前世は時計職人でしたが、今世は時計すら買えない貧乏令嬢です
「つまり、君はこの時計を直せると言うのかね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「絶対とは言えません」
目の前に座る立派な髭の紳士が、なんとも言えない顔をした。
わたしは気にせず、テーブルの上に置かれた懐中時計を持ち上げる。
銀製の立派な時計だ。
表面には蔦のような模様が彫り込まれ、蓋の内側には若い女性の肖像画が入っている。
どう見ても高級品。
わたしの家なら、これ一個を売れば半年くらい肉料理が食べられるかもしれない。
いや、さすがに半年は言い過ぎか。
なら、三か月くらい。
「分解しても?」
「……壊さないかね?」
「もう壊れてるじゃないですか」
「それはそうなのだが」
紳士は困ったように眉を下げた。
隣では、わたしをここへ連れてきた青年が必死で笑いを堪えている。
腹が立つ。
そもそも、こんなことになったのは全部この男のせいなのだ。
わたしの名はエルナ・バルシュミット。
十二歳。
地方の貧乏騎士爵家に生まれた四女である。
そして前世は、東京都内の小さな時計修理店で働いていた、四十六歳の独身女性だった。
時計職人、と名乗るほど格好のいい人生ではない。
腕時計の電池を交換し、バンドの長さを調整し、たまに部品がなくて頭を抱える。
そういう毎日だった。
仕事は好きだったと思う。
お金にはならなかったけれど。
結婚する機会は何度かあったような気もするが、気がつけば四十六歳になっていた。
そしてある冬の日、店の前で雪かきをしていて転倒。
運悪く頭を打ち、そのまま人生を終えた。
我ながら、あまり劇的ではない。
転生したこの世界は魔法がある。
空を飛ぶ船もある。
炎を出す杖もある。
なのに、なぜか時計技術は中途半端だった。
庶民は鐘の音で時間を知る。
裕福な商人や貴族になると置き時計を持ち、さらに金持ちになると懐中時計を持つ。
ただし、非常に高価。
しかもよく壊れる。
わたしから見ると、構造そのものは前世の古い機械式時計と大きく変わらない。
違うところといえば、一部に魔石が使われていることくらいだ。
つまり何が言いたいかというと。
この世界に生まれ変わって十二年。
わたしは、とても困っていた。
時計を触りたい。猛烈に触りたい。分解したい。油を差したい。
摩耗した部品を見つけたい。歯車の噛み合わせを調整したい。
しかし、我が家には時計がない。
貧乏だからである。
壁時計すらない。
朝は鶏が鳴けば起きる。
昼は太陽を見る。
夜は暗くなったら寝る。
健康的だった、そして退屈だった。
そんなわたしが今日、なぜ王都でも有数の高級喫茶店で、知らない大金持ちの懐中時計を分解しようとしているのか。
話は三日前に遡る。
「エルナ、頼みがある」
そう言って我が家を訪れたのは、アルベルト・クラインという二十一歳の青年だった。
近所の領地を治めるクライン子爵家の次男坊。
背が高く、金髪で、青い目をしている。
顔立ちは非常に整っている。
性格は少々残念だ。
わたしとは遠い親戚にあたり、昔から時々家へ遊びに来る。
主な目的は、我が家の兄と狩りに行くことである。
ちなみに、わたしの評価では信用度七十点くらいの良い人ではある。
「嫌です」
「まだ何も言ってないだろう」
「アル兄様の頼み事は大体ろくでもないので」
「酷くないか?」
「今までの積み重ねでは?」
アルベルトは黙った。反論できないらしい。
わたしは縫い物を続けた。
今直しているのは兄のシャツだ。
肘が破れている。
これで三回目なので、布が足りず、別の古着から切り取った布を当てている。
我が家では服は家族間を旅する。
最初は長兄。次に次兄。その次は従兄。そして最後に弟。
限界が来たら雑巾になる。
布の人生を完全に使い切る家である。
「実は今日、王都へ行く予定があるんだ」
「はい」
「一人で行くのが寂しい」
「成人男性ですよね?」
