夏祭り
「小鳥遊先輩、夏祭り行きませんか!」
部活が終わった後。日の暮れ始めた部室で帰る用意をしていた俺に、唐突にそんな言葉が投げ掛けられた。一旦手を止め、振り返る。
「夏祭り?」
「はいっ!」
勢いよく頷くのは、中学からの部活の後輩、永栄真樹。小柄な身体で跳ねるように俺に近付くと、胸の前で両手の拳を握りしめた。
「ほら、神社で毎年ある夏祭りですよ! 先輩だって行った事あるでしょ?」
この辺りで夏祭り、といえば、近くにある神宮で行われる祭りの事だ。参道や境内にずらりと出店が並び、太鼓や雅楽などの地域サークルの発表があり、ラストには、数は余り多くないが打ち上げ花火が上がる。地域の祭りにしては、かなり大きなものだ。
「行ったのは、中学生の時が最後。人混み好きじゃねえし」
「えー! 賑やかで良いじゃないですかー。先輩、行きましょうよー」
小さな拳を振り回して力説する永栄にきちんと向き直りつつ、怪訝な顔をして見せた。
「永栄、友達いねえの?」
「ひどっ! 友達くらいいますよ!」
永栄は大袈裟にふくれた顔をして、怒った様に手を振り回す。期待通りのオーバーリアクションに小さく笑いつつ、肩をすくめた。
「ならそいつらと行けば。わざわざ俺と行かなくたって良いじゃねえか」
意地悪も兼ねてそう言うと、永栄はやや視線を彷徨わせつつ、それでも握り拳を解かないで言い返してくる。
「彼氏や他の友達と約束してたり、他の用事があったりで、誰もいなかったんです! 毎年知り合いと夏祭りに行くっていうルールを破らせない為にも、先輩、一緒に来て下さい!」
「どんなルールだよ、滅茶苦茶だなそれ」
笑いながら言うと、永栄は更に1歩詰め寄ってくる。
「良いじゃないですか! 小鳥遊先輩、週末は用事無いって言ってたでしょ! 奢れだなんて言いませんから、ね!」
「ね、って永栄、それは当たり前だろ」
返しつつ、俺は内心溜息をついた。手を伸ばし、前髪に隠されている広い額を、軽く指で弾く。
「いたっ!」
「報酬、たこ焼き特大」
それで妥協してやると告げると、額を押さえて大袈裟に痛がっていた永栄の表情が、ぱあっと明るくなった。
「ありがとうございます! じゃあ、土曜日の6時に、鳥居の前で!」
「げ、最初から行くのか?」
「当たり前じゃないですか!!」
「めんどくせー」
顔を顰めるも、頷いてしまった以上は仕方ない。渋々了承を告げると、忘れないで下さいねと釘を刺して、後輩は部室から駆けだしていった。
「……おーお、ついにだなー」
今まで黙って成り行きを見守っていた同級生の瀬良田彪が、にやにやと笑いながら口を開く。見れば、笑い顔のままわざとらしい口調で嘯いた。
「顔良し、人付き合い良し、トロンボーンのパートリーダーとして人望ありと、文句無しにモテる要素を備えていながら、1度告白されれば縁を絶つ男、小鳥遊勇。それをよーく知っている筈の永栄が、こんな誘いをするなんてな」
「……だな」
返す言葉が見つからず、ただ頷く。瀬良田もまた、中学の頃から、同じブラスバンド部だ。だからこそ、俺のモットーは知っている。
すなわち、「浅く広く、無難に」。
友人付き合いならともかく、彼女なんて面倒なものはお断りだ。他人の恋心を否定する気は無いけれど、恋愛に付随するあれこれが鬱陶しいから、俺は絶対に手を出さない。
よって俺は、友人としてならそれなりに仲良くやるが、それ以上の関係を要求された瞬間に、関わりを断つようにしている。文字通り、その後は口もきかない。
最初のうちは「お友達のままでお願いします」をやっていたけど、半ストーカーのような輩が出始めたから、きっぱり縁を断つ事にしたのだ。
中学の頃から共にトロンボーンを吹いているからか、何だかんだと関わりの多かった永栄は、その様を何度も見ている。だから、自分の誘いがどういう意味を持つのか、きちんと分かっている筈なのに。
「あれかね、兄離れの意思かね? もう付きまといませんよー的な」
おどけて言われたその言葉に、苦笑した。こいつの例えを否定できない所が、また何とも言えない気持ちにさせられる。
「兄離れって何だよ。俺、妹なんていないぜ」
「いや、小鳥遊は面倒見良いだろ。永栄は最初どうしようもない下手くそだったけど、きっちり教えて育て上げたし、その後も何だかんだと世話焼いてるし」
瀬良田の指摘通り、女かつ小柄な永栄は、その為か単に不器用だったのか、始めたばかりの時は、それはもう悲惨だった。音は出ないし出ても小さい。何度も先輩や顧問に、別の楽器にしたらどうかと言われていた。
