第9話:魔の因子
ハイエルフと思われる少女、シャーリニィとの共同生活が始まった。
朝、目を覚ませば彼女は既に目を覚ましていた。
ソファーの上で膝を抱え、ぼんやりと窓の外を眺めている。
差し込む朝の光を受けて、灰色の髪が淡く透ける。
よく見れば、その色合いの奥に、かすかな銀の名残があった。
「おはよう。よく眠れたか?」
声をかけると、彼女は俺の方へ視線を向ける。
それだけで、返事はない。
「朝食を取ったら仕事を始める。手伝ってくれ」
そう言うと、彼女は小さく、ゆっくりと頷いた。
反応は最小限。感情も、意志も感じられない。何も主張しない。
食堂で朝食を取る。
女将さんの意味深な笑顔がうるさい。
シャーリニィは終始無言で、淡々と食事を口に運び、音を立てることなく皿を空にした。
落ち着いた様子。与えられたものを消費しているだけのように見える。
食後、部屋に戻り調合作業に入る。
俺は彼女を助手として使うことにした。
秘匿すべき技術はいくつもある。だが口止めのみだ。強制力はない。
元より口数の少ない娘だ。軽々しく秘密を漏らす性格には見えない。
リスクは間違いなくある。
しかし、首輪に頼る手段は選びたくない。
「昨日も言ったかもしれないが、俺は錬金術師だ。君には助手として働いてもらいたい」
「……わかった」
短い返答。感情は読み取れない。
「文字は読めるか」
こくりと、小さく頷く。
それだけ確認すると、簡単な作業を指示した。
薬剤を量る、器具を洗う、薬品瓶を指定した棚へ戻す。
一日、彼女に簡単な作業を命じたが、全て問題なくこなしてくれた。
手順を間違えない。順番を守る。余計なことをしない。
手先は器用だ。ガラス器具の扱いも丁寧で、音一つ立てない。傷をつけるような真似もしない。
助手としては問題ない。
難しい工程を任せるにはまだ早いが、この調子なら十分に戦力になってくれるだろう。
さらに言えば、見た目麗しい少女が手の届く距離にいる。
そんな事実が俺の心を満たしてくれる。
まだ手は出せない。しかし、目を楽しませてくれるというだけでも、彼女を購入した甲斐があるというもの。
彼女を観察していて、ふと思う。
この娘は、俺に媚びる気がまるでない。
奴隷として売られた身でありながら、機嫌を取ろうとする素振りも、情に訴えかけるような態度も一切見せない。
反抗はしない。
命じられたことは、黙ってこなす。それだけだ。
そこには従順さというより、割り切りに近いものを感じる。
おそらく彼女はハイエルフ。
本来であれば高貴で、誇り高い存在。人に使われる立場ではない。使う側だろうに。
それが今は、錬金術師の下働き。屈辱を感じていてもおかしくない。
それでも反抗しない理由は何か。
魔術が使えないという負い目か。
力を失ったことで、自分をハイエルフと認められなくなったのか。
あるいは、すでに、何もかもを諦めてしまっているのか。
彼女がハイエルフとしての力を失った経緯は不明。いつか、話してくれるだろうか。
そして、もう一つ気になることがある。
他のエルフたちの動きだ。
ハイエルフは、エルフを統べる存在だと伝えられている。
エルフのハイエルフに対する態度のそれは、信仰に近いものがあるという。
もしそれが事実なら、エルフたちが彼女を放っておく理由がない。
確かに、エルフは人族と比べれば数の少ない種族だ。
だが、皆無というわけではない。
この街でも、何度かエルフの姿は目にしている。
自分たちが信奉する存在が、奴隷として市場に出され、競売にかけられていた。
それを見過ごすとは考えにくい。
では、なぜ動かない?
単純に、彼女の存在に気づいていない?