「そういう問題ではない」
「どういう問題なんですか?」
「もっとこう、華やかさが欲しい」
意味が分からない。わたしは針を布に通した。
「姉を誘ってください」
「君の姉上たちは、俺を見ると結婚相手を紹介しようとしてくるから嫌だ」
それは分かる。
我が家の姉たちは世話好きである。
世話好きというか、他人の人生に手を出したがる。
長姉などは近所の独身男性と独身女性を片っ端から結びつけようとし、最近では村の仲人婆さんから警戒されている。
商売敵だと思われているらしい。
「で、わたしを?」
「王都で昼食を奢る」
針を止めた。
「何が食べられますか?」
「早いな」
「いいから何を食べさせてくれるんです?」
「肉かな」
「具体的に」
「牛肉の煮込み」
「ほかには?」
「焼きたての白パン」
「続けて」
「蜂蜜を使った菓子」
わたしは立ち上がった。
「お母様に聞いてきます」
「君は本当に分かりやすいな」
うちは貧乏だ。
騎士爵といえば聞こえはいいが、実態は小さな土地と古い屋敷を持つだけの農家に近い。
もちろん、飢えてはいない。
畑がある。
鶏もいる。
山へ行けばキノコも採れる。
ただ、砂糖は高い。
牛肉も高い。
白パンに至っては贅沢品である。
普段食べているのは、色の濃い固いパンだ。
スープに浸せば美味しい。
そのまま食べると顎が疲れる。
だから、王都へ行く話に乗った。
決して簡単に食べ物で釣られたわけではない。
そして三日後。
わたしはアルベルトと王都へ来た。
最初は楽しかった。
大通りを歩き、店を見て回り、昼には約束通り牛肉を食べた。
柔らかかった。
肉とは、あんなに柔らかくなるものなのか。
家で食べる肉は噛めば噛むほど味が出る。
ということにしているが、単純に固い。
食後には蜂蜜と木の実を使った焼き菓子まで食べた。
この世に思い残すことはない。
そこまで考えたところで、アルベルトが言った。
「もう一か所、付き合ってくれ」
嫌な予感がした。
連れてこられたのは高級喫茶店。
そこで待っていたのが、立派な髭の紳士だった。
名をヘルマン・ディートリヒ伯爵という。
王都で複数の商会を経営している、非常に有名な貴族らしい。
なぜアルベルトがそんな人物と会うのかと思えば、馬の取引について話があったという。
だったら、わたしは完全に無関係である。
隅でお茶でも飲んでいよう。
そう思っていた。
ところが。
伯爵が懐中時計を取り出した瞬間、わたしの目はそこに吸い寄せられた。
美しい時計だった。少し古い。
銀のケースには細かい傷がある。
しかし大切に使われてきたことが分かる。
伯爵は何度か蓋を開けて時間を確認し、そのたびに小さく首を傾げていた。
わたしは我慢した。他人の物だ。関係ない。
我慢した……五分ほど。
「その時計、遅れてませんか?」
言ってしまった。
伯爵は驚いた。
アルベルトも驚いた。
わたし自身も少し後悔した。
「分かるのかね?」
「さっき入店したとき、中央広場の時計塔が二時十五分でした。今、伯爵様の時計は二時八分を指しています」
「……よく見ているな」
「気になったので」
伯爵はしばらく懐中時計を見つめ、やがて苦笑した。
「実は最近、どうにも遅れるようになってね。修理工房へ二度出したのだが、直らなかった」
「見てもいいですか?」
また口が勝手に動いた。
そして現在に至る。
わたしはテーブルの上で時計を裏返した。
耳元へ近づける。
音を聞く。
一定ではない。
わずかに乱れている。
「道具はありますか?」
「道具?」
「時計を開けるための」
「いや、さすがに持ち歩いてはいないな」
そうだろう。困った。
せっかく触らせてもらえるのに。
するとアルベルトが店員を呼んだ。
「厨房に、小さい工具はないか聞いてくれ」
「アル兄様」
「なんだ?」
「今日だけは尊敬します」
「なんだか、君が僕をどんな風に見ていたのか分かった気がするよ……」
しばらくして、小さな工具箱が届いた。
本格的な時計工具ではない。