それでも頑として首を縦に振らない永栄に、結局最後まで教えたのは俺だった。あくまでトロンボーンに拘る頑固さと、いくら出来なくてもへこたれずに頑張る根性がどうにも好ましくて付き合っているうちに、最後には俺も意地になって教え込んだ。
結果、今は次のパートリーダー候補なんだから、努力というのは偉大だと思う。
「永栄の努力あっての結果だろ。世話焼きも、先輩としての範疇は超えてないつもりだけど?」
「知ってるっての。小鳥遊がそれ以上やるかよ」
あっさりと頷く瀬良田。薄情だとか冷血だとか言われる俺のモットーをきちんと理解してくれるこいつは、本当に得がたい友人だ。
「冗談はともかく、だ。……小鳥遊だって気付いてたんだろ。分かってた筈だぜ、いつかはこうなるって」
「……ああ」
ふと真顔になって言う瀬良田に、少しだけ苦い顔を見せて頷いた。
そう、分かっていた。いつからか永栄が、俺に恋愛感情を持っていた事を。不器用なりに隠すから、俺も気付かぬ振りをしていただけだ。彼女がこの関係を崩さない方を選ぶのならその方がいい、そう思って。
どっちつかずの現状に我慢出来なくなったのだろうか。告白される経験だけは無駄に多いから、この誘いが告白の場作りである事は、きちんと察している。
……出来るなら、卒業、いや、せめて引退まで我慢して欲しかった。それなら、部活で気まずい思いをする事もないのだから。
「はあ、気が重い……」
「へえ、小鳥遊でも、やっぱ付き合いの長い後輩と縁を切るのは辛いのか?」
意外そうに瞬く瀬良田に、肩をすくめて見せた。
「そりゃあな。部活来るのがちょっと億劫になりそうだ」
「おいおい、それは困るぞ?」
「大丈夫だよ、そこはわきまえてるっての」
一瞬で副キャプテンの顔になった瀬良田に苦笑する。俺だって、そんな理由で部活を疎かにする気は無い。
無い、のだが。土曜以降は永栄と口をきく事もないのだと思うと、やはり少し気が滅入った。
約束の日、当日。
部活の後時間を持て余した俺は、珍しくも早く家を出た。約束より15分も早く着くなんて、滅多に無いのだけど。
鳥居の前で待っていると、待ち合わせをしているらしき人達が、ちらほらと目に入る。やはりカップルが多く、中には男も浴衣を着ている奴がいて、あほらしいと顔を顰めた。
「あれ? 小鳥遊先輩、めっちゃ早いですね?」
不思議そうな声に視線を下げると、鳥居へと続く階段を駆け上がってくる永栄の姿が目に入る。永栄は私服だった。活発的な性格そのままの、袖のやや短いTシャツにショートパンツという服装だ。
「ああ、何か早く着いた」
「わあ、約束の時間が待ちきれなかったんですか?」
冗談めかして言う永栄に、こっちも冗談めかして返す。
「いーや、誰かさんが時間間違えたーとか言って、異様に早い時間から1人この場所で待たなくて済むよう、気を回してやったんだ」
「うわっ、そんな昔の事!」
顔を真っ赤にして腕を振り回す永栄は、中学の時、それを大会当日にやらかした。半泣きになって同学年の女子にしがみついていたあの過去は、流石にもう恥ずかしいらしい。
「もう、行きましょうよ!!」
「はいはい」
必死で誤魔化そうとする永栄を見て、頃合いと判断し素直に鳥居をくぐる。途端、人が文字通りごった返していて、体感温度が急に上がった。
「……多い。しかも暑い」
「お祭りですから!」
そう答える永栄は、キラキラと目を輝かせている。俺との事抜きにも、本当に祭りを楽しみにしていたらしく、うきうきした空気を全力で放出しつつ、出店に目が釘付けだ。
……まあ、こんなに楽しそうにしてるんだから、少し位人混みを我慢してもいいか。最後だしな。
そう思い、俺から声をかけた。
「それで、どこから見るんだ?」
「取り敢えず全部見て回ってから、気になるとこ順番に行きます!」
「りょーかい」
頷いて、永栄の飛び跳ねるような歩みに合わせて、人混みに突入する。
「それにしても、永栄は浴衣着なかったんだな」
辺りを見回せば、女子は軒並み浴衣を着ている。祭り好きらしい永栄の事だ、こういうのは絶対に外さないだろうと思っていたんだが。
「え? 小鳥遊先輩、前に言ってたじゃないですか。女の浴衣は歩幅狭いから、歩くの遅いって。先輩元々歩くの早いし、付き合ってもらうのにそんなストレス感じさせるのは悪いなーって、ちゃんと私服で来たんですよ?」
