魔王と腰元~お松がダンダリオンの妻になるまで~
静かな森の中の一軒家。
そこで暮らすお松の朝は早い。
「うわああっ!!」
テーブルの上に朝食の皿を並べているお松の耳に、ダンダリオンの叫び声が飛び込んできた。
この寝起きの絶叫は、いまや毎朝の恒例行事となっている。
なのでお松はたいして驚かない。
だが、このまま無視して放置すると、ダンダリオンが拗ねてしまってとても面倒くさいことになる。
お松はやれやれとため息をつきつつ、二階の寝室へと向かっていった。
「おはようございます、段田様」
「おはよう、お松。君は今日もなんて可愛いんだろう。ああ、愛してるよ、お松…………ところで、この無礼な犬をどうにかしてくれないかい?」
寝起きだと言うのに、熱のこもった目でお松を見つめ、情熱的に愛を囁くダンダリオン。
そんな彼の顔を、寝台に上がった牡丹が尻尾を振りつつペロペロと舐めている。
牡丹は狆という種類の小さな犬だ。
ダンダリオンが本気を出せば、すぐにでも追いやってしまえるだろうに。
でも、ダンダリオンは絶対にそんなことはしない。
何故なら、牡丹はお松の大事な『御犬様』で、『家族のようなもの』なのだから。
「あらまあ、無礼だなんて。牡丹様は寝起きの悪い段田様を起こして差し上げているだけではありませんか。ねえ、牡丹様」
「キャン!」
抱き上げた牡丹にそう話しかけると、元気の良い返事が返ってきた。
両耳と目の周り、それから背中の一部は真っ黒。
それ以外の手足や尻尾は真っ白という、白黒の模様の牡丹。
落ち武者のようにも見えるが、つぶれた鼻と少し離れた大きな丸い瞳が可愛らしい。
「せっかく良い夢をみていたのに……」
拗ねるような口調でため息をつくダンダリオン。
ゆっくりと気だるそうに起こした上半身は裸で、長い髪が鍛えられた背中に沿って流れ落ちていく。
寝乱れた姿だが、不思議とだらしなさは微塵も感じられない。
むしろ艶めかしさが増したことで、より一層魅力的に見える。
「何も顔を舐めなくてもいいだろうに……この犬ときたら、私のことを舐めているとしか思えないよ」
「確かに舐めておりますね、色々と。そんなことよりも、早く起きて下さいませ。朝餉が冷めてしまいますよ」
お松がそう言うと、ダンダリオンの顔が嬉し気にぱあっと輝いた。
ダンダリオンは、お松の作る朝食をこの上なく気に入っているのだ。
急いで身支度を整えて階下に降りたダンダリオンは、いそいそと嬉しそうに朝食の席に着いた。
テーブルの上に並んでいるのは、お松が手ずから調理した料理の数々。
茶碗にふんわりと盛られた白米、出汁が香る熱々の味噌汁、野菜の浅漬けと炙った干物。
ダンダリオンの好物である少し甘い卵焼きもある。
庭から採って来た果物も、皮を剥き食べやすく切り分けられて皿に盛り付けてある。
瓜くらいの大きさで赤茶色の硬い皮に覆われたこの果物は、庭に生えている木に一年中生っている。
見た目からは想像できない程に美味なこの果物は、『ガイアの実』という名前だ。
お松は、ガイアの実を三食欠かさず食べている。
単に好物だからという理由ではなく、そうする必要があるからだ。
ガイアの実には、多くの魔力が含まれている。
というか、もうほとんど魔力の塊と言ってもいいくらいだ。
ダンダリオンによると、この実を食べ続けていくうちにお松の身体は人間ではなくなり、限りなく魔族に近いものに成るのだそうだ。
そうなれば、お松はダンダリオンと一緒に魔族の国に行くことができる。
魔族の国は人間界から遠く離れた場所にある。
そこでは至る所から魔力が吹き出し、終始辺りに色濃く立ち込めている。
なので、魔力に弱い人間はそうそう足を踏み入れることが出来ない。
逆に、人間の国は空気に含まれる魔力が少なすぎるため、魔力を糧に暮らす魔族にとっては非常に暮らしにくい所だった。
なので、魔族の王族や高位の貴族くらいに身に持つ魔力が多い者でないと、人間の国には長く滞在することができない。
すぐに魔力が枯渇してしまうからだ。
