第26話:二人の感情
新しい生活は、慌ただしく動き出した。
作業場と居住空間を兼ねたこのアトリエは、三人で暮らすには十分な広さを備えている。
ナト用の寝具、机、衣類棚を追加で発注し、居住区の一室を彼女の部屋として割り当てた。
「勝手に決めて悪いが……」
ここは、もともとナトの父のアトリエだ。借金のカタに差し押さえられ、俺が買い取ったのだ。
人の家に入り込んだような気まずさがある。
「いえ、大丈夫です。師匠にご迷惑をおかけするわけにはいきません。それに、このアトリエが建ってすぐに父は他界しましたから」
この家への思い入れや想い出は、それほど無いらしい。
なら俺が気にする必要も無いか。
そして、奴隷兼弟子となったナトは、俺のことを師匠と呼ぶと決めたようだ。
若干、むず痒い。
そんな様子を、シャーリニィは少し離れた位置で見ていた。無言である。
「シャーリニィ、どうかしたか」
「いえ、何も。ご主人様が決めたことですから」
声音は変わらないが、どこか冷たいものがある。
ナトはそんなシャーリニィをちらりと見て、すぐに視線を逸らした。
引っ越しが落ち着けば、研究と講義の始まりだ。最初の題材は、基礎中の基礎であるポーション。
俺は一本のポーションを取り出し、作業台に置いた。淡い緑色の液体が、瓶の中で静かに光を放つ。
それを見た瞬間、ナトは目を見開く。
「えっ、これって……」
「薬効濃度を測ってみろ」
戸惑いながらも、ナトは器具を手に取り、慎重に測定を進める。
「100%!? 誤差を考えても98%以上。この濃度、まさか、これって、エリクサーじゃ!?」
何度も計測が正しいか確認している。
「そうだな。そう呼んでもいいかもしれない」
「ど、どうやってこんなものを」
通常のポーションの濃度は、下級で10%程度。上級でも精々60%しかない。
多くの錬金術師が、ポーションの濃度を上げるために日夜研究している。しかしそれが実ったという話は聞かない。
沸騰させれば薬効が飛んでしまう。薬剤を使用すれば薬効が消える。それがこの世界のポーションの常識だ。
「通常のポーションを加工、水分を分離しただけだ」
「分離? ポーションと水は不可分のはずでは?」
ポーションは沸騰させれば薬効が消えると言われている。
それは薬効成分が約80℃で揮発するからだ。加熱すれば水より先に消えてしまうのだ。
だが俺は蒸留することで成分を濃縮させた。
蒸留という概念を示し、実際に低品質のポーションを用いて工程を再現する。加熱、冷却、分離。純粋な液体が生まれる。
「こんな手段があったなんて……発想そのものが、まるで違う」
ナトの声は震えている。
「すごい功績じゃないですか。公表はしないんですか?」
「したらどうなると思う?」
問い返すと、彼女は言葉を詰まらせ、やがて小さく首を振った。
「……大変なことになります」
そう、この技術が広まれば、錬金術学会、薬屋、その他ポーションに関わる業界に大混乱を引き起こすだろう。
「下手に外に漏らすわけにはいかない」
ナトは一拍置いて、強くうなずいた。
「はい。むしろ当然だと思います」
俺の元で働くために、奴隷契約が必要となる理由を、彼女も理解したようだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数日を共に過ごして分かったことがある。
ナトは突出した才能を持つわけではない。だが、失敗が少ない。作業は丁寧で、手順を省かず、結果を必ず記録する。
観察力と忍耐力が異常なほど高い。
俺が日本語で書き殴った覚え書きも、意味が分からないなりに写し取っていた。
ある日のこと。
「ナト、塩酸の瓶を取ってくれ。右上の――」
「これですか?」
俺が説明する前にナトは探し出し、取り出した。
日本語で書いていたそれを。
「……なんで分かった?」
「おおよそは覚えました。こちらは酸性、こちらは塩基性を表しているように思います。反応結果と並べて見ていたら、対応している気がして」