やや不満げに口を尖らせてそう言う永栄に、意外だという表情を隠しきれなかった。それに気付かない永栄じゃなく、更に不満げな表情になる。
「何ですか、その顔ー」
「いや……良く覚えてたな」
「そりゃあ、いつもお世話になりまくってる分、側にいる事多いですから!」
自慢にもならない事を胸を張って言う永栄だが、記憶にある限り俺が浴衣を着た女子と歩く面倒さを漏らしたのは、1度きりだ。
「側にいれば覚えてるってもんじゃねえだろ」
「何言ってるんですか、小鳥遊先輩。先輩だって、瀬良田先輩の嫌いな食べ物、覚えてるでしょ? 同じですよ」
不思議そうに首を傾げる永栄の様子から、こいつが本気でそれを常識だと思っていると分かった。けれど、そんなさりげない気遣いが出来る奴が、一体どれだけいる事か。
「……いや、いい。永栄らしいな」
そういえば、永栄といて不快な思いをした事は、1度も無い。さりげなく気遣い、当たり前のように行動する。明るく振り回してくれる永栄だが、それでも1度も嫌な思いをした事ないのは、それでか。
「へ?」
「何でもない。ほら、行くぞ」
呟くようになってしまった言葉尻を聞き咎める永栄をはぐらかすようにして、遅くなっていた歩みを速める。少しばかり不思議そうにしていたが、永栄の意識は直ぐに祭りへとシフトした。
「うわー……何食べよう。あれもこれも食べたくて、迷っちゃう……」
「好きなもん食べれば良いだろ?」
大体出店のものは、気軽に食べられる量になっている。だから好きなだけ食えば良いのにと疑問を投げ掛けると、永栄はふくれたような顔で俺を見上げる。
「もう、男の子の底なし胃袋ってこれだから! 女の子は2つ3つ買ったら、もうお腹一杯なんですー」
驚いた。俺なんて、そんな量では、腹の足しにもなりはしないのに。
「そうなのか?」
「そうなんです。それに、あんまり食べると太るし」
真顔で頷く永栄が付け加えた言葉に、少しうんざりした。
「何で女は、そんなに太る事を気にするんだよ……」
大して太っていない女子でも、口を開けば太る太るとそればかり。食べている時にまで言うから、こっちまで飯が不味く感じて嫌だ。
「……あのですね小鳥遊先輩、男の人と女の子とは、違うんです。女の子はね、ほんっとうに! 太りやすいんですよ。やせてる子でも、ちょっと食べすぎが続けば、あっという間におデブさんです」
だからいつでも気にしなきゃ駄目なんですよ、と言う永栄は、少し苦笑気味だった。
「先輩の言う事も分からなくはないですけどねー……口を開けばダイエット、ってのもどうかと思うし、言う子に限ってカロリー摂りすぎてたりするし」
「そう、だからうざい」
「でしょうね。けど、本当に大変なんですよ、体型維持するの。大体、太ってる子を男子が好まないから、女子は必死で太るまいとするんです。女子だけのせいにしないで下さいな」
真面目に、けれど最後はおどけた調子で訴える永栄は、それ以上意見を押しつけないだろう。嫌なものは嫌、そう言われたらまあいいや、そんな雰囲気を感じる。
「……男に好かれる為に必死で言い聞かせてる、と。すげえ努力だな」
だから、1歩下がった物言いを心がけた。すると、永栄もまた、やんわりと答えてくれる。
「ですよー。健康の為だったりもします。私は時々、えい! って食べちゃう時、ありますけど」
「じゃあ、今日をその日にしたら?」
軽い口調で提案してみると、永栄は少し考えて、にっこり笑った。
「そうします。私結構食べる方だし、先輩をびっくりさせちゃいますよ」
「出来るもんならどうぞ」
冗談交じりに言って、自然に笑顔を返す。それを見た永栄が少しだけ笑顔を崩したが、直ぐに元に戻った。気を取り直し、2人で出店を見るのを再開する。
一通り出店を見て回った後、永栄は、まずたこ焼き屋に突撃した。
「おじさーん、たこ焼き特大1つ! 焼きたてが良いです!!」
「はいよ、500円なー」
言いながらたこ焼きをひっくり返すおっさんと、財布を出す永栄を見て、呆れて言う。
「特大かよ。あれこれ食べるんじゃなかったのか?」
「へ? これ、小鳥遊先輩の分ですよ?」
「は?」
目を丸くした男女が2人、きょとんと顔を見合わせているのがおかしかったのか、おっさんが吹き出した。
「仲良いな、あんたら。けど兄ちゃん、ここは男が奢るとこじゃないか?」
「えーと……」
「あ、良いんですよ。これ、お礼なんです」