しかし、ないよりはいい。
わたしは慎重に裏蓋を開けた。
中を覗く。
「おお」
思わず声が出た。
綺麗だ。やはり古い。
だが、丁寧に作られている。
伯爵が心配そうにこちらを見ていた。
わたしは一つずつ確認する。
歯車。ゼンマイ。脱進機。
魔石から伸びる細い導線。
見慣れない部分もある。
魔法に関係する部分だろう。
そこは触らない。
問題はおそらく機械部分。
しばらく見て、原因が分かった。
「ここですね」
「分かったのかね?」
「たぶん」
「また、たぶんか」
「この部品、少し曲がっています。それから、油が固まっています」
伯爵は目を細めた。
「修理工房では、そんなことを言われなかった」
「では、わたしが間違っているかもしれません」
「自信がないのか?」
「十二歳ですから」
「都合のいい時だけ子供になるなあ、君は」
アルベルトが笑う。
うるさい。
わたしは伯爵に聞いた。
「何か強い衝撃を与えませんでしたか?」
「強い衝撃……?」
伯爵は考え込んだ。
「そういえば三か月ほど前、馬車が事故を起こして時計を落としたな」
「その頃から遅れています?」
「……おそらくは」
なら、ほぼ間違いない。
わたしは部品を指した。
「衝撃でここが歪んだんだと思います。本当なら交換したほうがいいです。でも部品がないので、今日は応急処置しかできません」
「できるのか?」
「やってみます」
慎重に調整する。
ほんの少し。力を入れすぎると折れる。
前世では何度もやった作業だ。
だが、十二歳の手は小さい。
指先の感覚も違う。
緊張してきた。
やっぱりやめればよかった。
食事だけして帰ればよかった。
牛肉は美味しかった。
白パンも美味しかった。
人生はそれで十分だったのではないか。
そんな逃避をしながら作業を続ける。
しばらくして、時計を組み直した。
耳に当てる。
たぶん大丈夫。
「終わりました」
伯爵が時計を受け取った。
耳元へ近づけ、じっと音を聞いている。
「……直ったのか?」
「時間を置いて確認しないと分かりません。少なくとも、今のところは」
「そうか」
伯爵は懐中時計を握りしめた。
先ほどまでの陽気な商人らしい顔ではない。
少しだけ、寂しそうだった。
「これはね、亡くなった妻からもらった物なのだ」
そう言って、蓋の内側の肖像を見せた。
若い女性が微笑んでいる。
なるほど。
だから修理工房で直らなくても、新しい時計を買わなかったのか。
「大切にされていたんですね」
「三十年以上、毎日持ち歩いている」
「それは、時計も幸せですね」
伯爵がわたしを見た。
「時計が?」
「使われるために作られた物ですから。箱の中で綺麗なまま保存されるより、傷だらけでも毎日一緒に出かけるほうが、たぶん幸せです」
少なくとも、前世のわたしはそう思っていた。
何百万円もする高級時計を買って、傷がつくからと金庫に入れてしまう人もいた。
もったいないと思っていた。
もちろん、人の勝手だけれど。
伯爵はしばらく黙っていた。
「エルナ嬢」
「はい」
「君は、時計が好きなのか?」
「はい」
即答した。
「とても」
「どこで学んだ?」
困った。
前世です、とは言えない。
「本を読んだり、壊れた物を分解したりです」
半分くらい本当である。
「家に時計があるのか?」
「ありません」
「ないのか?」
「貧乏なので」
アルベルトが横を向いた。
だから笑うな。
伯爵は目を丸くしたあと、大声で笑った。
何が面白いのか。
こちらは真剣である。
「時計を持っていない時計好きか!」
「買えないものは仕方ないです」
「なるほど、なるほど!」
まだ笑っている。
失礼だ。
わたしは少し腹が立ったので、残っていた焼き菓子を食べた。
一個。
もう一個。
伯爵家の支払いらしいから遠慮はしない。
「エルナ嬢」
「はい」
「私の商会が、時計を扱っているのは知っているかね?」
「……いいえ」
「王都に三軒、時計店を持っている」
わたしの咀嚼が止まった。
「三軒」