数日でそこまで読み取るとは、予想外だ。
日本語に関してちゃんと教えたわけでもない。それなのに自力で覚え、推測し、解読したのか。
この娘、思っていたより優秀だ。掘り出し物かも知れない。
「そうか、大したものだ」
俺の言葉に、ナトは耳まで赤く染め、慌てて視線を落とす。
もっとも、すべて完璧な優等生というわけでもない。
初日の蒸留では、冷却のタイミングを誤り、器具を一つ割った。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「いや、いい。落ち着いてやれ」
「……はい」
表に出せば、世界を混乱させかねない知識だ。緊張するのは仕方ない。
心理面では、まだまだ未熟な少女だった。
そんなやり取りを、ハイエルフの少女は静かに眺めていた。
俺がナトの質問に答えるたび、シャーリニィは一拍遅れて作業に戻る。
必要な魔法は正確で、完璧だ。だが、いつもよりほんの少しだけ、間がある。
「……終わりました」
「ああ、助かる」
礼を言っても、彼女は一瞬だけ視線を逸らした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一方で、ナトとシャーリニィの距離は一向に縮まらない。
同じ屋根の下で生活していても、二人の間には見えない壁が残り続けている。
ナトは、シャーリニィを本能的に怖がっているように見えた。視線が合えば小さく肩をすくめ、近づかれれば一歩引く。理屈ではなく、生き物としての直感による反応だろう。
生物の枠をはるかに超えた存在を前にしたときの、防衛本能に近い。
一方のシャーリニィは、ナトにほとんど関心を示さない。敵意があるわけではない。
ただ、同格の存在として認識していない。
俺以外の人族を、人として見ていないのだ。それがハイエルフとしての常識なのかもしれない。
錬金術の話になると、二人の立ち位置はよりはっきりする。
ナトは、俺の説明に必死で食らいついてくる。言葉を噛み砕き、式を書き写し、意味を考え、失敗しても食らいつく。
彼女の姿勢は、技量こそ未熟でも、錬金術師としては俺に近い。
その様子を、シャーリニィは少し離れた場所から、黙って見ていた。
彼女のハイエルフとしての力は圧倒的だ。
研究を進めるうえでも、これ以上ないほど重宝している。高温高圧の付与、精密な魔力制御、危険物質の隔離。人族の術師では準備に数刻かかる工程を、彼女は一瞬で整えてしまう。
俺の現在の研究環境は、間違いなくシャーリニィの存在あってこそだ。
だが、それらはすべて、俺が指示した作業をこなしているだけに過ぎない。
なぜそうするのか、結果として何が起きるのか。その意味を、彼女自身は理解できていない。
それが、彼女の中で引っかかっているのだろう。
絶対的な力を持ちながら、俺の思考に近づけない。錬金術という一点においては、ナトのほうが俺に近い場所に立っている。
そして問題はシャーリニィだけではない。
「師匠の目には、どんな風に世界が見えてるんだろう……」
ふと聞こえた、ナトのつぶやき。
振り返ると、ナトは慌てて手元のノートを閉じた。
書かれていたのは、錬金式ではない。俺が以前、口にした言葉の書き写しだった。
「な、何でもありません!」
顔が赤い。
隠そうとして、余計に目立っている。
師として接する俺への尊敬は、いつの間にか別の色を帯び始めていた。その変化に、彼女自身はまだ気づいていない。
視線は無意識に俺を追い、俺が名を呼ぶたびに表情が緩む。
それを見るシャーリニィは、やはり無表情。
感情を抑えているのか、自身の感情を理解できていないのか。
俺とシャーリニィは、すでに恋人関係にある。
そこへナトが割り込むことになれば……
何とかした方がいいだろう。
今のところ、大きな問題は起きていない。表面上は平穏だ。
だが、この微妙な距離感は健全とは言えない。
