透明な影と届かぬ風の音
透明な影と届かぬ風の音
八月半ばの午後は世界全体が熱の暴力に支配されているようだった。
最寄りのローカル駅から続く急な坂道を登り切る頃には、私の白いリネンのブラウスは背中にべったりと張り付き、首筋を伝う汗がチリチリとした不快な痒みを生んでいた。
容赦なく照りつける太陽は、アスファルトの上に陽炎を揺らめかせ、周囲の山々から押し寄せるミンミンゼミのけたたましい鳴き声は、もはや鼓膜を物理的に圧迫する痛みのようだった。
坂の頂上、鬱蒼と茂る夏椿の木に隠れるようにして、父が一人で暮らす古い木造の平屋が建っている。
引き戸に手をかけると、太陽の熱をたっぷり吸い込んだ木のざらついた感触が手のひらに伝わってきた。
ガラガラと重い音を立てて戸を開ける。家の中は外の白々しい明るさとは対照的に、ひんやりとした深い暗がりに沈んでいた。
「お父さん、栞だけど。入るよ」
土間で靴を脱ぎながら声をかけたが、返事はない。
家に染み付いた古い畳の藺草の匂いと、微かなカビ。それに除虫菊を使った昔ながらの蚊取り線香の煙たい匂いが、肺の奥にどっと流れ込んでくる。それは、私が十八歳でこの家を出るまで、当たり前のように嗅いでいた「日常」の匂いだった。
廊下を進み、南側に面した居間を覗き込むと、開け放たれた縁側の座布団の上に、父の背中があった。胡坐をかき、膝の上に両手を乗せ、ただじっと庭の緑を見つめている。
七十二歳になる父は、昔から無口で気難しい人だった。地元で建具職人として腕を振るい、鉋と鑿でミリ単位の仕事をしてきた男の背中は、かつてはもっと広く、威圧感があったはずだ。しかし、今こうして後ろから見る父の肩は驚くほど薄く、着古した甚平の生地が余ってたるんでいた。
「お父さん」
もう一度、少し大きな声で呼ぶ。
父はビクッと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……なんだ、栞か。来るなら来るって、電話くらい寄越せばいいものを」
「昨日の夜、電話したじゃない。三回も。全然出ないから、倒れてるんじゃないかって心配して来たのよ」
「電話の音なんて、蝉の声にかき消されて聞こえやしねえよ」
父はぶっきらぼうにそう言うと、再び庭の方へ顔を向けた。
私はため息をつき、台所へ向かった。冷蔵庫を開けると、半分ほど減った麦茶のピッチャーがあった。ガラスのコップを二つ出して麦茶を注ぐ。コップの表面にはあっという間に水滴がつき、指先をひんやりと冷やした。
盆にコップを乗せて居間に戻り、父の隣に座る。
「ほら、冷たい麦茶。ちゃんと水分摂らないと、この熱気じゃ本当に倒れるよ」
父は無言で手を探り、コップの側面ではなく、まず盆の縁に指をぶつけた。それから、探るように指を滑らせてコップを掴み、喉を鳴らして麦茶を飲んだ。一口飲むたびに、麦を深く焙煎した少し焦げ臭いような苦味が、私の鼻先にも漂ってきた。
その不自然な手の動きを見て、私の胸の奥がチクリと痛んだ。
「……また、見えにくくなってるの?」
私が尋ねると、父はコップを畳の上に置き、口元を手の甲で乱暴に拭った。
「緑内障の末期だ。医者にも言われてるだろうが。視野の真ん中が真っ黒に欠けて、周りの景色もすりガラス越しみたいにぼやけてる。お前の顔だって、のっぺらぼうに見えるさ」
父の目は、かつての鋭い職人の目ではなくなっていた。黒目の表面に薄く濁った灰色の膜が張っているように見える。木材の木目を見極め、わずかな光の加減で鉋の刃を調整していたその目は、今や自らの足元の段差すら怪しい状態だった。
「だから、うちに来なよって言ってるじゃない。マンションなら段差もないし、仕事に行ってる間も……」
「馬鹿を言え。俺はこの家で死ぬって決めてるんだ。お前の世話にだけはならん」
昔からそうだ。この人は、自分の弱さを見せることを何よりも嫌う。母が亡くなった時も、父は葬儀の席で一滴の涙も流さず、翌日から無言で作業場にこもり、ひたすらに木を削り続けていた。
沈黙が落ちた。
外の熱気とは裏腹に、二人の間には冷ややかな距離が横たわっている。
その時、不意に庭から生ぬるい風が吹き込んできた。
チリンと高く、澄み切ったガラスの音が静寂を切り裂いた。
縁側の軒先に吊るされた風鈴だった。
ガラスの表面に青い金魚が描かれた江戸風鈴。それは母がまだ生きていた頃、家族三人で出かけた浅草のほおずき市で買ってきたものだ。母が死んで十五年。紐はすり切れ、短冊はボロボロになって茶色く変色している。しかし、風を捕まえるとその音色だけは当時のまま、鼓膜の奥をくすぐるように響いた。
