはあんまりおねえさまって感じがしないなァ……おねえさまはご飯を作ってくれたり、しないし」ライカのよく育った胸に鼻先を埋め、「わたし、これからずっと、ライカが一緒にいてくれるのかと思ってた。ケイトにも、ついてきてくれるんだって」ぽつりと言った。
顎をくすぐる猫の耳。「……ケイト、ですか」
「うん。最近開発されたスフィアなの。もうすぐ、わたし、そこに行くんだ」
領主が漏らした話。新規スフィア――大陸生物研究機関。ひとりだけの。
「……あの、領主さまから、うかがいました。研究のために、移られるんですよね」
「うん。でもね、スフィアって言っても、ほんとうに小さくってね。どこに立っても、端から端まで見渡せるぐらいなの。登録される王鍵、潮の満ち引きも厳密にはエアじゃなくって、気流を探して、ずっと滑空するための、観測器。あの子たちの研究にはすごくお金がかかるって話はしたよね。だから、ケイトは地表近くを飛ぶの。研究したい子を、研究したいときにだけ捕まえて、すぐに帰すの。効率的でしょ?」毛足の短い猫の尾がライカの太ももを撫ぜ、犬の尾にからみつく。
「それは――、いつまで、なんですか?」
「ずっとだよ。来月から、ずっと。来月からはもう、わたしはケイトの領主だから」十一歳にはあるまじき毅然さでミツバ嬢が言った。
いたたまれないきもちが、ライカの胸に押し寄せる。「……申し訳ありません、なんだか、その、期待させてしまったみたいで」
「ううん。わたしが早とちりしてただけだから、ライカは悪くない。ちょっと残念だったけど、ひとりでも寂しくなんかないよ。今まで誰もやりたがらなかったけど、あの子たちをもっとたくさん調べることは、わたしの夢だったし、使命だもの。それに――わたしがラゴウを出て行くのが、いちばんいいから」自嘲気味に。「わたしはほら、パパに似てないでしょ。ママ以外、家族の誰にも似てないの。……パパの血を負かして、ママの代わりになっちゃったから。だから、おにいさまもおねえさまもわたしのこと、あまりこころよく思ってないの」
血負け――ここ十数年で特に報告されるようになった変異原性の症例。
NEMESISによってヒト個体が強大なちからを持ち、ちからが高まりつづけることに対する、生物階層構造的危機観念からは何世紀も前に予言されていた、強くなりすぎた生命の欠陥なき疾患。
生み親を食い破って産まれ出てくるほどの、継ぐはずだった血を否定する個の特異的強さ。領主は婿入りしたのではなく、狼態こそがラゴウを統べ、エア・エーテルサーキットを繰るるべきLMOの姿だったのだ。
「あのひとたちはさっさと厄介払いしたかっただけだろうけど……パパだけじゃなくて、おにいさまとおねえさまも、渋る連合に何度もかけあってくれて、なんていうのかな、初めて家族がひとつなったみたいだった。だから、頑張らなくちゃ」
「……そんなの」ライカは唇を噛んだ。それ以上続けられなかった。
――悲しすぎる。
ライカの身に通うのは、その一単語を口にしていい血ではなかったからだ。
「えへへ……なんか、ごめんね。変な話しちゃって」ミツバ嬢が取り繕うように笑った。「ライカがラゴウの騎士だったらよかったのにね。そしたらわたし、絶対にケイトに連れてくのに」小さな手がライカの手を探り、ぎゅっと握った。すがるように。
「もう……、だめですよ、もしあたしが悪い人間だったらどうするんですか」
「たしかに、ライカは悪いひとだね」くすくすとおかしそうに、「寝るときに誰かが側にいてくれるのが、こんなにきもちよくてしあわせだなんて。またひとつ、教えられちゃった」
ミツバ嬢はまもなくして寝静まった。華奢な矮躯をライカに押し付け手を握ったまま、穏やかな寝顔をさらして。ライカはミツバ嬢を揺り動かさぬよう配慮しながら上体を起こし、自由なほうの手でヘッドボードに置いてあったCPを取って通話をかけた。相手は十コールで出た。
『……んんー……もしもし、姉貴……? おはよ……』寝ぼけた声。
「こっちはまだ真夜中だけどね。そっちはどう、らいか? ちゃんとご飯食べてるのかしら?」
欠伸をひとつして、『口うるさい姉貴がいないおかげで、好きなもん食べまくれてるよ。そんなことより洗濯が大変でさァ、だァれもやんないの。っていうかー、やったら負けみたいな空気でさァ、あたし、おとといぐらいからぱんつ変えてないんだよねー』
「今すぐ洗濯やんなさい」なんとなく予想できた展開。ミタライ家の自立への道のりは長そうだった。
『で、どーしたの? ホームシックにでもかかった? まだ一週間ぐらいしか経ってないと思うけど』
「そういうのじゃないけどね、ちょっと……人間関係っていうのかしら? で悩み事があって」
『なに? 友達ができないとか?』
「まだ学校もはじまってないってば――でもなんであたしに友達ができないって思ったの? まァ、確かにらいかより友達は少ないですけれども」
『だって姉貴、完璧主義でお節介じゃん? そのくせ――姉貴のほうからは、滅多なことじゃこころを開かないしね』
「そッ、そんなこと――」