ダンダリオンは魔族の王、この世界の人間達が言うところの『魔王』なので、その身の内に膨大な量の魔力を蓄えている。
なので人間の国にいても、魔力がすぐに枯渇してしまうことは無い。
だが、やはり、魔力はあればあるだけ良い。
なのでダンダリオンも、お松と一緒にせっせとガイアの実を食べ続けている。
本当は、このガイアの実だけで十分なのだ。
それだけで二人とも問題なく生きて行けるし、不思議とこれ以外の物が食べたいという欲求もそれほど湧いては来ない。
では何故、こうしてわざわざ料理を作っているのかと言うと。
お松の作る料理を、ダンダリオンが大層気に入ってしまったからだ。
以前、お松が何の気なしに語った『元居た世界の暮らし』に登場する食べ物の数々。
初めは、ほんの少し興味を引かれた程度だったダンダリオンだが。
何度も何度も繰り返しお松の話の中に出て来る『御飯』というものが、どうにも気になって仕方が無くなってしまった。
そしてある日の事。
ダンダリオンは、ついにどこからか米を調達してきた。
お松はそれを鍋で炊き、熱々の塩むすびを拵えた。
そして、にっこりと微笑みながら『どうぞおあがりあそばせ』とダンダリオンの目の前に差し出した。
炊き立てで熱々の白米のせいで、お松の手のひらは真っ赤になってしまった。
そんなお松の手のひらが心配で、ハラハラしながら横で見守っていたダンダリオンは、その笑顔にはっと息を呑んだ。
何故ならそれは、お松がこちらの世界に来て初めて見せた笑顔だったのだ。
ダンダリオンは受け取った塩むすびを大事そうに一口齧ると、感極まったように身を震わせ、はらはらと涙を流した。
『ううっ、番がやっと笑ってくれた……良かった……嬉しい……』
『お味はいかがでございますか?』
『とても美味しいよ。こんな美味しい料理がこの世にあるなんて……』
『料理だなどと大袈裟な。ただ握って丸めただけですのに』
お松はそう恐縮したが、ダンダリオンは熱に浮かされたように『美味しい』と『嬉しい』を繰り返し、嬉し涙を零しながら握り飯を食べた。
それからというもの。
ダンダリオンは、お松の作る料理を食べることに夢中になった。
味噌や醤油でさえもどこからか探し出してくるダンダリオンに、お松はせっせと手料理を振舞った。
※※※
三年前、こちらの世界に落とされた日。
あの日のことを、お松は今でも鮮明に覚えている。
――そう、あの日。
腕の中の牡丹をぎゅっと抱きしめ、お松は不安そうに辺りを見回した。
「牡丹様…………ここは一体、どこなのでしょう?」
「クゥーン……」
つい先程まで牡丹を腕に抱え、お屋敷の長い廊下を歩いていたはずなのに。
突然、光り輝く曼荼羅のような複雑な文様が足元に浮かび上がり、次の瞬間、目が眩むような強い光に包まれ――気付けば、牡丹共々ここに立っていた。
左の袂が何やら重い。
慌てて中を確かめると、銀色の足高な杯のようなものが出て来た。
もちろんお松のものではないし、今までに見たことも無いものだった。
「はて、これは一体何なのでしょう……」
「クゥーン……」
お松が首を傾げていると、突然、背後に人が立つ気配がした。
慌てて振り返ったお松は、全身に鳥肌が立ち、足が竦んで動けなくなった。
腕の中の牡丹も、鳴きもせずただひたすら怯えて震えている。
そこに立っていたのは明らかに人間ではない、異形の者。
だが、息を呑むほどに美しかった。
烏の濡れ羽色とはこういう事を言うのだろうか。
陽の光を受け光沢を放つ見事な黒髪は、真っ直ぐな線を描きながら背中を流れ落ちていく。
傷一つない白い肌はまるで人形のよう。
柘榴のように赤く透き通った瞳は、異様な熱を孕んでお松を見つめている。
そして、そんな奇跡のように美しい男の頭には、雄牛のように禍々しい二本の角が生えていた。
「…………鬼!?」
お松は思わずそう叫んだ。
何しろ頭に二本の角があるのだ。これはもう、鬼に間違いない。
「ああ、やっと……やっと会えた……」