「風鈴の音はいいな」
父がふと呟いた。
「見えなくなってから風鈴の音が、俺の目になった。音の鳴る強さで風の強さがわかる。音が鳴る方向で風の向きがわかる。……目が見えなくなると、耳や鼻が代わりに働くようになるってのは本当らしい」
私は風鈴を見上げた。
強い西日が風鈴のガラスを透過し、縁側の板張りの上に、青く歪んだ丸い影を落としていた。風鈴が風に揺れるたび、その影もまた、生き物のように伸びたり縮んだりしながら畳の上を這い回る。
「……栞」
父が急に改まった低い声で私の名前を呼んだ。
「お前、今日は夕方まで時間あるか」
「うん。明日はお盆休みで仕事ないし、夜までいてもいいけど。どうしたの?」
父はよっこらしょと立ち上がり、壁際の古い文机の引き出しを開けた。
そして、何かを抱えるようにして戻ってくると、私の前の畳の上にそれを置いた。
それは立派な木箱に入った硯と筆。そして、鳩居堂の和紙の便箋だった。
「……手紙を書いてほしいんだ。俺の代わりに」
私は驚いて父の顔を見た。
「手紙? 誰に」
「松吉だ。青森に帰った、俺の昔の兄弟子だよ」
松吉という名前に聞き覚えはあった。私がまだ小学生だった頃、父の作業場によく出入りしていた、豪快に笑う大柄な職人だ。しかし、彼と父は職人としての方向性の違いから激しく衝突し、二十年近く前に完全に縁を切っていたはずだった。
「ずっと年賀状すらやり取りしてなかったじゃない。どうして急に?」
「……先月、あいつの息子からハガキが届いた。松吉の奴、ガンで余命半年を宣告されたらしい。ホスピスに入って、今はもうほとんど動けないそうだ」
父の濁った目がじっと私の顔のあたりを向いていた。
「俺も字が書けなくなった。ペンを持っても、自分が和紙のどこに字を書いているのか……。枠線すら見えないんだ。真っ黒な影の中に、黒い墨を落としているようなもんでな。何度書いても文字が重なって真っ黒に潰れちまう」
父の震える声に私は息を呑んだ。 あの、一切の妥協を許さなかった職人の父が、「書けない」と自分の無力さを他人に、それも娘である私に打ち明けている。それは、彼が自分のプライドの最後の一欠片を切り売りするような、悲痛なSOSだった。
「……わかった。私が代筆する。筆のほうがいい? ボールペンにする?」
「いや、筆がいい。あいつには、ちゃんとした墨の匂いがする手紙を送ってやりたい」
私は木箱から硯を取り出し、少量の水を差して固形墨を擦り始めた。
シャコッ、シャコッという静かな音が居間に響く。次第に水が黒く染まり、深く落ち着いた墨の匂いが、蚊取り線香の匂いを押し退けて広がっていく。その匂いは、昔、父が図面を引く時に嗅いでいた、ピンと張り詰めた「仕事の匂い」そのものだった。
筆に墨を含ませ、和紙の便箋に向かう。
「準備できたよ。言って。私がそのまま書くから」
父は少しの間、目を閉じ、言葉を探すようにじっと黙り込んだ。やがて、ぽつりぽつりと掠れた声で話し始めた。
『松吉。息子の手紙でお前の病気のことを知った。驚いたが、見舞いには行かない。俺も今、緑内障でほとんど目が見えなくなり、一人で電車に乗ることもままならないからだ。』
私は父の無愛想な言葉を、できるだけ丁寧な字で和紙に写し取っていった。筆先が紙の表面を滑る摩擦音が心地よいリズムを刻む。
『お互い、ポンコツになったな。あんなに頑丈だったお前の身体がガンに食われ、ミリ単位の狂いも見逃さなかった俺の目が、今は自分の足元すら見えねえんだから、笑い話にもなりゃしねえ。』
父の言葉は相変わらず棘があった。しかし、その棘の奥に同じ時代を生き抜いた職人同士にしかわからない、深い共鳴と諦念があるのがわかった。
『目が見えなくなってから、俺は毎日、縁側に座って庭の影ばかり見ている。』
父のその言葉に、私は筆を止めた。
「……影?」
父は頷いた。
「ああ。視界の真ん中が真っ黒に欠けてるから、明るい景色は見えねえんだ。でもな、光が強い日の、濃い『影』だけは、ぼんやりとだが輪郭がわかる。木の影。屋根の影。そして、あの風鈴の影だ」
父は縁側の床に落ちている、青く歪んだ風鈴の影を指差した。
「続けてくれ」
父が言った。私は再び筆を握り直した。
『光が見えなくなって、俺は初めて影の形を正確に知ったよ。木を削る時、俺たちはいつも光の当たる表面ばかりを気にしていただろう。でも、物の本当の形を決めているのは、光が当たらない裏側の暗い影の部分だったんだな。』