言いながら500円玉を手渡し、代わりに丁度焼き上がったたこ焼きを受け取った永栄は、首を傾げながら俺にそれを差し出す。
「ほら先輩、今日付き合ってくれた分のお礼ですよ。まずはお礼からでしょ?」
「……ああ」
そういえば、そんな事言った。冗談のつもりだったんだが、本気に受け取られてしまったらしい。
「え? あれ? 違いましたっけ?」
「いや、違わないけど……いい、自分で払うよ」
おっさんの言葉を気にしたわけじゃないけどな、と言いつつ財布を取り出そうとすると、永栄に押しとどめられた。
「何でですか! お礼だから良いんですって。小鳥遊先輩が来てくれて、私、本当に嬉しかったんですから!」
「…………」
その瞬間の笑顔を、どう表現したら良いだろう。
いつも見せている屈託の無いものとは全く違う、それ。柔らかく、何かを愛おしむようでいて、どこか寂しげで、大人びていて。矛盾した色をはらみながらも不思議と調和したその笑顔は、目の前のよく知る筈の少女を、全く知らない女性に見せた。
……女の笑顔なんて、作り上げられたものだって、よくよく知っている筈なのに。笑顔の裏でどんなぞっとする事でも平然と考えられると、分かっているのに。
綺麗だな、と。その時の俺は、素直にそれだけを思った。
「……じゃ、ありがたくいただく。ほら、永栄の買いたいもん買ってこい」
「もっちろんです! 私達のお祭りはこれからですよ!!」
元気よくそう言って小走りに次の店へと移動する永栄は、よく知る後輩の姿だ。その事にどうしてかほっとしながら、後から着いていく。
その後の永栄は、手当たり次第としか思えない買いっぷりだった。出店のメニュー、全て網羅したんじゃないだろうか。はしゃぎすぎだ。
「うー……」
案の定買い過ぎだったらしく、複数の戦利品を傍らに残し、永栄は石のベンチに座ったまま、腹を押さえている。
「入らないかも……」
「かもじゃない。女は男よか食えないんだろ」
呆れながらそう言って、俺は食いさしの芋スティックに手を伸ばした。
「あ、ちょっ」
「俺も食ってやるから、ほら、頑張れ。残すのは勿体ないだろ」
言いながら、口に放り込む。たこ焼きの他には焼き鳥しか買っていなかった俺は、まだまだ胃に余裕があった。
「うう……何か悔しいぃ……」
「無計画に買った永栄が悪い。食った分は金出すから」
言いつつ、更に芋スティックをもらう。微妙な塩味が地味に気に入った。
「え、それは良いですよー」
「遠慮すんな、俺も流石にただ食いは気が引ける」
言いつつ、適当に野口さんを2枚引き抜く。出店は高い。これでも足らない位だろう。
「ほれ」
「な、なんかすいません……」
戸惑った顔で受け取った永栄に肩をすくめ、その後は2人でひたすら消費していった。部活で演奏している曲について語り合いながら食べてたら、あっという間に減っていく。
永栄は楽器の扱いを習得するのには時間がかかったが、音楽のセンスは部内でも頭1つ抜けている。彼女との音楽談義に夢中になっていた俺は、手元をろくすっぽ見ずに食べていたのだが……
「あ」
「ん?」
ふと食べ物とは違う柔らかい触感を感じて視線を落とせば、最後の1個を取ろうとしてた永栄の手に触れていた。
「あ、わり」
そう言って手を引こうとするより先に、熱いものに触れた時の様に、ぱっと手を引っ込められる。
「……永栄?」
顔を見れば、こっちが狼狽する程に動揺していた。目をうろうろさせ、口は開閉しつつも言葉が出てこない。心なしか頬が赤く目が潤んでいるのを見て、俺は慌てて口を開く。
「ちょ、おい、泣かなくて良いだろう!? 悪かった、最後の1個まで取らねえよ!」
「……ち、違います! 泣いてませんっ!」
慌てた様子でごしごしと目を擦る永栄。手を離せば、余計に目が赤くなっていた。
「あーあ、馬鹿……」
言いながら、ペットボトルのお茶を少しハンカチに染みこませて渡す。冷やせと目で告げると、永栄は大人しくそれに従った。
「すみませんー……」
「ま、永栄がドジなのは今更だ」
「うう、言い返せないのが悔しい……」
恨めしげな目をハンカチ越しに向けてくる後輩に苦笑を返し、さりげなく目を逸らす。
——何なんだろうな、今日は。
今まで、こいつの恋心を知ってて、何も思わずスルーしてたというのに。ただの先輩として、ごく普通に接してきたのに。
先程の笑顔や、ついさっきの頬を染め動揺しきった顔。今、ハンカチで目を押さえつつも最後の1つを頬張る、幸せそうな顔。
そのどれもが俺の平静を揺さぶるから、どうにも直視できない。