「そうだ」
「時計がたくさん?」
「たくさんある」
「壊れた時計も?」
「それはもう、たくさん」
わたしは椅子に座り直した。
伯爵を見る。
伯爵もわたしを見る。
「見ます」
「まだ誘っていないが」
「見たいです」
「そうか」
「ぜひ」
「分かった、分かった」
伯爵は楽しそうに笑った。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「今日直した時計が一週間正しく動いていたら、店を見せよう」
「分かりました」
「さらに、一つ課題を出す。店には修理不能として倉庫に置かれている時計がいくつもある。その中から一つ、君に預ける」
「はい、直せたら?」
伯爵は少し考えた。
「買い取ろう」
「時計をですか?」
「君の技術を、だ」
よく分からない。
わたしは首を傾げた。
伯爵はアルベルトを見る。
「クライン君、この子の父親は、確か王都へ出仕しているのだったな?」
「ああ。財務局の下級官吏だったはずです」
「なら話は早い。今度、父上を連れてきたまえ。子供を働かせるなら、親の許可が必要だ」
「働かせる?」
「もちろんだ」
伯爵は、わたしに向き直った。
「時計を見るだけで満足かね?」
「……いいえ」
「触りたい?」
「はい」
「分解したい?」
「はい」
「直したい?」
「とても」
答えるたびに、伯爵の笑みが深くなった。
なんだろう。
少し怖い。
「なら、私の店に来るといい。週に一日でも構わん。商売の邪魔にならない範囲で、いろいろ見せてやろう」
「本当ですか?」
「君が役に立つなら、給金も払う」
給金。
その言葉を聞いた瞬間、わたしの頭の中で計算が始まった。
砂糖。肉。小麦粉。冬用の毛布。
弟の靴。母の薬。
それから。
時計工具。
「……頑張ります」
「目の色が変わったな」
「お金は大事です」
「十二歳とは思えない発言だなあ」
「我が家では三歳児でも知っています」
帰りの馬車の中で、アルベルトはずっと笑っていた。
「何ですか?」
「いや。今日は寂しいからついてきてほしいだけだったんだがな」
「はい」
「まさか仕事を見つけるとは思わなかった」
「わたしもです」
「しかもディートリヒ伯爵に気に入られるとは」
「時計を直しただけです」
「普通、十二歳の令嬢は時計を直さない」
「人それぞれです」
窓の外を見る。
王都の大通りには、たくさんの店が並んでいる。
服屋。本屋。パン屋。菓子屋。道具屋。
そして、時計店。
今までのわたしにとって、それらは眺めるだけの場所だった。
この世界には何でもある。
でも、欲しいと願っているだけでは、自分の物にはならない。
前世でも同じだった。時間がない。お金がない。今度にしよう。
いつかやろう。そうやっているうちに、人生は終わった。
だから今世では、少しだけ違う生き方をしてみようと思う。
やりたいことがあるならやる。
欲しいものがあるなら、手を伸ばす。
食べたいものがあるなら……。
「アル兄様」
「なんだ?」
「帰りにパン屋へ寄りませんか?」
「まだ食べるのか!?」
「家族へのお土産です」
「自分の分は?」
「もちろん必要です」
「結局食べるんじゃないか」
失礼な。
わたしは一人で食べるために欲しいのではない。
家族全員で食べるためだ。
ただし、自分の分を確保しないとは一言も言っていない。
その日の夜。
白いパンを持って帰ったわたしは、家族の英雄になった。
三日後。
ディートリヒ伯爵から、大きな箱が届いた。
中には手紙と、小さな工具一式。
それから。
動かない置き時計が一台。
手紙には、たった一言だけ書かれていた。
――まずは腕前を見せてもらおう。
わたしは夕食後、時計を抱えて自室へ駆け込んだ。
その日から、家族は深夜まで聞こえる奇妙な音に悩まされることになる。
カチ。
カチ。
カチ。
三日目の夜。
止まっていた時計が、再び時を刻み始めたのだった。
面白かったら、評価・感想・ブックマークお願いします。