『だってさ、どれがいい? 何がいい? って訊いても、なんでもいいです、全部あなたにお任せします、好きにしてください、でもあれはだめ、これはだめ、でしょ? 姉貴に自覚ないだけで、相当線引きまくってるよ』ずけずけとした物言い。
「ぐ……」
『あたしは助かってたけどさァ、そーいうの、正直まわりの人間からすりゃ、うざったいことこの上ないよ? 信頼してないのに信頼させよーとしてんだから、めちゃくちゃたち悪いからね、姉貴。詐欺師か、ってぐらいだわ』
「えェ……そこまで言わなくても、いいじゃない……」
『冗談だって、嘘じゃないけど。でもあたしはいちお、そんな姉貴に感謝してんだから。姉貴はさ、根は受け身なんだから、もーちょい肩のちからを抜いて、流れに身を任せたほうが楽だしきもちいーと思うよ。腐っても、っていうか腐ってないけどミタライのもんなんだから』
「……うーん――」ライカは唸り、俯いた。視界のなかに、隙だらけな寝顔が入ってくる。
――こころを開く、ね。
『ところで姉貴、よかったら置いてったぱんつ貸してくんない?』
「嫌です」ぶつりと通話を切ってCPを投げ出す。
そっとミツバ嬢の背に腕をまわして軽く抱擁してみると、とくとくと胸を伝わってくるものがあった。
自分のものとはすこしだけずれた、他人の、四十度より少しつめたい、未熟な炉心が奏でる――生命の響き。おさないトルク。
――そういえば家族以外のだれかと寝るのは、あたしもはじめてかしら。
瞼を閉じたライカは、すぐに眠りに落ちることができた。
いつもの朝食の時間よりもやや早い時間、ぱたぱたと厨房に駆け込んでくる軽い足音に、ホットサンドを焼いていたライカは顔を上げた。「あら、おはようございます。今日はお早いですね」
「よかったァ……まだいた……」胸を撫で下ろすミツバ嬢。「見送ろうと思ってたんだけど、寝坊しちゃって、どうしようかと――」
コップにミルクを注いでミツバ嬢の目の前に置き、「黙って出て行ったりしませんよ。それに、ラゴウにいる間は、このお屋敷に住まわせてもらうことにしましたので、もうお見送りは不要です」
ミルクを飲んでいたミツバ嬢はむせ返った。「そ、それってほんと!?」
ライカは背中をさすってやりながら微笑む。「御貴族のかたに嘘を申し上げたりしませんよ」
「やったー! ライカ、だいすき!」ミツバ嬢は歓喜してライカの首にかじりついた。
ライカは胸のなかに満たされるものを感じながら、ミツバ嬢の身を離してあめ色の瞳を覗き込んだ。「それで……ミツバさまに折り入って、お願いがあるのです」
「なァに? なんでも言って! ライカの頼みなら、なんでも聞くよ!」無垢な笑顔。
「あの、もしよろしければ――あたしをケイトの騎士にして頂けませんか?」
笑みが消え、ぽかんとした表情に。「……本気で言ってるの?」
「いけませんか?」
「でも……でも、ほんとうになんにもないところだし、ずっとわたしとふたりっきりだし、絶対嫌がると思って、わたし、誘わなかったのに――」
「あら、先ほどはあたしのお願いをなんでも聞いてくださるとおっしゃったのに、ケイトの領主さまはそれを反故になさるようなかただったんですか?」
「そんなことない! そんなことないよ!」全力で首を横に振り、「嬉しい……すっごく嬉しい! でも……どうして?」
「……納得がほしいんです。あたしを充足させてくれる納得が。いつかではなく、今、あたしをきっと必要としてくれるかたに仕えることで、あたし自身が満足したい。満たされたいんです」
不安げに猫型耳状デバイスが伏せられる。「わたし……できるのかな。ライカを満足させてあげることなんて」
「できますとも。もうたくさん満足させてもらってますから」ライカは床に膝をつきミツバ嬢の手を取って、その甲にくちづけた。
忠誠の誓い――小さなあるじ、たったひとりへの。
そうして留学期間を終え、お義理の外交任務を全うしたライカは、ミミッド行きの大型旅客ユニットに搭乗するはずだった日、スフィア・ケイトに降り立った。ミミッドの騎士から、ケイトの男爵代行へ――辺鄙なスフィアの学生から、超小型スフィアの特務護衛官へ。
ラゴウ領主ミツバはあっさりと了承した。領主が改めて説明したのはある一点についてのみ――賃金が安いということだった。ほかに言うべきことがあるだろう、とライカは内心で憤慨したが、しかめっ面をするだけに留めておいた。
「これは――ほんとうに小さいですね……」ケイトに着いたライカの第一声。
「かわいくていいと思うんだけど」ミツバが小首をかしげて問う。「小さいお家は嫌?」
「いえ……、なんだか実家に帰ったみたいで懐かしくて」
部屋がふたつにリビング、ダイニング、キッチンだけの、空気抵抗と重量を考慮した平屋。スフィア・ケイトに存在する唯一の建物だった。あとは大陸生物を釣り上げるためのデリック――やぐらが一基。
設備も必要最低限で、プラントはおろか畑もなく、土壌は枯れ果てていた。ケイトの生体鋼盤そのものが滑空姿勢を崩さぬよう、そしてエア・エブアンドフローの演算処理能力を落とさぬように成長を止められていたため、資源採取などもってのほかだった。自給もままならず、週に一度の食料や生活用品を届けてくれる定期便だけが頼りの綱。