恐怖に震えるお松とは裏腹に、その男は感極まったように目を潤ませ、嬉し気にそう呟いた。
「どうしよう、可愛い……番が可愛すぎて死にそう……ああ、可愛い……」
お松のことを、この上なく愛おしそうに見つめながらそう繰り返す男。
番とは、鳥や犬猫などの生き物の夫婦を指す言葉だ。
この男は何をいきなりそんな言葉を持ち出して来たのだろう。
お松は怪訝な顔で、首をこてんと横に傾けた。
すると、それを見た男が両手を口に当て、真っ赤になって悶絶し始めた。
「えっ、ちょっと待って可愛い。こんな可愛いなんて聞いてない……! ああもう、どうしよう! 番が可愛すぎて死にそう……!」
目の前の鬼の様子がどうにもおかしい。
声を掛けるのも躊躇われるほどの乱心っぷりだった。
だが、ここで怯むわけには行かない。
お松は意を決して、男に向かって叫んだ。
「お願いです! 私はどうなろうとかまいません! ですがどうか、どうかこの牡丹様だけはお助けくださいませ!」
「えっ? ど、どうなろうとかまわないって一体……」
「煮るなり焼くなり、どうとでもなさいませ!」
「嘘! 何しても良いってこと? 何それ大胆過ぎる……!」
男はその後もしばらくは『可愛い』を連呼していたのだが。
お松が酷く緊張した様子なのに気付くと、慌ててこの摩訶不思議な出来事について説明をし始めた。
その男曰く、ここはお松が暮らしていた世界とは全く別の世界なのだそうだ。
男はそれを『異世界』と呼んだ。
「私の名前はダンダリオン。魔族の国を統べる王だ。人間達からは『魔王』と呼ばれている」
そう言われても、『魔族』と言うのが何なのか、お松にはよくわからなかった。
なので、多分、鬼のような妖の類だろうと思うことにした。
そして、この男は国を統べる者だと言う。
つまり『魔王』とは、鬼の棟梁のような地位の者に違いない。
「ああ、やっと会えた……私の愛しい番……」
「……番? 私が、貴方様の?」
「そうだよ、君は私の運命の番なんだ」
「……うんめいの……つがい?」
「そうだよ、愛しい人」
ダンダリオンと名乗るその男は、蕩ける程に優し気な声でそう答えた。
その顔に浮かぶ微笑みの美しい事といったら。
恐ろしい鬼であるはずなのに、お松はすっかり目が離せなくなってしまった。
「愛しい人。どうか君の名前を教えて欲しい」
「私の名は松。こちらは牡丹様です」
「キャン!」
「可愛い……」
「はい! 牡丹様は日本一、愛らしい御犬様でございます!」
ダンダリオンが可愛いと言ったのはお松の事だった。
だが、牡丹のことを褒めたのだと勘違いしたお松は、ダンダリオンのことをなかなか見る目のある良い鬼だと評価を上げたので、結果的には良かったのかもしれない。
「まつと言うんだね」
「はい、周りからは『お松』と呼ばれております。貴方様も是非、そのようにお呼び下さいませ」
「わかった。では、お松も私のことをダンダリオンと呼んでおくれ」
「だんだ……りおん……? では、段田様とお呼びしてもよろしゅうございますか?」
「えっと、どうしてそこで切ったのか不思議なんだけど、まあ、お松の好きなように呼ぶといいよ」
「ありがとうございます。では、そのように呼ばせていただきますね」
そうしてお互いに名乗り合ったあの日から、三年の月日が流れた。
あれからずっと、ダンダリオンはお松に『愛している』と言い続け、身も心も蕩ける程の愛情を惜しみなく注ぎ続けている。
※※※
この世界の魔王の『運命の番』――それは、異世界から召喚された『聖女』と決まっている。
運命の番を呼び出すのは魔王ではない。
この世界の人間達だ。
魔王は人間達が苦労して召喚した聖女を、ただ横から掻っ攫って行くだけだ。
それが何故なのか、いつからそういうことになったのか。
長命な魔族の歴史を遡って見ても、その起源は謎のままだ。
そもそも、何故人間達が異世界から聖女を呼び寄せるのか。
どうやら人間という生き物は、『復活した魔王が我々人間を襲いに来る!』という強迫観念を生まれつき持っているらしい。
