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幸福な世界の終わり

作者:

 カーテンを開けると日が差し込み、ひとし(仮)は目を細めた。

 一日の始まりに、日光を浴びるのが日課だ。

 『まるで光合成みたいねと彼女は笑った』という表現は歌曲っぽいが、そのように表現する必要はとくには無い。

 太陽は頂点に近い位置にあり、もう既に朝ではないのだが、この絵面だけを見ると朝っぽいので不思議だ。

 昨日の就寝時間は深夜30時、言い換えると本日朝6時。

 その様な昼夜逆転生活を送るのにも理由がある。

 職業柄とか、病気とか、どうしようもなく人は生活習慣を狂わせてしまうのである。

 ひとし(仮)の場合のどうしようもない理由とは、人命救助である。

 傷ついている人がいたら助けなくてはならない、そこはもちろん見返りを求めているのも事実だが、それでも助けられる人間は助けたいのだ。

 目の前に傷ついたナイト(職業)がいたら、それを助けてやるのがビショップ(職業)たる自分の務めだ。

 次元がなんだ、人を助けるのにそんなのは壁でもなんでもない。

 まあ、つまるところネトゲやってたら生活サイクルが狂ったのだ。

 さらに言うと昨夜はずっとメンテだったので、ネトゲはやっていない。

 ヒマだったのでテレビショッピングを見てNASAが開発したなんとかクリーナーに感動したり、昨日一日何があったかを朝一番に伝える番組を見たりして寝たのだ。

 仕方ない、仕方ないのだ、人間なるようにしかならないのだ。


 いつまでも、日の光に目を細めるイケメンごっこをしていても仕方が無いので、ひとし(仮)は自室から出て、食事をとることにした。

「おはようございます妹君」

「こんにちは」

 ひとし(仮)はリビングのソファーに座る妹君にジト目で睨まれた。

 おはようございますが許されるのは正午までがシスター曰くである。

 メリケンではグッドモーニングは正午までらしいのでそれにならったらしい。

 もちろん、12時前におきたところでシスターの機嫌が良くなるというわけでもない。

 以前「このわがままジュリエットが」と言ったら、射殺すという比喩がぴったりの目をされたので以後仕様は禁じた。

 妹君が用意した朝食(ひとし(仮)的には起きてから一時間以内の食事は全て朝食扱いである)は冷蔵庫に入っている。

 いつ起きてくるかもわからない愚兄の食事はすぐにしまわれることにこの家ではなっている。

 食事を取り出して、食卓に着くと妹君が物言いたげにこちらを見ていた。

「なに?」

 ご飯を口に運びながらひとし(仮)は聞いた。

「働け」

 ノーモーションで日本刀を心臓に一突きされた感じだった。

 痛い痛すぎる。十万石饅頭もびっくりだ。

 しかしひとし(仮)も百戦錬磨である。

 日本刀で刺されたらくつければいいのである。

 居合いの達人が切った野菜はくっ付ける事が可能である、と漫画で読んだ。

 俺は野菜だ、野菜は俺だ。俺があいつであいつが俺なんだ。

 ひとしの心にあった傷口は見る見る塞がっていった。

「嫌だ」

 知ったことかとドヤ顔である。

 この間わずか一秒。

「ねえ、兄さん。三大義務って知ってる?」

「ドグラマグラと虚無への供物と黒死館でしょ?」

「それは三大奇書。三大しか合ってない。ついでに三大美女でも、三大テノールでも、ましてや三大バックブリーカーでもない。

 遠い、判りづらい、つまらないそんなボケはやめて」

「衒学ライクな突っ込みありがとう」

「それで、わかってるでしょ、三大義務。勤労、納税、教育この三つ」

「そうけえ」

「そうけえ、じゃないでしょう。兄さん。勤労ってあるの。憲法に書いてあるの、働きやなきゃいけない義務があるの!」

 憲法というのは基本法則なのだから、それはやっぱり義務なのだろう。

 働かなければならないというのはわかるのだけど、それが義務とか言われてしまうと、途端に途方も無いスケールになるような気がしてならない。

 人間誰しも何かに縛られていて、そうでなくては生きていけない。

 ひとし(仮)がそういうモノに対して用いる言葉は沢山あったけれど、要約してしまえば『くだらないなあ』

 そんなことを口にしようものなら血祭りにあげられるか、もしくは一週間パンの耳だけの生活を送ることになってしまう。

「妹よ。俺はお前さんに言いたいことがあるんだ」

 ひとし(仮)の雰囲気が変わった、ような気がする。

 妹君の眼差しは変わらない、怖い。

 おかしい、妹からの眼差しは暖かいものと古今東西決まっているのに、どうしてこんなに絶対零度なのだろうか。

「この日本という国のシステムにおいて、義務とされる納税、勤労。これは重要なんだ。そんなの小学生でも知っている。これが出来ない奴はクズだ、この国の末端に存在があるだけで、不実だ、不誠実だ。だがらこそ、俺はこう言わせて貰おう」