「これからよろしくね、ライカ」琥珀のようなふたつのあめ色が上目遣いでライカを見上げた。
ライカは笑みで返した。「こちらこそ不束者ですが、精一杯お世話させていただきますね」
電子情報上では国の体裁をとっているものの、自活環境さえ整っていない箱庭。果てのない旅を強いられた鉄の孤島。着任式も進空式もなし――誰彼もが興味も期待も寄せていなかった。
それでもこの一年、ライカとミツバにとってケイトは、あらゆる充足を与えてくれる居場所になりえた。何者にも侵しえないふたりきりの王国に。
ケイトの中央には、フェンスに囲まれた、最大開口で直径五十メートルほどのシャッターが設けられている。平時は閉じているが、大陸生物を捕獲する際には開放し、そこから先端に檻のついたワイヤーをデリックで下ろして大陸生物を捕らえて搬入するのだ。
「ぐ……今日のもずいぶん立派なんですね……」ミツバに手を引かれ、やぐらの下に連れ出されたライカは、最も容積の大きい檻がワイヤーに吊られているのに気づいてうめいた。
最大規格の檻にしか収まらないような大型の大陸生物は、経験上、身体の大きさに比例するようにとりわけ酸鼻だった。今はまだ檻の底しか見えないが、ライカは口元を押さえるためのハンカチを手探りで確認した。
「そうなの! それにすっごくきれいなの!」スキップせんばかりに浮かれ、猫型尾状デバイスを揺らすミツバ。「ちょっと待っててね、今下ろすから」ミツバがCPを操作する。
ごくりと生唾を飲み込むライカの前で檻がゆっくりと下降し、次第にその中身が――こがねの輝きが、目に飛び込んできた。
その大陸生物を一言で表現するなら、巨大な獅子だろう。
全身を包む黄金の毛皮、一切の無駄なく鍛え上げられ研ぎ澄まされた肉体――鋼鉄の爪。節のある尾の先には、太く鋭い針、滴る赤黒い液体。ひときわ目を引くのは頭部を覆っている、触れたものを焼き尽くしそうな、業火のごとき赤銅のたてがみ。
今はエアレプリカで意識レベルが低い状態にありうつろで覇気は感じられないが、きらめくこがね色の虹彩にひと睨みされたならばたちまち震え上がり、三列の清冽な牙に粉々に噛み砕かれ意味を成さない肉片に変えられてしまうだろう。
「……」ライカはただただ言葉を奪われた。醜悪だったからではない。檻のなかで眠れるその獅子に、こころを打たれたからだった。
――何の、かは上手く説明できませんけれども……。
具現、権化――あるいは結晶。ライカは直感的に、獅子がある概念の純粋なかたまりであることを悟っていた。
何かの偶像、何かの化身。何かの根源。
「ね? ほんとうにきれいでしょ?」
「はい……とても」ライカはぼうっとしながら言った。「よくこんな……獰猛そうなのを捕まえられましたね」
「ちょうどお昼寝してたのを捕まえたの。ね、見て、お腹膨らんでるでしょ? 爪と尻尾の針も血みたいなのがついてるし、たぶん狩りをしてご飯を食べたところだと思うの」ミツバが玩具のようなアンプル銃を獅子に向けて撃った。
ぷしゅんと空気が抜けるような軽い音。ミツバの血が一滴入ったアンプルが獅子に突き刺さる。銃に殺傷力はなきに等しいだが、エア・エーテルサーキットレプリカを撃ち出すための特注品だった。
エア・エーテルサーキット――王鍵、猛毒回路。その正体はNEMESISの特定表現をクラスタ定義し、書き込み、読み込みするライブラリ・セルだ。三相転移コンテキストが相互に干渉しあい運動情報を記憶して制御する、最初の魔術から派生した解析と記録と再現のための魔術。体重や構造に関係なく生物の活動を抑制または活性――本人にとってはジェネレータ代わりにもなるためミツバ家は各種インプラントをしていなかったのだ――できるし、今ミツバが撃ち込んだのは、獅子のバイタルをモニタするためのものだった。
ミツバがフェンスに沿って歩きながらCPで記録をつけはじめた。ライカはハンカチを敷いて犬型尾状デバイスを尻で踏みつけないように腰を下ろし、獅子を観察した。
エーテル活動群の研究活動報告はほとんどされていない。生態、繁殖様式、発生、何もかも不明。連合に研究機関がなかったのもあるが、小国の国家予算を投じて一匹捕まえるのがやっと、そんなコストパフォーマンスの悪さから、誰も手が出ないのが現状だ。
そして何より、研究をもっとも妨げているのは、エーテル活動群は一匹としておなじ形態がいないことだろう。すべてのエーテル活動群が種であり、まったく異なる態なのだ。
エーテル活動群を研究する利点はいくつかある。もしエーテル活動群をいくらか制御できるならばヒトは大陸を取り戻せるし、地下資源を活用できる。いくつかのスフィアが抱える食糧問題やそこから発展している戦争も解決するだろう。また、エーテル活動群を解明することは、己らLMOの起源に迫るかもしれない仮説もあった。