何より、俺の居心地が悪い。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある日、俺はシャーリニィとナトを連れて街へ出た。
つい最近まで拠点にしていた、定食屋を兼ねたあの宿だ。
「今日は外食ですか?」
ナトは少し弾んだ声で言った。
アトリエに引き取ってからというもの、彼女は必要以上に遠慮している節がある。外で食事をするというだけで、ちょっとしたイベントのように感じているのだろう。
「用事も兼ねてな」
「お仕事ですか?」
「そのリンスの納品だ」
「これですね。髪がサラサラになるやつ」
昼時を少し外しているが、中からは香ばしい匂いが漂ってくる。焼いた肉と香草、煮込みの匂いが混じった、腹に直撃するやつだ。
「あら、いらっしゃい!」
出迎えてくれたのは、いつもの女将さんだ。
恰幅がよく、快活。街の噂話が自然と集まってくるタイプの人物だ。
その視線が俺の後ろへ移る。
「おや、今日はお連れさんが増えてるね」
「新しく弟子を取りまして」
「ナ、ナトです。よろしくお願いします!」
ナトが慌てて一歩前に出て、ぺこりと頭を下げた。
その仕草に、女将さんは一瞬目を細め、それから朗らかに笑った。
「礼儀正しい子だねえ。あんたの弟子なら安心だ」
俺が促すと、ナトはカウンターに荷物を置き、小さな瓶を丁寧に並べていく。
「どうぞ」
「助かるわぁ。そろそろ尽きる頃だったのよ」
女将さんは一本手に取り、栓を開けて軽く振り、香りを確かめた。
「いつものね」
「彼女が作りました。成分は同じです」
「へえ」
女将さんは感心したようにナトを見る。
「初めてでこれは上出来よ。下手な錬金術師より、よっぽど丁寧じゃない」
女将さん、適当なことを言っているな。
リンスは材料を混ぜただけだ。誰が作っても品質に差はない。
「ほ、本当ですか!?」
「ええ。これなら安心して使えるわ」
ナトはぱっと顔を明るくした。
彼女の自信につながったならそれでいいか。
横で見ていたシャーリニィは、特に口を挟まず、静かにその様子を眺めていた。視線はナトに向いているが、感情は読み取れない。
料理を待つ間、女将さんが水を置きながら、雑談めいた調子で口を開いた。
「……ところでね」
そう言ってから、少しだけ声を落とす。
「何か?」
「最近、ちょっと変なのが多いのよ」
俺は首を傾げる。
「変、とは?」
「宿組合から勧告が出てるくらいでね。身元の怪しい客が増えてるの」
この街は交易都市、普段から様々な人間が出入りする。
そして宿というのは、特に外部の人間が集まる施設だ。その宿を経営する人々から見ても胡散臭い連中。よっぽどだ。
「冒険者とは違う?」
「ええ。装備も妙だし、祈る仕草がどこかおかしいって」
女将さんは声をさらに潜めた。
「邪教徒がこの街に出入りしてるって噂よ」
「邪教、ですか」
邪神を崇め、その眷属である魔王に従う連中。
「別に騒ぎが起きたわけじゃないけどね。ただ、気味が悪くて」
「なるほど」
「特にあんた、面倒ごとを引き寄せる体質みたいだから、気を付けなさいな」
「ははは、酷い言われようだ」
笑い話のように返しながら、俺は内心でその言葉を反芻した。
邪教徒。
きな臭い話だ。
俺たちはつい先日、魔王と相対した。
戦いの果て、魔王は滅びた。シャーリニィの力、俺の錬金術、そしてハイエルフの勇者の意思の力によって。
魔王はもう居ない。
その滅びたはずの魔王に従う連中が、この街に集まっている?
女将さんがその場を去ると、シャーリニィがぽつりとつぶやく。
「……気に入りませんね」
「ああ」
珍しく感情を表に出すハイエルフの少女。
俺もそれに同意する。
ナトはそんな会話の意味を完全には理解できていない様子。それでも空気の変化は感じ取ったのだろう。背筋を伸ばし、無言で湯飲みを両手で持っていた。
平和が戻ったはずの日常。
そこに、いつの間にか不穏な匂いが混じり始めていた。