「何かそうやって頬張ってると、リスみたいだぞ」
「動物ですか! でもリスなら良いです」
「違った、スナネズミか」
「うわっ、それは嫌な例えですね!」
動揺した事がバレるのが嫌で、軽口を叩いて誤魔化す。それでも、酷いと言いつつ楽しげな永栄の声が気をそぞろにさせるから、ますます自分が分からない。
その時、人の流れが一方向へと定まった。時計を見ると、8時15分前を示している。
「お、そろそろ花火か」
呟くと、永栄がばっと顔を上げた。
「えー! 食べた後に金魚すくいとか輪投げとかしようと思ってたのにー!」
「まだ15分あるし、行けば良いだろ」
そう提案すると、甘いなあと言わんばかりに、永栄は大きくゆっくりと首を横に振る。
「花火は場所が命ですよ。今から急いで行ったって、ベストポジを確保できるかどうかです。金魚すくいの為に花火を中途半端に見るなんて、先輩は良くても私は嫌です!」
「はいはい」
情熱に燃える後輩をあしらい、立ち上がって手早くゴミをまとめる。手伝ってからぴょこんと立ち上がった永栄と共に、花火の上がる所からより近い場所へと向かった。
俺が中学の時に行った時よりも、祭りは集客力を上げていたらしい。あの頃は5分前に行ったって余裕だったのに、15分前の今、人は何列にも並んでいた。
「うわー、これじゃ見えないー!」
ぴょこぴょこと跳ねている永栄は、女子の中でもちびだ。それなりに背丈のある俺でさえ、首を伸ばさないと厳しいのだから、全く見えないだろう。
「これはまあ、どうしようもないな」
「ええー!」
泣きそうに顔を歪める永栄に、苦笑する。花火が見えないのは嫌だと駄々を捏ねる様子はまるで小さな子供だけど、不思議とうざったくはなかった。
「しょうがないな、一か八かに賭けてみる?」
「へ?」
不思議そうに見上げてくる永栄の手を取り、人混みの間を縫って進む。花火から離れるような移動だが、永栄は文句1つ言わなかった。
人混みをすり抜け、森の中へと入っていく。曲がりくねった道を通り、辿り着いた場所を見て、俺はちょっぴり得意な気分になって頷いた。
「よし、ここはまだ未開拓だったか」
「え、ここって……」
永栄が驚いた様に瞬くのも無理は無い。この開けた場所から花火会場まで視界を遮る物が一切無い上に、不思議と花火会場から近いのだから。
「小学生の頃、ダチと探検してて見つけた場所。花火もばっちり見えるし、音も遅れない。誰にも見つかってなかったみたいだな」
言葉通り、ここには見渡す限り、人っ子1人いない。あの頃のダチは知ってるが、他の奴はまだ見つけてないって所か。見つけてたら、絶対ここに陣取ってるだろう。
俺の説明をぽかんとした顔で聞いていた永栄が、急にクスクスと笑い出す。
「いきなり何だよ?」
「男の子って、秘密基地とか好きですよねー。小鳥遊先輩、今、すっごく楽しそうな顔してますよ? それこそ、小学校の男の子みたいです」
「……うっさいな」
久々に秘密基地のような所に来て、子供心を思い出し、少々浮かれていた。それを指摘されて気恥ずかしくなった俺は、永栄の髪をぐしゃぐしゃにしてやった。
「わっ、何するんですか!」
「折角連れてきてやったんだぞ、素直に感謝しろよな。それにほら、始まるぞ」
俺の言葉に重なるように、最初の一発が打ち上がる。赤、青、橙。順に開く打ち上げ花火が、腹に響くような音と共に夜空に開いた。
「わあーっ、本当だ、音もあんまり遅れませんね!」
乱れた髪を直す事も忘れて、永栄は花火に見惚れている。嬉しそうに綻ばせたその横顔は妙に可愛くて、不意にどきっとした。
「な、不思議だろ」
「はい」
それ以上何も言わない永栄は、花火に夢中になっているようだ。目をキラキラさせて花火を満喫している彼女にそれ以上話しかけず、俺も花火に視線を向ける。
しばらく、場は花火の音と、虫の音だけが響き渡った。人気の無いこの場所は、下手に他人の話し声も聞こえないから、花火だけに集中出来る。だからだろう、互いに一言も言わず、夜空を照らす色とりどりの華と響き渡る音を、五感全てで楽しんだ。
やがて、花火はクライマックスに向け、いっそう夜空を派手に彩っていく。1つ1つの花火も大きく豪華で、時折花火会場から歓声が上がっているのが聞こえた。
そして始まった、スターマイン。夏祭りの終わりを飾るそれは、華々しくも力強く、色とりどりの光を夜空に刻んでいく。