LMOを大陸生物と科学的に交わった汚れた種族だと呼ばわり、マジックブラッド、あるいは乖離主義者どもとけなすのは、スフィア・オロンドの純然たるヒト種、原型主義者だ。その弁はある部分で正しい。
エーテル活動群に共通しているのは、たったひとつ。血だ。エーテルと呼称される、人体には猛毒の体液。その血には高分子自身に意識があるかのように結合状態を操作する性質のある成分が含まれる。挙動が三相転移コンテキスト、とくにラゴウのエア・エーテルサーキットと酷似していたため、エーテルと名づけられたのだ。
「ね、ライカ! 見て見て!」声を張り上げ、手を振るミツバ。ライカが歩み寄ると、ミツバは獅子の後ろ足の股を指差した。「この子ね、男性器と女性器の両方を備えてるみたいなの。哺乳類に雌雄同体はいないはずなんだけど、そもそも雌雄同体っていうのはその種の行動範囲が狭いから――」
大きく膨らんだ腹の下、雄々しい野生的な一物が猛っていた。はじめて見る、ごつごつとした凶暴な凹凸が目立つ、牡のそれ。まるで鈍器。ライカは頬を引きつらせて口のなかで何度もおなじ言葉を唱えた。
――学術的視点、学術的視点、これは学術的視点なんですから……。
「性的特徴を持つエーテル活動群がいないわけじゃないんだけど、もちろん、つがいが、相手がいないからちゃんと機能してなかったの。でもこの子はひょっとしたら単為生殖するのかも……すごい発見になるかもしれないよ、ライカ!」ミツバの力説。
「そ、それはよろしゅうございました」こほん、と小さく咳払い。「名前はどうされるんですか?」
「もう決めてるの。メメコレオウス――あらゆる色の魂を食らい尽くし飲み干したと言われている伝説の生き物なの。ネコ科みたいなのにこんなに胃袋がぱんぱんになるまで食べるような食いしん坊さんだから、ね。ほんとうは蝙蝠の羽があるらしいんだけど」
「それは……とてもおっかないですね」ライカは獅子が自由に大空を駆けるさまを想像した。
空を飛ぶエーテル活動群は皆無ではないが、鳥のようにスフィア・ケイトに至る高さまで飛翔する個体は確認されていない。獅子もまたその重量からして翼を持っていたとしても限界高度はたかが知れているものの、もし飛んでこられたらひとたまりもないだろう。
「そうかな? 捕まえるのが楽でいいと思うけど」それに、と付け加える。「襲われても、ライカが守ってくれるんでしょ?」純真ないらえ。
「もちろんですとも」胸を張ってみせたものの、ライカはただの騎士に過ぎない。エア・エーテルサーキットは戦闘を不得手とするにしても、単純な魔術の出力ならミタライの魔術では足元にも及ばないのが現実だ。
そのとき、腹腔に響く低い苦しげな唸り声が三列の歯並びから漏れた。いつの間にか獅子メメコレオウスの呼吸は浅く速くなっていた。黄金の瞳は依然として光を宿しておらず、意識を取り戻した様子ではない。
「どうしたんでしょう……病気だったんでしょうか」
「血圧がすごくさがってるけど、ほかに異常は――」
獅子の手足が痙攣する。口の端から血のあぶくがあふれた。腹部が内側から押し出されたかのようにうごめく。ライカは久しく忘れていた戦慄に従い、地面を蹴っていた。黄金の毛皮が弾け、血と臓器が檻のなかに撒き散らされたのと、ライカがミツバを押し倒し覆いかぶさったのはほとんど同時だった。ライカの背に、何十もの針が突き刺さったのも。
背中を焼く痛み。「お怪我は……ございませんか」口内に血が溜まっていた。幸い貫通はしていないようだったが、肺やら胃やらを傷つけられていた。
「ライカ!? わたしをかばって――」
「お嬢さま、エアレプリカの用意を。あたしが引きつけますので」刀身に等間隔の穴が開いた、片刃の積分杖を抜いて立ち上がった。
獅子の裂けた胎から赤黒い血にまみれた白い大蛇が這いずり出ていた。鱗のない異様にぬめった皮膚、人間ぐらいなら難なく丸呑みにできるだろう巨体。鎌首をもたげ、ちろちろと赤い舌を見せ、奇妙な房のある尾を震わせている。
獅子は眠っていたのではない。寄生され、食糧と寝床にされていたのだ。胃袋の内容物にまでエアレプリカは干渉力を持たない。だから、蛇には麻酔が効いていなかった。
杖を握る手の感覚がなかった。大陸生物のエーテルをもらったからだろう。震えが止まらない。視界が明滅する。右目は色を失くしていた。健康状態が極度に脅かされていると、拡張視野が執拗に訴えた。痛覚が引かないことから、高速テロメア模写ジェネレータも破壊されていた。もって一分か。
白蛇の尻尾がおもむろに膨張した。大気を取り込んだのだろう、針を飛ばすために。ライカは魔術的感覚でそれを悟り、NEMESISを呼び覚まして杖を振るった。刀身の穴――環状増幅機構から吐き出された無数の泡が杖の軌道に沿って飛び、鋼の帯のように煌めき、甲高い音を立てて放たれた針を弾き返した。
積分杖から薬莢が排出され、薬室に次の液体炸薬を封入したカートリッジが送り込まれる。ライカは駆け出し、ミツバから離れながら、さらに杖を振って蛇に泡を飛ばした。白蛇は獅子の体内に引っ込み、爆ぜた泡は獅子の皮膚に裂傷を与えただけだった。応酬と言わんばかりに白蛇がライカに集中的に針を放った。反射的に作った泡の防壁は針の流束には耐え切れず破裂し、数本の針がライカの脇腹を穿孔した。熱い体液が喉奥を突きあげ、ライカはつまづきかけた。