 もったいぶる様に一呼吸を置いてひとし(仮)が言った。

「それでも、俺は働きたくない!」

 漫画だったら後光が差し込んでるくらいはっきり言い切ってやった。

「それで?」

 妹君の剣呑な眼差しが刺さる。痛い。

 いくらいつものことだからって、ちょっとは俺の話に付き合ってくれてもいいじゃないか、と思う。

 どういい繕うか迷っていたひとし(仮)の前に、するっと色んなものを通り抜けて半透明のおっさんが現れた。

「そうだよ、ひとし(仮)くん。

 日本国憲法が重要なんじゃないんだよ、日本国憲法が義務だって言ってることが重要なんだよ」

「というと?」

「父さんな、小早川秀秋みたいになりたいんだ」

 いろんな意味で、いいのかそれは。

「長いものには巻かれろっていうことか」

「うむ」

 透明なおっさんは厳格に頷いた。

 この透けているのはひとし(仮)の父。なんで透けているのかというと死んでるのである、召されているのである、幽霊である。

 ざっくりいうとぴゅーっと吹くなんとか的なヤツである。

 違いとしては、本人にも家族にもそれが受け入れられているところだ。

「というわけでだ、ひとし(仮)くん」

 もったいぶる様に一呼吸を置く様が息子にそっくりだった。

「働け」

「嫌だ」

 回答に要したタイムにラグはなく妹の時よりもさらに早くなっていた。

「……ひとし(仮)くん」

 あまりの早さに父はがっくりしていた。

「父さん、情けないね」

 やったのはお前だ。

「兄さん」

 ひとし(仮)と父のやりとりを生暖かいと冷たいの中間ぐらいの温度で見守っていた妹が口を開く。

 多分冷たい目を必死で押さえ込んでいたらそんな感じになったのだろう。

 怒気は全く隠せていない。だから怖いって。

 このタイミングで口を開いたあたり一番年下なのにトップの風格が漂っている。

「もし兄さんが働かないというのなら、兄さんのの部屋の出入り口、窓、全てに外側から木版を打ち付ける」

「お前、それもう殺人だよ!」

 罪状は逮捕監禁致死。

 動機は、いい歳して働かない兄に業を煮やして。

 刺殺とか撲殺とかじゃなくて監禁というあたりから酷い恨みのかほりがする。

「ワタシもう疲れたの、お父さんのところに行くか、ちゃんと仕事するかどっちか選んで」

 お父さんはここにいるよ、とかいえない雰囲気である。

 怒っているというよりか、悲しんでいるというか、もうここまでいくと嘆いているという感じである。

 妹君の深層風景では大雨の中で佇んでいるのだろうか。ちょっとハードボイルドだ。

「さあ、どうする?」

 透明な人がニヤニヤしている、やーいやーいとか、さっき即断されたのを根に持ってる感じがプンプンする。このおっさん小さい。

 しかし、そうと言われれば選択肢はひとつしかないのだが、このおっさんがいるのでそれを認めるのが非常に遺憾ではある。一体どうすればいいのか。

 そうは思ったところで、プライドを持ち続けて監禁生活しても無意味だ。

 俺は貴族だと嘯いても、ご飯を食べなかったら死んでしまう。

 取るものも取れずに、最後は糞尿を撒き散らし、オトウサン、オカアサン、生まれてきてごめんなさい、と。