目で追いきれない程の華々から目を逸らさないまま、俺は呟きを落とした。
「良いのか、言わなくて」
隣から、小さく身動ぎする気配を感じる。それでも視線を落とさず、俺は独り言のように続けた。
「言わなくても、明日からの俺の態度は変わらねえぞ」
「…………」
永栄が、無言で頷くのが分かる。流石にこいつも、それくらいは分かっていたか。
この花火が終われば、夏祭りが終わる。そうしたら俺は、この場所から夏祭り会場まで永栄を連れ帰り、鳥居の所で別れるつもりだ。そうして、俺達の夏祭りも終わる。
——そしてそれは、俺達の今までの関係が終わる事も、意味するのだ。
俺がこの場所に連れてきた理由の1つに、それもあった。人目に付かない場所ならば、永栄も言いやすいだろうと。人混みの中振られるような羽目にならないようにと、俺のささやかな気遣いだった。
それに気付かない永栄ではないだろうに、今もその言葉を口にしない。言わなくたって、それと分かる誘いをした時点で、これが最後のチャンスで、言っても言わなくても、俺がこいつから離れていくのは、分かっているだろうに。
「良いのか? 言わないなら、帰るぞ」
これが最後。そんな意思を乗せつつもう1度訊くと、永栄が小さく笑った。
「……小鳥遊先輩、勘違いしてますよ」
「え?」
思わず視線を向けると、永栄は見た事の無い不思議な笑みを浮かべて、俺を見ていた。
「私、今日は本当に、小鳥遊先輩と夏祭りに来たかっただけなんです。……これが、最後だから」
大学は流石にばらばらになるでしょ、そう言って永栄はまた笑う。
「最後って……、来年もあるだろ」
俺は今、高2だ。来年まで永栄と共に、トロンボーンを吹く。その期間を残して何故今、と不思議に思う俺を見て、永栄は苦笑を滲ませる。
「先輩、来年は受験でしょう? 受験生を私の我が儘に振り回しはしませんよ」
ここでも、永栄らしいさりげない気遣い。今まで気楽さを与えていたそれが、何故か今、酷く苛立ちをかきたてた。
「ふーん。で? 俺がどう受け取るか分かってたんだろ。いいのかよ、それで」
少し荒い口調で訊くと、永栄はまた、夏祭り会場で見せた、綺麗な笑顔を浮かべる。
「小鳥遊先輩。前に私の事、他の女と違って小狡くないって言ったの、覚えてます?」
「……ああ」
永栄が高校に入ってからの事だ。割と俺が永栄に構う訳を瀬良田に聞かれて、それを挙げた。確かに、永栄もいた気がする。
「あれ、勘違いです。私も女ですから、ちゃんと狡さは持ってるんですよ。その狡い私がね、今日のこの状況を作ったんです」
「……どういう意味?」
妙に落ち着かない気分で、尋ねる。今まで経験した事無いこの状況に、俺の処理能力が限界に近付いていた。
「だって、答えなんて分かってるじゃないですか。小鳥遊先輩、ずっと前から私の気持ち、気付いてたでしょ。それでも何も言わない時点で、結果なんて分かってます」
でも、と言って、永栄は花火に視線を戻す。丁度、柳と呼ばれる、長く尾を引く金色の花火が開く所だった。
「……それでも、先輩の口から、答えを聞きたくなかったんです。このまま何も言えずに、縁を切られる方が良いかなって」
ほら、狡いでしょう? そう言う永栄の、花火に照らし出された笑顔は、泣き顔に近かった。
「でも、もう気持ちを隠して側にいるの、限界でした。だから、最後に、カップルみたいに、2人で夏祭りに行きたかったんです。先輩、先に告白したら、来なかったでしょ?」
「ああ」
そのつもりがあると悟っているのと、はっきりとその意思を告げられているのとで、俺は線を引いている。永栄が想いを告げてからこれに誘っていたら、俺は断った。ただ夏祭りに誘うから、意志を告げるつもりなのだろうと、頷いたのだ。これが最後、と。
「だから、夏祭りを楽しもうと思いました。最初から言わないつもりだったんです。最後にこうして思い出を作れれば、それで十分ですから。こんな良い場所に連れてきてもらって、もう大満足ですよ」
永栄がそう締めくくった時、丁度最後の特大花火が夜空に咲いた。その残像が完全に消えるまでじっと花火を見つめていた永栄は、ようやくその視線を俺に戻し、居住まいを正す。
永栄の笑顔は、普段の無邪気なものとはまるで違った。隠し続けていた俺への想いを、はっきりと浮かべ。割と泣き虫なくせに涙を零しもせず、心から満足だと、その笑顔に気持ちを乗せて。永栄は、どこか寂しげで諦めた気配を漂わせながらも、本当にすっきりとした声で、言ったのだ。