檻と、獅子が邪魔だった。ミタライの本分は近接と奇襲だ。近づけなければ魔術の真価は発揮できない。
ミツバがCPを操作した。デリックが稼動し、ワイヤーのロックが外れた。ケイトの大穴に獅子と蛇を収めた檻が飲み込まれていく。
――助かった……。
地面に膝をつき、ライカはむせながら大量の血を吐いた。力が抜け、積分杖が手から滑り落ちる寸前、ミツバの叫ぶ声を聞いた。「ライカ、避けて!」
咄嗟に靴の裏に泡沫を生み、踏みつけた。爆風がライカを押し出し、驚異的な初速で長大な毒牙から逃れさせた。もんどり打って転がりながら受身を取り、杖を構えなおす。串刺しにされた臓器が悲鳴を上げ、またおびただしい量の嘔吐を誘った。エプロンは真っ赤に染まっていた。
身体をたわめた白蛇の真紅の眸子と目が合った。爬虫類の小さな眼が放つ重圧に、ライカは指一本動かせなかった。汗と血が混じったまだらのしずくが顎を伝った。ミツバのことが気になったが、視線を外した瞬間にやられるという確信がライカにはあり、蛇にはそれを成し遂げる反応速度と瞬発力があった。
格子の間をすり抜け、落下する檻から飛び上がってきたのだろう。驚くべきはその身体のばねよりも、獅子の肥えた肉体を捨ててまで外敵を排しようとする敵意と執念。ライカが知りえる野生動物から遙かに乖離した、異質な本能。
蛇と睨みあいながら、刻一刻と全身を蝕む猛毒の存在をライカは体感していた。積分杖の切っ先が震えていた。腹のなかで燃え上がりそうなほど発熱した臓器を、掻きだしたくてたまらなかった。血も流しすぎた。悪寒さえなかった。拡張視野を切った。自分の体調も大気の魔術的濃度も、参照するだけ無駄だった。
状況は芳しくなかった。このまま膠着していればまもなくライカはエーテルか、失血に斃れる。ミツバがひとりきりになる。それだけは断じてならない。刺し違えてでも撃退するしか――。
そのとき、ぷしゅんと軽い音。ミツバがエアレプリカを撃ったのだ。白蛇が跳んだ。エアレプリカはかわされたが、絶好の、そして最後の機会だった。泡を踏んで自分のこぼした体液溜まりを刃先ですくいあげつつ、白蛇に追いすがる。ライカを大地に縫いとめんと上空から針が放射された。針の雨は鎖骨を断ち割り、腕の筋肉を引き裂き、肺を穿ち貫いたが、ライカを死に至らしめることはかなわなかった。
蛇の着地に合わせて積分杖を振り抜いた。白蛇が身をよじった。刃は紙一重で空を切り、杖の先端に乗ったライカの血液が蛇の鼻先に付着した。ミタライにはそれで充分だった。魔術を起動させる。
ぷつぷつと小さな起伏が血のりの表面に生じはじめ、次第にぽこぽこと泡立ち──さながら沸騰しているかのように──、気泡が弾けた。火と煙、塵と芥の伴わない純粋な暴力の炸裂。
白蛇は絶命した――頭をすっかり失って。
今度こそ完全に脱力したライカは、積分杖を落としてその場にへたり込んだ。呼吸をするのも億劫だった。ミツバが血相を変えてやってきた。「ライカ、大丈夫!? すぐに治療しなきゃ!」
「あたし、より……お嬢さまに……、お怪我……ござい、ませ……んか」ライカの視神経はもう機能していなかった。舌も痺れ、うまく喋れなかった。「すみま、せ……研究、対しょ……、殺し……、ちゃ、って……」
「しゃ、喋っちゃだめ! じっとしてて、今解毒するから」
首筋にあてがわれたアンプルの冷たい注射針を感じながら、ライカは気絶した。
ベッドの上で目が覚めたとき、気だるさはあるものの負傷も痛みもなかったせいで、ライカは自分が死んだのだと誤解した。
スフィア・ケイトの自室だった。主観時刻は真夜中。七、八時間ほど眠っていたらしい。
ライカは自分の身体を検分した。拡張視野は、ライカが健康そのものだと告げていた。ミツバはライカに医者顔負けの処置を施したようだった。ケイトに本格的な医療設備はないが、エア・エーテルサーキットレプリカをもってすれば死に瀕したあの状態から回復する奇跡も実現しえた。ジェネレータも復元されていた。
――それを善しとするかはまた別の話ですけれども……。
ミツバの血は探求のために尽くされるべき血だった。ミタライの血が、あるじを守って砕かれるべき血であるように。
ライカがベッドから降りようとすると、ミツバが部屋に飛び込んできた。「ライカ! よかったァ、ちゃんと治ったんだ……」ミツバの手にはCPがあり、別室でライカのバイタルをチェックしていたのだとわかった。
ライカはミツバを安心させるようにやわらかく微笑みかけた。「えェ、お嬢さまが助けてくださったんですよね。ほんとうに、ありがとうございます」
ライカの予想に反してミツバは抱きついたりせず、気遣わしげな表情でおずおずと手を取って軽く握りしめるだけだった。「どこか痛いところはない? 気分が悪かったりは?」