 異臭に気付いた周辺住民が、妹を問いただすと、そこには汚濁まみれの肉塊が。

 泣き叫ぶ妹。そうかあのクズ兄貴が、無職の上に妹を強姦しようとしたのだとあらぬ誤解を事実とし、周辺住民の方々は遺体の隠蔽にかかるのだ。

 ありがとうごめんなさい、いいのよ気にしないで、あとは何とかするから、そう、あとのことは全てクソニートの自業自得とすればいい。

 ひとし(仮)がいかに悪辣で非道な鬼畜な男であったか、そしてそれが兄となってしまった悲劇。

 悪いのは奴だ、死人に口なし、そして彼は平成の上田馬之介と揶揄され続けるのだ、哀れ哀れ。

 ありがとう地元住民。持つべきは社交性、取るべきものはコミュニケーション。怖い、お隣さん超怖い。

「俺、急に働きたくなった。仕事探してくる」

 妹君は満足そうにうなづいた。透明なおっさんも同じく。妹君はいいが、父親はむかつく。

 残った昼ごはんをかき込みひとし(仮)は家を飛び出すのだった。



 /



 ひとし(仮)が家を出て向かった先は、職業安定所、俗に言うところのハローワーク。仕事がなければハローワーク。

 ショッカーだって職安に向かうのだからハローワークと言うのは相当のやり手であるはずだ。

「ねえ、ひーくん」

 ひとし(仮)の傍らに立つ彼女は、マスコットキャラであるアリス。

 ひとし(仮)の隣の家に住む幼なじみという設定であり、マスコットキャラといえばアリスという名前だと相場が決まっているのだ。なので慣例にならいそういうことになっている。

「ひーくんは、ここ、この前も来てたよね?」

「常連さ!」

 当たり前だが胸を張って言うべきことではない。

「俺だっていつも何もしてないわけじゃない、たまにここに来て俺って働く気あるんだぜアピールを妹にするっていう大切な仕事があるんだ」

 まあ、ようするにいつものことなのだ。

 いい年した兄が働かないことを、黙って見ている家族というのは、そうそういないのです。

 今回のように、怒られる。それから仕方なしに仕事を探してみる。探してみるだけで具体的には活動はしない。

 その後は、上記ループ、なのである。

 アリスは困ったように苦笑いを浮かべた。

「この悪魔城のことを知らない君のために、簡単に説明をしよう」

 ひとし(仮)はそれを無視して話を進める。

 なんか前にもアリスに説明したような気もするので知らないこともないだろうが、まあいい。

「まず目の前にあるこれが入り口だ。ただの入り口だと思うかもしれないが、無職の人間には違う。

 『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』無職の人間には入り口にこの言葉が見えるんだ。その為この中にいる人間は腐臭に満ちているんだ」

 ここに来る人間の半数以上は無職。そしてこの就職難の昨今であるので、その言葉に間違いは無い。ちょっと中二病ライクに言ってみたのが問題なだけだ。

 さらに中二病度を上げるのなら『そう、ここがもう既にダンテ(彼)が描いた以上の地獄インフェルノなのだ。歌劇(フィクションの世界)そのままにその先には煉獄プルガトリオが、さらには天国パラダイスがあるのだろうか。人生という名の叙事歌エピックが予定調和(シナリオ通り)に進むのか、自問する』になる。