実際には、そんなことは起こるはずもないのだが。
何しろ、魔族にとって人間の国は『魔力が少なくて生活しにくい場所』なのだ。
興味本位で旅行に訪れるならまだしも、長く住みたいと思う所ではない。
つまり、侵略してまで手に入れたいほど魅力的な土地ではない。
なのに人間は、少ない魔力を掻き集めて一生懸命に魔法陣を描き、『聖女』を異世界から呼び出すのだ。
聖女が魔王の復活を阻止してくれると信じて。
魔王はその人間の習性を利用して、運命の番という花嫁を手に入れている。
やり方は簡単だ。
数百年に一度、人間達が崇める神殿に神の名を騙って神託を下ろすのだ。
その際、魔法陣を起動するための鍵となる『聖杯』を同時に与えれば良いだけ。
人間達は知らないが、この『聖杯』には魔王の魔力がたっぷりと注ぎ込んである。
人間達が必死に描く魔法陣。
その中には、『魔王を倒す聖女』を召喚する術式が織り込まれている。
だが、その中心に魔王の魔力に満ちた聖杯を置くことで、『魔王の魂が求める運命の女性』すなわち『魔王の運命の番』が招き入れられる術式に変化するのだ。
そうと知らずに人間達は、神託の通りに魔法陣を用意し、その中心に聖杯を据える。
代々の魔王達は、そうやって人間達が苦労して呼び寄せた聖女を横から搔っ攫うように奪ってきた。
だが、その仕組みを知らない人間達は、聖女を召喚したことで魔王の復活を防ぐことができたと喜び、めでたしめでたし、としたのである。
なお、この魔法陣には、呼び寄せられた女性が『聖なる力』――すなわち、『治癒』や『浄化』の魔法を行使できるようになるという術式も盛り込まれている。
なのでお松も、確かに聖女の力を持っているのだ。
その証拠に、お松が摘んできた庭の花はいつまでも枯れない。
少し萎れた頃にお松が『元気になりますように』と祈れば、すぐに生き生きとしだすのだ。
「えっ、これって聖杯だったのですか!?」
この世界に呼び寄せられた時に、着物の袂に入っていた銀色の杯。
今では庭から摘んできた花を活ける花瓶となっているそれを見ながら、お松が焦って声を上げる。
「申し訳ございません! そんな大層な物とは露知らず、花瓶にしていました!」
「ふふっ、いいんだよお松。それはもう役割を終えた物だ。それに、君がその手で摘み取った花を活けてもらえるんだ。きっと聖杯も喜んでいるよ」
ね? というように、お松に微笑みかけるダンダリオン。
ダンダリオンはお松に大層甘い。
お松がすることは何だって許すし、お松が望むことは何だって叶えてやりたいと思っている。
そんなダンダリオンを見て、お松はふと、先日の出来事を思い出した。
――何かの話の途中で、ダンダリオンが何気なく言ったのだ。
『愛しいお松。君が望むことは何でも叶えてあげるよ』と。
『それでは、私と牡丹様を元居た世界に戻して下さいませ』
すかさずそう返したお松に、ダンダリオンは言葉を失った。
その時のひどく傷ついたような顔。
お松は慌てて言葉を足した。
『申し訳ございません。それはできないのでしたね。でしたら、そうですね……温泉に入りたいです。お風呂を作って下さいませ。大きな露天風呂が良いです。作っていただけますか?』
『もちろんだよ、すぐに作るとしよう』
こちらの世界に来て浄化の魔法が使えるようになったお松は、敢えて風呂で体を清める必要が無い。
だが、慣れ親しんだ風呂への憧れは、どうにも断ち切れるものでは無い。
『どんな風呂にしようか。あ、あれも必要かな? ライオンの口からお湯がガーッと出るやつ」
『らいおん? らいおんとは、一体何なのでしょう?』
その後、この願いならば叶えることができるぞと喜んだダンダリオンが無駄にはしゃいだせいで、物凄く大きい池のような露天風呂が完成した。
狛犬のような獅子の像の口から、熱いお湯が絶えず湯船の中に注がれていて、端の方には激しい気泡が絶え間なく出続けている場所もあった。