「おかげさまで、すこぶる順調です。すみません、心配をおかけしてしまったみたいで」
あめ色の双眸がじんわりと涙の膜を張った。「心配したよ……すっごくすっごく心配したんだから……」
おろおろと戸惑いながらライカはミツバの手を握り返した。「す、すみません……怖い思いをさせてしまって」
ライカが蜂の巣にされたり白蛇の頭を吹き飛ばしたりを間近で見せてしまったのだ、情操教育上よくないどころか、PTSDに罹ってもなんら不思議ではない。
ミツバはかぶりを振った。「ううん……ライカは悪くない。ちゃんと確かめずにあの子たちを引き揚げちゃったわたしが悪いの……ごめんね、わたし、もうちょっとで、ライカを殺すところだった……」
「そんなことはありません。蛇が全部悪かったんです」
ふたたび否定を示すミツバ。「違うの……あの蛇は――わたしなの」
一瞬、ミツバの言わんとする意味をライカは読み取りかねた。
――獅子の腹を食い破って出てきた蛇。
ライカはすぐにそれを連想した。
「……エーテル活動群はね、血はおなじなのに、みんな違う姿でしょ……だから、遺伝とNEMESIS媒体の関係性の解析に繋がると思って、これからきっと増え続けるはずの血負けを減らせると思って、わたし、ずっと研究してたの……ママにむくいたくて」弱々しく。「わたし……ばかだった。研究のために、いちばん大事なひとを失いかけた……」
「でもちゃんと、助けてくださったじゃないですか。お嬢さまは、あたしの命の恩人です。どれだけ感謝してもしきれないほど」励ますように、力を込めて。
「次は助けられるとは限らない……もう襲われないとは、言えないの。わたし、怖い……怖くて怖くて仕方ないの」
「今回は不覚を取っただけです。これからはもっとうまくやってみせます」
「違うの! そういうことじゃないの!」悲痛な叫び。「嫌なの……わたしについてきたせいで、ライカが戦って、危ない目にあって、怪我して、痛い思いをするのが、嫌なの。わたし……わたし、ライカに傷ついてほしくない。わたしが原因なら、なおさら嫌。わたし、もしライカが死んじゃったら、助けられなかったら、わたしも死ぬつもりだった」
「そんな……なりません! 許されません、絶対。あたしは騎士です。お嬢さまたったひとりだけの、騎士なんです。お嬢さまを守るために、ここにいるんです。戦うのぐらい慣れっこですし、覚悟はしてきました。お嬢さまのために命を賭すことも。血が砕け骨が溶け肉が乾くそのときまでこの身を捧げてこそ、あたしの血が意味を持つのです」
童女のように駄々をこねはじめる。「……知らない、騎士なんて知らないよう……血なんて、わかんないよう……やめて……もう、やめてよ……もう、嫌だよ……続けたくない……ねェ、ライカ、一緒に逃げよう……? もう、わたしに失わせないで……」
ぽたぽたとシーツの上にこぼれる涙が、ライカの胸をえぐった。ライカはミツバの主張を理解していた。白蛇とは相討ち同然で辛くも勝利したが、次に大陸生物と対峙したとき、おなじ幸運に見舞われる保証はどこにもなかった。
できることならミツバをスフィア・ラゴウへ帰してやりたかった。しかしライカは、ミツバを特務から降ろさせる道だけは選べなかった。ケイトを授けられた経緯を鑑みれば、特務を投げ出したところでミツバが行き着く先は、ない。
数え切れないほどの言葉を重ねても、互いが互いのために譲れなかった。
ライカはそっとミツバを抱き寄せた。
「……ライカ?」ミツバが怪訝そうな声を出した。
小さな背をさすりながら、「あたしは、お嬢さまだけのものです。お嬢さまの所有物です。この血肉の一片から、その一片に宿るいかずちとほむらの一粒まで。だから、お嬢さまが決められたことには、従わなければなりません」なだめるように。
「じゃァ――」
充血したあめ色の瞳をまっすぐ見つめ、ライカは事実を突きつける。「だからこそ、はっきり言わせてもらいます。逃げる場所なんか、ありません。お嬢さまはケイトの領主で、それ以外の何者でもないんです。ここから逃げて、どこに行くんですか。ケイトを捨てれば、きっと連合もラゴウの領主さまもお許しにならないでしょう。空の果てまで追われ、必ず捕まります。裁判にもかけられます。牢屋にだって入れられちゃいます。ここを望んだのは、お嬢さまご自身なんですよ。お嬢さまが選んで、手に入れたんです。せっかく手に入れたものを、手放すんですか」
「……地位も、研究もいらないもん……ケイトなんかより、ライカのほうが大事だもん!」
「あたしは、ただの騎士です。騎士なんて、ごまんといるんです。スフィアと比較していいものじゃありません」
「ライカ、何にもわかってない……! わたし、ライカじゃなきゃだめなの! ケイトなんてどうでもいいの! わたしにとっていちばん大切なのは、ライカなの! ライカが好きなの!」語気が強まる。
「あ、あたしもお嬢さまをいちばんに思っています、けど、その――」ミツバの気迫にうろたえるライカ。
「ライカのばか! わからず屋! とーへんぼく!」一転して罵りへ。「わたしが好きって言ってるのは、こういうことなの!」