「門を超えると受付があり、大体女がひとりふたりいる。こいつらが俺達が出会う最初の悪魔だ。奴らは俺達を違いなく見下している。『働くことも出来ないクズが。死ねよ』。薄っぺらい奴らの笑顔のしたからそんな本音が漏れ出している」

 ※被害妄想です

「それにも負けず、前に進む俺達の前に現れるのが、悪魔どもが対人間用に作った極悪拷問平気だ。一般的にはパソコンとか呼ばれるものだが、そんな生易しい代物じゃないんだ。奴らはわざわざ現実ってやつを見せつけるんだ。

 あのマシンを使えば求人が見れるわけだ。時期にもよるけど確かにそれなりの数の求人数っていうのはあるんだ。だけどその中を見てみるとわかる。

 有資格有資格有資格経験者経験者経験者。知識があればなお可とか優遇とか嘘つくなよ、リア充しか求めてねえだろ?と言いたくなること請負いだ。

 ついでにいうと求人の半数はデイサービスホームヘルパー介護士社会福祉士住宅建築工場。それらを取り除いてみたら何個有効な求人なんてあるんでしょうね!」

「ひーくん落ち着いて!」

「すまんつい取り乱してしまった」

 色んなものが渦巻いてこみ上げてしまったひとし(仮)をアリスが嗜める。

 被害妄想混じりだが、発言自体は大間違いではないので(正しくはない)、たぶん聞いても同情してくれる人は結構いると思う。

 でも、外で叫んでる人って恥ずかしいですね。

「そして、その後にはラスボスが待っている、ネオエクスデス的な魔群だ。求人票というやつは勝手にどうのこうのと出来るわけでは無いんだ。それを持っていって職員に申し込んでもらわなきゃならないんだ。

 こいつらがまたどいつも一様に人を見下してやがる。奴らは受付以上の立場だから、『ほうここまで来ましたか、だが奴らを倒したぐらいで調子に乗らないことですね。奴らは四天王の中でも最弱です』と思っているに違いない。

 そんな奴らに俺達は頭を下げなきゃいけないんだ、どうぞよろしくお願いしますと。その頭を奴らは土足で思い切り踏みつける」

 ※被害妄想の上に名誉毀損です

「怖い、恐ろしい、辛い、切ない、痛々しい、地雷原を駆け抜ける兵士も、砂漠を越えたバナージもここまでの経験はしていないだろう。そんな戦場を俺達はたった一人で駆け抜けなければならない」