「小鳥遊先輩、今日はとても楽しかったです。そして、今まであれこれ面倒見てくれて、本当に嬉しかったです。ありがとうございました!!」
そう言って下げられた永栄の頭を、俺は黙って見つめた。どう言われても返す言葉はたった1つだった筈なのに、それがどうしても口から出てこない。
「…………」
永栄は何も言わず、頭を下げたままだ。俺がそれを言う時に、顔を見られたくないのだろう。早く言ってやらねばと思うのに、やっぱり言葉が喉でつかえる。
——俺は今日、どんな気持ちで、この夏祭りを過ごしていただろう。
今までも、文化祭や体育祭にかこつけて、こんな誘いをする女子はいた。俺はそれに付き合ってやりながら、うんざりした気分を隠すので精一杯だった。面倒だ、ただそれだけを思って、告白まで辿り着いた時には、解放されたような気分だった。
それに比べて、今回は。
待ち合わせの場所に、階段を駆け上ってきた永栄。心の底から夏祭りを楽しみにしていたのは、直ぐに分かった。大はしゃぎしながらも、俺への気遣いを忘れず。2人で楽しむ、という事に、力の全てを注いでいた。
最初は付き合ってやる、なんて斜に構えた態度を取っていた俺は、知らず知らず、こいつと一緒に、夏祭りを満喫していたんだ。
……ああもう。俺は、馬鹿なんじゃないだろうか。
今更。永栄がもう気持ちに区切りを付けただろう、こんな終わりの時に。ここまでこいつに言わせた今になって、何を今更と思うのに。
何で、今になって、こんな事を考えているんだ。
こいつと一緒にいて、何年だ? 1年の間は空いたが、もう2年以上だ。それなのに、何で、考えもしなかったんだ。
——俺が女を遠ざけていた理由の1つに、ずっと面倒を見ていたこいつを傷付けない為、というのがあった事。そして、その意味に。
思い出した。中学、俺が最後に夏祭りに来た時、あれはトロンボーンパートの面子とだったんだ。そして丁度、その中の1人である女子を振って、「パート仲間のままでいてくれ」と告げたばかりだった。
既に俺の下校路で必ず後ろにいるような半ストーカーだったそいつは、あろう事かまだ1年の永栄を逆恨みしたらしい。彼女がいるせいで振られたと、永栄をいじめていた。
それまで全く気付かなかったが、夏祭りの日、永栄がその女に話しかけられた後、始終俯きっぱなしで、俺に1度も話しかけてこなかった時に、全てを察した。
だから俺は、恋愛感情を持って俺に近付いた女子全てと、縁を切るようにしたんだ。
——永栄をこれ以上、傷付けない為に。
「はあ……」
そんなつもりはなかったのに、溜息が漏れた。自分に対するそれに永栄の肩がびくりと震えるのを見て、俺はますます自己嫌悪に陥る。
答えなんて、もうずっと前から出ていたんじゃないか。つまらない自分の思い込みと偏見で誤魔化して、変に格好付けて。部活でいつも永栄の後を目で追ってたのも、面倒を見ていたのも、先輩としておっちょこちょいから目を離せない、なんて理由を付けて。
——結局、自分の気持ちに気付かないふりで側にいたのは、お互い様だったってわけだ。
「あー……その、な。永栄」
「……はい」
小さな声。嫌でも過去の夏祭りを思い出して、今度は心の中で溜息をつく。
「どのみち、これで俺と永栄の今までの関係は、変わっちまう」
「……はい」
顔を見なくなって分かる。今永栄は、必死で泣くのを堪えている。俺がめそめそ泣く奴が嫌いだと、知っているから。最後だと分かっているのに、そうやって俺を気遣うのだ、永栄は。
——今からでも、間に合うだろうか。却って、永栄を傷付けてしまわないだろうか。
そんな不安に駆られながら、どう言えば伝わるものかと頭を掻きむしる。
「けどな……その、これから全く違う関係を作っていく、という選択肢も、あるんだが」
「……え?」
永栄が僅かに顔を上げる。上目遣いに見上げてくる潤んだ目を直視出来ず、俺はそっぽを向いた。
「だからな、その……縁を切る、以外の選択肢を選ぶ、ってのも……ああもう」
もう1度、頭を掻きむしる。断る言葉とか他人との距離を取る言葉とかならいくらでも出てくるってのに、どうしてこういう大事な時に限って、上手く言えないのだろうか。
「あの、先輩、無理しなくって良いですよ……? 部活で気まずくなるのが嫌なら、私、やめますから」
ほら、永栄が誤解した。今まで何度、期待させ、諦めさせてきたのだろう。今更期待など持つまい、そんな感じが、微かに震える声に滲んでいる。