広々とした露天風呂に浸かりながら、お松は思った。
自分はどうして、元の世界に戻して欲しいだなどと口走ってしまったのか。
こちらに呼ばれてすぐの頃、もう元の世界には戻れないのだと聞かされていたのに。
それに、あちらの世界に未練があるのかと問われれば、無いとはっきり答えられる。
なのに何故。
お松は自分の心に問いかけた。そして気づいた。
それは多分、ダンダリオンが『何でも叶えてあげるよ』などと無責任なことを言ったからだ、と。
無理なこともあるのだと、お松は知っている。
だから、ダンダリオンのあの言葉は嘘だということになる。
お松はダンダリオンに嘘をついて欲しくない。
もし、彼の甘い言葉の数々の中に嘘が紛れているのだと思ってしまったら。
『愛している』の言葉を信じられなくなってしまうではないか。
それが嫌だと思ったからこそ、お松は咄嗟にあんなことを言ってしまったのだ。
答えが出てスッキリしたお松だったが。
ダンダリオンの『愛している』という言葉を、いつの間にか喜んで受け入れている自分に気付き、なんとも言えない不安な気持ちになった。
さて。
そんな風にお松を溺愛してくるダンダリオンだが。
意外にも、お松の身体に触れてくることはほとんど無かった。
口を開けばお松への思いを溢れさせるくせに。
この三年の間、口づけどころか手を握ることすらしないのだ。
お松はそれが不思議でならなかった。
だが、その答えはある日突然判明した。
それは、お松がダンダリオンに語って聞かせた身の上話のせいだったのだ。
お松はある大名の江戸上屋敷に住む腰元だった。
奉公に上がった当初の仕事は、中屋敷での年老いたご隠居の世話。
だが、ご隠居が亡くなったため、上屋敷に移って働くこととなった。
実は、お松はダンダリオンに負けず劣らず美しい娘だ。
透き通るような白い肌に、艶のある黒髪。
瑞々しく柔らかそうな唇は、紅など差さずとも十分に色付いていて美しい。
見る者を一目で虜にするような娘。
そんなお松が好色な殿様の目に触れ、お手が付くことを恐れた奥方は、お松を犬の牡丹の世話係にすることにした。
牡丹は公方様が何かの折に褒賞として殿様に与えた犬――すなわち『御犬様』である。
ところが、肝心の殿様ときたら大の犬嫌いであった。
何しろ犬が近寄っただけでくしゃみや鼻水が止まらなくなり、抱き上げようものなら寝ている間にひどく咳き込むほどなのだ。
とは言え、公方様から頂いた『御犬様』を、邪険に扱うわけにはいかない。
なので殿様は奥方にその世話を頼んだ。というか丸投げした。
そして自分は、時々ふと思い出したように『御犬様は息災であるか?』と尋ねるだけで、決して近寄ろうとしなかったのだ。
だから、御犬様の世話係にしてしまえば、お松が殿様の目に触れることは無いだろう。
奥方はそう思ったのだ。
奥方の策は見事に当たり、お松はしばらくの間、上屋敷で牡丹の世話をしながら平穏に暮らしていた。
だが。
ある日の事、口の軽い家来が好色な主君に向かって『大層美しい腰元が、この上屋敷におるようでございます』と告げてしまった。
興味を示した殿様は、すぐに側仕えの者を呼び、『今宵、そのお松とやらを寝所に呼べ』と申しつけた。
突然呼び出されそう命じられたお松は、もちろん喜ぶどころか絶望に顔を曇らせた。
だが、一介の腰元であるお松に否やは無い。
そしてお松は、自分の身の不運を深く嘆きつつ、牡丹を腕に抱き屋敷の廊下を歩いていたところで――こちらの世界に呼び出されたのだった。
「おかげ様で、好いてもおらぬ殿方に触れられるような、身の毛もよだつ恐ろしい目に遭わずに済みました。そのような不幸を避けられたのですから、私は運が良かったのかもしれません。ね、牡丹様」
「キャン!」
お松としては、『だから、自分はあちらの世界に戻れなくても一向にかまわないのだ』と知らせたかっただけなのだ。
元の世界に帰らせてあげられないことを、ダンダリオンが気に病む必要はないのだと、遠回しに告げたつもりだった。