 わけがわからないことになっているがとりあえず必死なのだ。

「とりあえずいつも通り、外で待っていてくれ」

 マスコットキャラは中には入れないので、アリスはいつも外で待っている。今回も同様である。

「うん、わかった」

 目が超頑張れと言っている。頑張れっていうと逆に辛いだろうから、口に出さないっていう心遣いを感じでそれがまた痛い。

「それでは行ってくる、悪魔城へ!」

 颯爽と踏み出す足先は輝いている、様な気がする。





 そんなこんなでハローワークから家に帰ったひとし(仮)であった。

「結論としては、駄目だったんだ」

 『す ま ん』とルビがふってありそうな感じだ。

「そう、残念だけど、そういうときもあるわね」

 時間が経って落ち着いたのか、文句を言ったことで溜飲が下がったのか妹君はすっかり落ち着き払っていた。

「大丈夫、ひとし(仮)くんは透けてないから」

 透けてる父がそう言った。ただ、笑えないギャグというものがあるということは知っておいて欲しい。

「まあ、今日で終わるわけじゃあないし。次は頑張るよ」

「うん、大丈夫大丈夫。兄さんならなんとか出来るよ」

 そんなに慈悲深いお言葉を投げかけないで頂きたい。優しい言葉はいろいろと痛い。

「兄さん?」

「ああ、ごめん、ちょっと疲れてるから部屋に戻るよ。ご飯は外で食べてきたから」

「うん、わかった」

 ひとしは逃げるように自室へと戻ったのだった。いつも通りにパソコンの電源をつけるモニタには、ひさしの邪悪な笑顔が浮かんでいた。

「計画通り」

 ひとし(仮)が少年漫画にあるまじきことをしでかしていた、主人公のような台詞を、口にした。

 どういうことか、数時間前のハローワークでの出来事を回想する。



「どうだった」

 外で待っていたアリスがひとし(仮)に尋ねた。

 その表情を見てうまく行ったのかとでも思ったのか、アリスの表情も明るい。

「ああ。奇跡的にそれなりに俺様がやってやってもいいっていう仕事があったぜ」

「うんうん」

「週休二日に、夏季冬季長期休暇もあり。給料もそれなり、もちろん未経験者も歓迎だ。さらには複数名の採用だ」

「うんうん」

「もちろん、担当者に電話してもらって確認も取った。どうやら事業所を拡大するから人員を増やすらしく、それなりの年齢で大問題のありそうな人間じゃなかったらら誰でもオッケーレベルという予想だ。ハローワークの奴によるとアレな会社ってわけでもないらしいからその辺も大丈夫だ」

「うんうん」

「そう言う訳でな」

「うんうん」

「何もせずに帰ってきてやったぜ!」

「なんでー!」

 そりゃもう盛大につっこんだ。つっこまずにはいられない。(性的な意味は無い)

「え、だってそりゃあアレですよアレ」

「アレって?」

「アレはアレとしか言いようが無いじゃん」

 どういうこと何言ってんのあんたと、アリスの目が語る。昔の人は言いました目は口ほどにものを言うと。

 何で俺はマスコットに詰問されなければならないのだろうとちょっと泣きそうになる。

「もっといいのがあるかもしれないじゃん。もうずっとこんな状態なんだから、今日も明日もそんなに変わんないわけだよ。違うかねアリス君?」

 キリッ!とかドヤッ!とかキラーン!とかシュピーン!とかどれでもいいけど、凄く自身に溢れている。言ってることは最低なのに。

「あっ、そ、そうなんだ」

 アリスはそんなひとし(仮)が本当にかわいそうで残念で、仕方ないとでも言いたそうだった。

 知らん、そんなことは知らん。



 そんな回想を終了し、ひとし(仮)は日常に戻る。

 パソコンのモニターに映る自分は雄雄しく、自画自賛してしまいたい。

 凶悪な怪物どもを倒し打ち払い、仲間と共に立ち向かうその姿は勇者そのもの。ただしモニタの中限定。

 今日もこうして、一日が終わるのだ。

 困った時は明日の自分に任せればいい。妹の思慮も、アリスの葛藤も、おっさんの……いや父は何も考えてないけど、そういうアレコレも明日の自分に任せればいい。たぶん、明日の自分は何とかしてくれる。

 人間は成長する生き物で今日より明日、明日より明後日の方が、凄いとかいうから、きっとより良くなるだろう。

 今日より明日は輝く、苦労は報われる、人生は素晴らしい

 モニタの中では特段似せてはいないひとし(仮)そのものであるキャラクタが、大量の怪物たちを西洋刀で斬り伏せている。久が手に入れたレア武器の試し斬り件ストレス解消、3Dで描かれた仮想世界の低レベルの怪物たちを虐殺しているのは時間の無駄でしかなく、なんだか滑稽だった。

 働きもせずに、部屋に篭り、一人で、ゲームの中で。

 ひとしはそんな自分が笑えた。



 /



 不思議の国のアリスの主人公は心を病んでいたという説がある。

 迷い込んだ不思議な世界は彼女の深層世界だったという話だ。フォークロアの類には後世の解釈から見ると側面というものがあり、それにより真逆の意味合いを持つものもある。

 不思議の国のアリスもその類であり、作者にその様な意図が実際にあったのかどうかは永遠に明らかになることは無いだろうし、どちらにしてもアリスが迷宮に迷い込んでしまったことには変わりはない。