父の言葉は、徐々に手紙の宛先である松吉から離れ、独白のように響き始めた。
『俺はずっと、自分の腕の良さという光ばかりを信じて、周りを見ようとしなかった。妻が死んだ時も、娘が家を出て行った時も、俺は自分の孤独という影と向き合うのが怖くて、仕事という眩しい光に逃げ込んでいたんだ。』
心臓がドクンと大きく跳ねた。
筆を持つ私の右手が微かに震える。筆先から墨の滴が落ちそうになり、慌てて硯の縁で拭った。
父が、母や私のことを口にするなんて。それも、後悔や弱さとして。
『今、俺の世界は少しずつ影に飲み込まれようとしている。最初は怖くてたまらなかった。自分が何者でもなくなっていくような気がしてな。でも、光が消えていく中で、ようやく見えるようになったものもある。風の音。墨の匂い。そして、こうして俺の代わりに筆を握ってくれている、不器用だが優しい娘の存在だ。』
「……お父さん」
私はたまらず声を漏らした。視界が急にぼやけ、和紙の上の黒い文字が滲んでいく。目からこぼれ落ちた生温かい水滴が手の甲に落ちた。
父は私の声を聞いて少しだけ困ったように、しかし、どこかホッとしたように口元を緩めた。
「松吉への手紙だ。勝手に泣くな」
「……ずるいよ、お父さん。松吉さんに宛てたフリして、私に言ってるじゃない」
「さあな。目が悪くなると宛名もよく見えなくなるからな」
父の冗談にもならない冗談に、私は鼻をすすりながら笑ってしまった。
十五年間、私たち親子の間に横たわっていた分厚く冷たい壁が、墨の匂いと蝉の声と風鈴の音の中で、音を立てずに崩れていくのを感じた。
『松吉。お前がそっちの世界に行く時、俺の光も一緒に持っていってくれ。俺はもう少しだけ、この影だらけの世界で、風鈴の音を聞きながら生きることにする。じゃあな。』
「……以上だ。これで締めてくれ」
私は最後に「令和○年 八月十五日」と日付を書き入れ、静かに筆を置いた。
書き終えた和紙からは、墨の水分を含んだ紙特有の、深く静謐な匂いが立ち昇っていた。私はそれを丁寧に三つ折りにし、封筒に入れた。
気がつけば、外の景色はすっかり変わっていた。
太陽は西の山の稜線に沈みかけ、空は血を流したような鮮やかなオレンジ色から、深い藍色へとグラデーションを描いている。あんなにうるさかったミンミンゼミの声はいつの間にか止み、代わりに「カナカナカナ……」という、ひぐらしの物悲しく涼やかな鳴き声が、谷間を木霊するように響き渡っていた。
夕暮れの風が吹き抜ける。
チリンと風鈴が今日一番の澄んだ音を立てた。
西日が消え、縁側の床に落ちていた風鈴の影は、部屋全体の暗がりに溶け込み、すでに輪郭を失っていた。
「……暗くなってきたな」
父が、見えない目で空を見上げながら呟いた。
「うん。もうすぐ夜になるね」
私は封をした手紙を文机の上に置き、父の隣に並んで座り直した。そして、甚平から覗く、父の骨ばった薄い肩に、そっと自分の肩を寄せた。
汗ばんだ肌と肌が触れ合ったが、嫌な感じはしなかった。むしろ、父の体温が生きている人間の確かな熱として、私の奥深くまで伝わってくるのが心地よかった。
「お父さん」
「なんだ」
「私、明後日まで休みだから、ここに泊まっていくよ。今夜はお父さんの好きな茄子とピーマンの味噌炒めでも作ろうか」
父は少し驚いたように私の気配を探り、それから、今まで見たこともないくらい穏やかに、深く皺の刻まれた目を細めた。
「……ああ。味が濃いめの方が飯が進むからな」
「わかってる。血圧に悪いって怒られそうだけど、今日くらいはいいよね」
私は立ち上がり、台所へ向かって歩き出した。
振り返ると暗闇に沈みゆく居間の中で、父の背中はもう以前ほど小さくも、孤独にも見えなかった。
視力という光を失っていく父の世界には、確かに濃い影が落ちている。けれど、その影の中には、こうして手で触れられる温度があり、共に聴くことのできる風の音がある。
チリン。
再び風鈴が鳴った。その透明な音色は、私たちがこれから一緒に過ごす不器用で新しい時間の始まりを、静かに祝福しているように聞こえた。
台所の電灯のスイッチを入れる。パチッという音と共に、オレンジ色の暖かい光が、古い日本家屋の暗がりを優しく照らし出した。
私は冷蔵庫を開けながら、明日の朝一番で、あの墨の匂いがする手紙をポストに投函しに行こうと決めていた。
風に揺れる風鈴が、私と父を優しく包んだ。