だが、ダンダリオンはそうは受け取らなかった。
つまり、『好きでもない男に触れられるのは嫌だ!』ということだけを心に刻みつけてしまったのだ。
ある時、お松は自分の頭にそっと手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めるダンダリオンと目が合った。
なのでお松はすかさず聞いてみた。
『今、頭を撫でようとしましたよね? どうして止めてしまったのですか?』と。
それに対するダンダリオンの答えは、『不用意に触れて、お松から嫌われたくない。お松に嫌な思いをさせたくない』というものだった。
いつかの会話の中で、お松が『好きでもない男に触れられるのは、身の毛もよだつような恐ろしいこと』だと言っていたから、と。
目を伏せ、しょんぼりとそう言うダンダリオンに、お松は心底驚いた。
彼がそんなことを考えていただなんて、夢にも思わなかった。
うつむいていた顔を上げ、黙ったまま自分を見ているお松を、心配そうに見返すダンダリオン。
今、その瞳に揺れるのは、恐れと不安。
お松が怒っているのではないか、何か嫌な思いをしているのではないか、不安そうに見つめて来るダンダリオンに、お松は心が締め付けられる思いがした。
いつだってそうだ。
ダンダリオンは、いつだってそんな風にお松のことを気遣ってくれている。
ダンダリオンに言わせればこれは至極当然のことらしい。
何故ならお松は、ダンダリオンの『運命の番』なのだから。
お松はダンダリオンの手をガッと掴み、自分の頭の上に乗せた。
「お、お松? 急にどうしたんだい?」
「撫でて下さいませ」
「え?」
「頭を撫でて下さいませ。私は段田様が嫌いではありません。むしろ好きです。だから、頭を撫でて頂きたいのです」
「…………!!」
ダンダリオンはお松の言葉に目を瞠り、唇を微かに開いた。
そして、震える手で、ゆっくりとお松の頭を撫で始めた。
ダンダリオンの長く美しい指が、お松の髪の上を滑って行く。
大切なものを慈しむように、愛しくて堪らないのだというように。
だからお松は、その指先から紡がれる思いをできるだけ拾い上げようと、そっと目を閉じた。
※※※
その後。
ダンダリオンは暇さえあればお松の頭を撫でるようになった。
魔王のくせに、ダンダリオンの爪は短く切り揃えてある。
万が一にもお松を傷つけることの無いように。
お松の髪もまた、ダンダリオンに負けず劣らず美しかった。
ダンダリオンが毎日せっせと手入れをしているからだ。
元居た世界では島田に結っていた髪を、こちらに来て毎日風呂に入るようになってからは、洗い髪を下げたままにしている。
そんなお松の長い髪を、どこからか手に入れた椿油と柘植の櫛でゆっくりと梳かすダンダリオン。
ダンダリオンにそうされながら、膝の上の牡丹を、頭から背中にかけてゆっくりと撫でるお松。
世話をされていると同時に世話をしているのだと思うと何とも面白くて、お松はついクスクスと声に出して笑ってしまう。
そんなお松を、ダンダリオンは愛しくて堪らないと言うように目を細めて見つめている。
幸せで。夢みたいに幸せで。
お松は目が眩むほどの幸福感に浸りながら、同時にほんの少しの恐ろしさも感じていた。
実はお松は、両親のせいで男女の恋愛と言うものに抵抗があったのだ。
この先、嫁ぐことはあるだろう。それは仕方が無いことだと覚悟していた。
嫁げば子を産むことになるだろう。
そうしたら、自分は夫ではなく、必ず我が子を一番に愛することにしよう。
以前のお松は、そう心に決めていたのだ。
だから、夫となる人を深く愛することの無いようにしよう、と。
なのに。
自分の心がどうしようもなくダンダリオンに惹かれていくのを感じて、お松は密かに困っていた。
三年という月日は、すでに三百歳を超えたダンダリオンにとって短い時間なのかもしれない。
だが、お松にとっては結構な長さなのだ。
これだけ長い間一緒に過ごし、溺れる程の愛情を捧げられているのだ。