唇に触れるやわらかな感触。「んん――ッ!?」
白蛇よりも見事な不意打ちだった。そのくちづけはほとんど体当たり的で、ミツバの並外れた肌の熱さが意識を白く染め上げ、ライカはベッドに倒されたことも気づかなかった。
ライカに馬乗りになったまま、ミツバが言った。「愛してるの。パパよりもおにいさまよりもおねえさまよりも。世界でいちばん、いとおしくてたまらないの」突然の告白。
「そん、な……」
ライカは、ミツバが自分に親しい感情を抱いていることは認識していた。ミツバがライカに投影していたのは、母親や乳母に近いものだと、そう思い込んでいた。
塩辛い水滴が火照ったライカの唇を打ち、ミツバの金髪の毛先が頬をくすぐった。
「ライカは、わたしのこと、嫌い?」
「そんなことは、ありません、けど、けど……あたし、は……」ライカは言葉に詰まった。
「家柄なんて、関係ない。身分なんか、どうでもいいの。ちゃんと、わたしのことを見てよ! ライカは、わたしがミツバの家のものだったから、わたしについてきたの!?」
「ちが、ちがいます! お嬢さまを守りたくて――」
「じゃァ、ずっといてよ……一緒にいさせてよ……」
「お嬢さ――」
何も言わせまいと、開きかけたライカの口がふさがれる。抗おうとした手もベッドに押さえつけられ、唇をむさぼられた。
振りほどけない膂力ではなかったにもかかわらず、接吻のもたらす目眩さえ感じる昂ぶりがライカの気力と理性を消し飛ばし、ライカにミツバの体重を受け入れさせた。
息苦しくなったのか、息を弾ませ、ミツバが顔を離した。「……ねェ、お願いが、あるの、ライカ」真摯な眼差し。「そのお願いを叶えてくれたら、わたし、ここにいてもいいよ」
「……なん、でしょうか」陶然としながら尋ねた。
「わたしを――、生みなおしてほしいの」
「……ッ!」
告げられた思いの丈――その真意をライカが悟るのは難しくなかった。
ライカは、誤解していなかった。ミツバが間違っていただけのことだった。恋慕のただしさ、あるいはミツバがこころの底から求むるものの意味を。ミツバをただすものもいなかった。今この瞬間まで、ミツバの自我と主体性の屈折に気づくものがいなかったのだ。
その血への決別と執着が混同されたお願いを否定することが、この世において誰の存在を拒むのか、わかりきっていた。同時にライカにとっては愛情の形をした、強烈な戒めそのものだった。血から、血へ。逃れる場所など、どこにもない。その自己破滅的な証明と、自明の結末。
――あたしだから、なんですよね……。
ベッドに押し倒されているというのに、得も言えぬ浮遊感にライカはくらくらした。胸のなかを疼痛が苛み、到底抑えられそうにない熱が目にこみ上げてきていた。ミツバをゆがめたのは何者でもない、ライカ自身だった。もしライカが、狼態に似た犬態のLMOでさえなければ――勝手な真似をしなければ。ライカは己の感情への、正誤の判断も失くしていた。
「……あたしで……、よければ……」囁くように言った。ライカは、ただせなかった。目尻に溜まった涙がこめかみを伝った。
ふたたび唇が重ねられた。三度目のくちづけは、気が遠くなるほど長かった。
「とりあえず、一通りのセットアップは済ませておいた」照りつける日差しのなか、スフィア・ケイトの生態鋼盤に顎をつけて伏せた無人機関獣の背中から、黒い髪をした童顔の鼬型LMOが飛び降りた。「注文通りに学習もさせてあるから、改めてきみが設定することは何もない。あとはまァ、マニュアルに目を通して、それでも解決できないような困ったことがあったら、うちの誰かに連絡してくれればいい。故障したときも、な」
「ありがとう、キキくん。なんか、ごめんね、こんな遠くまで」ライカは濡らしたタオルとレモネードを差し出した。
「一応、外交だからな。スフィアの規模に肩透かしを食らったのは認めるが――」
白蛇に襲われた日からしばらく考え抜いた結果、ライカはキキの三男坊に相談するという結論に至った。ミタライはスフィア・ミミッドの首都に土地を持ち、キキは地方に住んでいたため学校は別々だったものの、学校の合同演習や名家同士の付き合いもあって面識はあった。そういった同郷のよしみで無人機を割安で譲ってくれないかと打診するためだったのだが、キキはなんと公式に無人機三騎をケイトに進呈すると申し出たのだった。
キキはグラスを呷った。「それに、ぼくも親父も、こんなことになるとは予想していなかったから、きみに少し引け目を感じているしな……」
キキは、ライカがスフィア・ラゴウに渡るきっかけのことに触れているのだろう。「そういえば、どうして留学を辞退したの?」
「連合からキキ家への申し出は時機が悪い、ひとりでも家を空けさせるわけにはいかない、とか何とかで親父がずいぶん警戒していてな。親父も昔、連合の手配でスフィア・マットーに移っていたことがあって、そのときからどうやら、連合とは何らかの因縁があるらしい」
「それは……あまり詳しく追求しないほうが身のためになりそうね……」