「いや、そうじゃなくて……くそっ」
1度目を閉じて、深呼吸した。つまらないプライドに拘ってどうする。ここまで永栄に言わせておいて1人だけ逃げるのは、みっともないにも程がある。
腹を決めて、永栄に向き直った。唇を引き結び俺を見上げる彼女に、ずばり言う。
「永栄、俺はお前が好きだ」
永栄の目が、大きく開かれた。こぼれ落ちるんじゃないかと心配になる程見張られた目は、瞬きもせずに俺を凝視する。
「え? 小鳥遊、先輩? 今、何て……」
「……もう1回言わせる気か?」
言いつつも、何度でも言う覚悟は決めていた。こうして俺の言葉を否定的に受け取るのは、俺の今までの態度のせいなのだから。
「俺は、永栄が好きだ。だから、その……今まで通りの関係、じゃなくて、その……付き合って、くれたら……って、おい!」
けれど、やはり気恥ずかしくて、どもりつつ言葉を重ねていた途中で、相変わらず見開かれた永栄の目から、ぼたぼたと大粒の涙が溢れ落ちるのを見て、俺は慌てふためいた。
「泣くなよ! 何で泣くんだよもう!」
「先輩の、せい、ですぅ! な、んで、今、そんな、事、言うんですかぁ!」
しゃくり上げながら言われて、うっと言葉に詰まる。それをつかれると非常に痛い。
「ええと、それは、その」
「本当に、もう、いいん、です! 同情、とか、そんなの、いらなくてっ」
「違う違う! そうじゃない!!」
やっぱり誤解されたか。慌てて否定する。顔を覆う永栄の手をそっと取って、真っ直ぐ見つめた。
……ヤバい。意識してしまうと、この上目遣い、直視するのが辛い。妙に体温が上がっていくのを感じつつ、必死で言葉をひねり出す。
「同情とか、そんなんじゃねえって。俺がそういう事しねえのは、永栄も知ってるだろ? その、何で今更か、ってのはだな……」
続く言葉につっかえる。けど、それを見た永栄がまた涙を零すから、手を伸ばしてそれを掬い取りつつ、格好悪いにも程があるそれを、暴露した。
「……俺が他の奴に見向きもしなかったのは、ずっと永栄が好きだったからで、けど、それは全く自覚してなくて……今日、ここで、やっと自覚したんだよ」
「え……」
永栄がまじまじと見上げてくるが、もう限界だった。口元に手を当てて、顔を背ける。
「頼む……情けないのは分かってるから、もう1度言うのは勘弁してくれ……」
それこそ情けない言葉を漏らす俺の顔は、多分真っ赤だ。心臓が煩くて、顔が熱い。永栄がそれを凝視しているから、ますます体温が上がって、おさめる事も出来ない。
「……小鳥遊先輩?」
「……何だよ」
ややぶっきらぼうになってしまった俺の返答を聞き、永栄がひょいと俺の顔を覗く。
「暗くてよく見えないんですけど……先輩、もしかして照れてます?」
「もしかしてじゃねえよ! ここまで言わせといて何を聞く!?」
自棄になって八つ当たると、永栄がクスクスと笑い出した。
「そこで笑うか!?」
「だ、だって先輩、何か可愛い……」
「知るかよ! あーもう、なんでこんな……!」
意味もなく頭を掻きむしる俺を、永栄はクスクス笑いながら見つめていた。いたたまれない思いを堪えていると、永栄がふと笑うのを止めた。
「……小鳥遊先輩。私、告白も出来ないへタレですよ? 先輩の嫌いな、弱くて狡い女ですよ? 良いんですか、本当に?」
その声は真剣だったから、俺も何とか自分を立て直して、真面目に頷く。
「良いんだよ。つーか、そういうのひっくるめて、俺は永栄が好きなんだ」
「今まで気付かなかったけど、ですか?」
「それは言うなよもう……」
からかうような言葉に、また顔が赤くなるのを感じた。それを見てまたくすっと笑うと、永栄は背筋を伸ばす。
「へたれだけど、やっぱり、もう1回だけ、チャンスを下さい。……こうならないと言えないなんて、本当に良いのかなあ」
「良いってば。言えよ」
本当は、ずっと言いたくて仕方なかったのだろう。それなのに諦めさせてしまったその言葉を、永栄はようやく口にする。
「小鳥遊先輩、好きです。私と、付き合って下さい」
はっきりと口にされて、ようやく俺の気持ちも、すとんと落ち着いた。そうなってしまえば、何で気付かなかったのか分からないくらいで。自然と、言葉が口から出る。
「俺も、永栄が好きだ。付き合ってくれ」
「……はい!」
曇りなんてどこにもない、眩しいくらいに輝く笑顔で、永栄は頷いた。俺も笑顔を返して、ここに来た時と同じく、けれど違う意味合いを持って、永栄の手を取った。