好きにならない方がおかしい。
「牡丹様、私はどうしたら良いのでしょう」
「キャン?」
「わかってはいるのです。私自身が変わらねば、このまま何も変わらないのだということは……」
「キャン!」
「とは言え、今一つ勇気が持てないのです」
「クゥーン……キャン! キャンキャン!」
「ありがとうございます。牡丹様に応援して頂けて、なんだか力が湧いて参りました!」
不思議なもので、こちらの世界に来てからと言うもの、お松には牡丹が言わんとしていることが理解できるようになった。
それは聖女の力なのか、それとも、ガイアの実を食べ続けた牡丹もまた、犬ではない何かになっているのか。
何はともあれ。
そうして牡丹に励まされたお松は、ダンダリオンに思いをぶつけてみることにした。
「段田様、私の話を聞いていただけますか?」
「どうしたんだい? そんな思いつめたような顔をして」
ダンダリオンはそう言って、気遣うようにお松の頬をそっと撫でた。
そうして触れてもお松が嫌がらないことを、ダンダリオンはすでに理解している。
それからお松は、自分の両親のことを語り始めた。
お松の両親はとても仲の良い夫婦だった。
お互いのことしか目に入らないほどに、度を越して狂った愛情を向け合う二人だった。
お松は父親にとっては愛する女が産んだ自分の血を引く娘であり、母親にとっては愛する男の血をひいた子供でしかなかった。
そこにはお松に対する純粋な愛情は無い。
お互いの伴侶に向けた愛情の、おこぼれのような愛情しかお松には与えられなかった。
お松の母は、とても美しい女だった。
その美しさが災いし、ある時、父の上役から手を出されそうになった。
その時何があったのか、詳しいことはわからない。
ただ、結果として両親は命を絶った。
血溜まりの中、お互いの手を握りしめ、二人ともうっすらと笑顔を浮かべていたと言う。
お松は時々、心の中で、今は亡き両親に向かって問いかける。
死に際の薄れゆく意識の中で、あなた方は一瞬でも私のことを思い浮かべましたか?
乳飲み子だった私を一人置いて逝くことに、心は痛まなかったのですか?
「段田様」
「なんだい、お松」
「お願いがございます」
話し終えたお松は、居住まいを正しダンダリオンに言った。
「私達に子ができましたなら。その子を、心から可愛がってくださいませ」
「えっ!? こ、子供!? き、急にどうしたんだい? いや、そんなの当然だよ!」
「その子を一番に思ってください。その子の命を一番に守ってください。私ではなく、その子のことを」
お松の必死な様子に、ダンダリオンは目を瞠った。
そして、しばらく考え込んだ後、意を決したようにはっきりと言った。
「それは無理だ」
お松はそれを、黙って聞いていた。
「私の一番は運命の番である君だ。それはどうにも変えようが無い。だが、我が子を二番目に慈しむと誓う。そして、私自身の命をお松と子供のために捧げよう」
ダンダリオンには、嘘がつけなかった。
たとえこの場限りの事であっても、番より優先するものがあるとは言えなかったのだ。
その正直さを、お松は受け入れることにした。
「そうですか。でも、私の一番は我が子です。二番目が私自身で、三番目が段田様です。それでも良いですか?」
「それでも良い。いや、是非ともそうして欲しい」
わざと自分を二番目にしてみたお松だったが。
本当は、一番が我が子で、二番目はダンダリオンだ。
でも、それを言うことは躊躇われた。
自分の中には、あの両親の血が流れているのだから。
だが、ダンダリオンはそれでも良いといってくれた。
お松にはそれが心の底から嬉しかった。
ならば、とお松は覚悟を決めた。
そして、三つ指ついてこう宣言した。
「わかりました。それでは今宵、あなた様の妻となりましょう。よろしくお願い致します、だんな様」
その後、段田様ではなくだんな様と呼ばれることになったダンダリオンは。
嬉しさのあまり気を失い、お松を大いに慌てさせることとなった.。