 もしかしたら、ここも不思議の国の類で、自分も寓話のアリスと同様に迷い込んでしまったのだろうか。

 アリスはそんな風にふと思った。だとしたら単に同じ名を持つだけなのに酷い仕打ちだ。

 預かっている鍵を用いて、扉をあけるとアリスは、勝手知ったるとひとしの家に入っていく。

 正午を少し過ぎたこの時間であればリビングで食事をとっているだろうと、予想を立てていたが、実際そのとおりリビングにひとしはいた。

 十二畳ほどのフロア、野暮ったいデザインの薄汚れたソファー上にひとしが座っていた。

 視線は対面にあるテレビにあるが、特段見ているわけでもなく、心ここにあらずと固まっていた。

 招かれざる客であるところのアリスが侵入し、同一の空間に入ったところで、ひとしはなんの反応も示さない。そこにいることに気付いていない。

 アリスはそんなひとしをただ黙って見つめる。

 ひとしは少しして「やあアリス」と返したが、どこか焦点の合っていない浮いたような目だった。

「君がいてくれて助かるよ、主人公にはマスコット、しかも幼なじみ、そういったものが必要だろう?」

 目を閉じ、そうして小さく嘆息する、『いつものことだ』と。

「意味がわからないといわれても、そう言ったものなんだよ」

 ひとしが首をひねりキッチンのほうに向けて言った。そこには何も無い。

 恐らくはまたここにはいない妹に向けて言ったのだろう。


 あの日のことを思い出す。

 彼がこうなってしまったのは去年のこと。彼は唯一の肉親であった妹を亡くした。

 幸不幸を決めるのは当人であるから、外野がとやかく言っても仕方が無いことではあるのだが、誰かが彼の略歴を見た時にほとんどの人は彼のことを不幸だというだろう。

 物心付く前には母はこの世にはいなかった。男手一つで子供2人を育てていた父も、彼が中学に上がる頃に亡くなった。

 それから彼らは兄妹2人、手と手を取り合い、お互いを支えに生きてきた。

 幸いにも両親が残した財産には不足も無く、親戚の理解も得られ、燐家に住むアリスという同い年の少女とその家族も協力を惜しむことなく親身に接してくれたので、簡単ではなかったもののやっていけた。

 彼は多くの人の上に成り立った自分達が不幸である、なんていうのはけして認めようとはしなかったし、実際に充足した、幸福といっていい生活は送れていた。

 そうして彼ら兄妹は成人し、兄は通っていた大学を卒業し、一端の社会人なろうという、その時。最愛の妹は事故であっさりとこの世を去った。

 彼にとっては妹は世界の全てだったのだろう。妹を失った瞬間に彼の世界は終わったのだった。

 すでに終わってしまったものを、終わらないようにするにはどうすればいいのか。

 答えは不可能。ならばと彼が選んだのは終わっていないことにすればいい。

 妹がいる世界。何もかもがありえてしまう空想で作られた、排他的で完成された、限りある永遠の箱庭。そこで彼は暮らしている。

 まあ、何も難しい話では無い。単純な話だ。彼は既に壊れてしまった。それだけの話。

 「ひーくん」

 彼に届くその声は燐家に住む同い年の女の子ではなく、マスコットのアリスのものだろう。

 ひとしの世界は全てが嘘っぱちではなく。面白おかしく虚実が入り乱れている。

 その中でアリスは現実と幻想のちょうど中間のような形で存在していた。

 アリスのみがが、彼と現実の中で繋がっている。

 ひとしは救いを求めていない。何故なら彼はもう救われている。幸福というものを決められるのは自分。幸福のまま停滞し続ける彼は、幸福のまま終わりを迎えるのだ。

 救いたい人間が既に救いを必要としていないのだから、誰も救いは必要としない。

 故にこの物語はハッピーエンドだと決まっている。

「ほんと、笑っちゃうね」

 『HAPPY END OF THE WORLD』

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