あるいは、力を失った彼女をハイエルフとして認めていないのか。
分からない。
だが将来、エルフたちの動き次第では、シャーリニィを手放すことになるかもしれない。
その時、どうするべきか。
今はまだ、結論は出ない。
そんなことを考えながらも、作業は進む。
初日は、基本的な作業内容を教えて終わった。徐々に難しい内容も覚えてもらおう。
頭は良さそうだ。本格的に助手として育ててみるのも良いかもしれない。
一日が終わり、夜。休息の時間。
俺が本を読んでいると、視線を感じた。
顔を上げると、シャーリニィがちらりとこちらを見ている。その胸中は読めない。
就寝の時間になり、俺はベッドに入る。
彼女にも休むように告げると、ソファーに座ったまま、しばらく動かなかった。
そして、ぽつりと呟く。
「……なにも、しないの?」
声は小さく、聞き逃しそうになるくらい。
「ん? どうした?」
聞き返すと、彼女は視線を伏せた。
唇を軽く噛み、それきり黙り込む。
なぜ、自分の身体に手を出さないのか。それが疑問だったのかもしれない。
奴隷として売られる過程で、若い女がどう扱われるかは、嫌でも教え込まれる。
だから、何もしない俺の態度が理解できない。
「確かに君は魅力的だ。けれど、無理に嫌がることをするつもりはない」
少なくとも、今は。
正直に言えば、欲情を覚えないと言えば嘘になる。
魅力的な娘だ。張りのある肌、艶やかな唇、宝石のように透き通った瞳。
服の上からでもわかる、たわわな胸部。スカートから覗く眩しい脚。
全てが男を引き付ける。彼女の全てが俺を惑わせる。
それでも、今は駄目だ。
今、彼女との間に築くべきものは信頼関係。
それがなければこの先、何も得られない。
「……そう」
少し間を置いて、彼女は短く答えた。
それきり視線を外し、ソファーの上で背を向けて横になる。
その背中から感じられる緊張感は、わずかに和らいだように見えた。
彼女はまだ、俺を信用していない。
しかし、完全に拒んでいるわけでもない。
それでいい。今はそれで十分だ。
焦る理由はない。
俺は灯りを落とし、ベッドに横になる。
部屋には、ほどなくして二つの呼吸音だけが残った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エルフの少女シャーリニィとの生活が始まって、数日が過ぎた。
彼女は助手としてよく働いてくれる。
だが同時に、彼女自身もまた、俺にとっての重要な研究対象でもある。
ハイエルフである可能性を秘めた個体。
それを放っておくわけにはいかない。錬金術師としてあり得ない。
むしろ彼女の研究こそが、本命だったのだから。
まずは基礎的な生体観察から。
脈拍、呼吸数、瞳孔反応。
簡易的な魔力感応検査も併用し、数値を一つずつ記録していく。
彼女は椅子に座り、されるがままだ。背筋を伸ばし、姿勢は崩れない。
無言で、視線だけがこちらの手元を追っている。
灰色の髪の毛も数本を採取。
髪に触れると、蒼い目を細めて俺を見上げる。
「……それ、いる?」
ぽつりとした問い。
不満というより、単純な疑問らしい。
「ああ。数本だけ調べさせてくれ」
それ以上は何も言わず、彼女は大人しくしていた。
顕微鏡で構造を確認。
表層組織、芯部の結晶配列、魔力伝導率。いずれも通常のエルフと変わらない。
人間との違いも誤差の範囲に収まっている。
強いて言えば、全体的に体力値が低い。
栄養状態と精神的消耗によるものか。
「……終わった?」
小さく、短い声。
必要最低限しか喋らない彼女らしい。
「いや、次は血液検査だ」
俺の言葉に、一瞬視線が泳ぐ。
そして針を刺す瞬間、ギュッと目をつぶって耐える。
普段はツンと澄ました彼女の、見た目相応の可愛らしい反応。
つい頬がゆるむ。
そんな俺に気づき、慌てて顔を逸らす彼女がまた可愛らしい。
ともかく、採取した血液を分析する。
採取した血液を分離し、試薬を加える。沈殿、反応色、魔力感応の変化。
一つずつ工程を進め、数値を読み取る。
そこで、異変に気づいた。
これは……?
人間とも、通常のエルフとも明確に異なる検査結果。
一点、決定的な差異があった。
彼女の血液には、サイレクス因子と呼ばれる成分が含まれていた。
それが、明らかに異常な数値を示している。
サイレクス因子とは、魔力を物質化し、顕在化させる生成要素。
魔術を成立させる際のエネルギー基盤とも言えるものだ。
一般的な動物の体内から検出されることはない。
どれだけ魔力適性が高くとも、この物質は検出されない。
例外があるとすれば――
魔物だ。
スライムやゴブリンといった下級魔物から、ドラゴンに至るまで。
あらゆる「魔物」と呼ばれる存在の体内には、必ずサイレクス因子が存在する。
それは魔石の核形成に関与する。魔物が魔物である理由、その根幹とまで言われる。
一方の、人間やエルフ、魔力を持たない動物からサイレクス因子が検出された例は、一つもない。
つまり、この数値は示している。
彼女が、人間やエルフよりも、魔物に近い存在であることを。