「あァ、そうしてくれ。ぼくもよく知らないし、知りたくはない。……まァ、結局は杞憂に終わって、きみに苦労をかけただけになってしまったがな。近頃ミタライ家からの風当たりも厳しいし」憮然として。
ライカは苦笑した。「それも含めて、ごめんね。気分屋で飽きっぽいひとたちだから、すぐほとぼりは冷めると思うんですけれども」
「あァ、どうやらそうらしいな」キキはライカに意味ありげな視線を送った。
「あら、どういうことかしら」
「生真面目で騎士らしい騎士だったきみのことだから、見知らぬスフィアに飛ばされた復讐のために呼び出されたのかと思ったんだ。依頼を受けたとき、ここで切り捨てられるのを覚悟したぐらいだ。親父や兄貴たちは、誰が介添人になるかで揉めていたな。無人機を進呈することになったのも、実は親父が外交としての保険にしようと決めたからだ」
むっとして言い返す。「失礼なひとたちね。あたしは自ら望んでケイトに移って、お嬢さまを守るために仕えているんです。むしろキキくんには感謝してるぐらいなんだから。ご当主とお兄さんたちにもそう伝えてくださいな」
「それなら助かるが。だが、それならどうして無人機なんだ? パワードスーツのほうが都合がいいだろうし、使い慣れているはずだろう」
「それはまァ、色々と、あたしが戦えない込み入った事情があって――」口ごもるライカ。
キキの疑問どおり、無人の機関獣では、エーテル活動群にはとてもではないが太刀打ちできない。それでも、守るべきものが増えたライカの無茶を、確実に減らしてくれるはずだった。
「訓練での模擬戦では無敗、雷光鉄火と恐れられていたあのライカが? 悪い病気でも患ったのか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
キキはライカのエプロンにこげ茶色の目を留め、「まさか、家事に追われて、なんて言い出したりしないだろうな?」
当たらずといえども遠からず。「えーと……そうね、そんなとこかしら」ライカは曖昧にうなずいた。
キキは複雑そうな表情になった。「……まァ、それもいいんじゃないか。幾度となくこてんぱんに打ち負かされた騎士としては惜しい気もするが……、そういうのもきみには似合ってると思うよ、ぼくは」
「……ありがとう」
「ま、ジェネレータを積んでる以上は家のことばかりじゃなく、適度な運動ぐらいは心がけたほうがいいと思うが」
「やっぱり切り捨てようかしら」ライカが積分杖の柄に手をかける。
キキは冷や汗をかいた。「な――ッ!? い、いや、待て、なにか誤解しているようだが、変な意味では――」そして取り繕うように咳払いをして、「さて、ぼくはそろそろお暇させてもらおうかな」
「ほんとうに切ったりしないってば。また長旅でしょ? お昼ぐらい食べてってよ。お礼にご馳走するから。なんなら一晩ぐらい泊まってくれてもいいし」
「いや……、せっかくの男爵代行どののお誘いを断るのは気が咎めるが、遠慮しとくよ。これ以上お邪魔していると、領主どのに切り捨てられそうだ」
おどけた風に肩をすくめるキキの視線の先には、家の前で仏頂面をしたミツバの姿があった。猫型耳状形態デバイスは神経質にぴくぴくと動き、尾は力強く左右にぶんぶんと振られており、不機嫌なのは歴然だった。
ミツバはキキが到着したときにかしこまった挨拶を交わしただけで、あまり歓迎していない様子だった。ちょっと待ってて、とキキに言い残し、ミツバのもとへ駆け寄ると、
「……かなで、あのひととやけに仲良さそうだね」つんけんしながらミツバがぼやいた。
「故郷の知人ですし、無人機を頂いたんですもの。きちんとおもてなししないと。それに、いいひとですよ、キキくんは」
「ふゥん……」胡乱げなあめ色の瞳。
「どうかなさったんですか?」
「なんでもないもん」そっぽを向くミツバ。
「もしミミッド騎士どのとのお食事会を開かせていただければ、腕によりをかけてご飯を作るんですけども……」
「う……」
「もちろんフルコースで」
「うう……」
「人数が多ければ、料理の数もたくさん用意できるんですけども……」
「ううう……」
ライカはおおきくため息を吐き出して、ミツバを抱き寄せた。ライカのたっぷりした胸にミツバの頭が埋没する。「んむっ!?」
「もう、機嫌を直して、ちゃんとお行儀よくしてくださいな、ひかりさま。我が家の、当主なんですから」
ミツバが唸った。「うううう……そんなこと言われたら、だめって言えないじゃない……なんだか最近のかなで、わたしの扱いに慣れてきてない?」
「気のせいですよ、きっと」ミツバの手を引いて機関獣のところへ戻り、「ミミッド騎士どの、会食を催したいと思いますので、それまでどうぞごゆっくりなさってくださいな。なんにもないところですけども」
目のやり場に困ったように立ち尽くしていたキキが言った。「むしろ、ふたりして暗に帰れと突きつけられたような気がしてならないんだが……」苦笑気味に。「外交とはままならんものだな。謹んでお受けしよう」
ライカとミツバは顔を見合わせ、くすくすと笑った。