第1話:王水と転生者
「――このように、魔石は金と同様、完全な物質であり、いかなる酸によっても溶解することはない」
広い石造りの講義室。錬金術の講義室に、教授の声が響く。
俺は、教授の言葉に違和感を感じた。金と同様に溶けない?
思わず挙手して質問する。
「教授、先ほどの説明では、まるで金も酸に溶けないというふうに聞こえましたが……」
教室に一瞬の静寂が落ちる。白髪交じりの老教授は、鋭い視線を俺、俺に向けた。クラスメイトたちの視線も一斉に集まる。
「何を言っている生徒ローゲン。金は塩酸にも硫酸にも溶けない。それは初等教育でも学ぶ基本知識だろう」
「……はい。確かに、そのように教わりました」
頷きつつも、心の奥には釈然としない感覚が残る。
周囲からクスクスと小さな笑い声が聞こえる。優秀な平民の同級生の些細な間違いを笑っている。
「しっかりしたまえ。続けるが――」
教授が講義を続けるのを聞きながら、俺は考える。
身分差からくる嘲りや、学力に対する嫉妬からくる周囲の嘲笑も今は気にならない。俺は思考に浸る。
金は塩酸にも硫酸にも溶けない、そう教えられたのは確かに覚えている。しかしおかしい。
俺の頭の中で、前世の知識が教授の言葉を否定する。
金は王水――確か塩酸と硝酸を混ぜた液体には溶けるはずだ。俺は前世の知識でそれを知っている。
しかし何故教授はそれを否定した? この帝国でも超一流の錬金術師である彼が。
そこで、そういえば……と思い至る。
転生して以来、この世界で「王水」に相当する言葉は聞いたことが無かった。似たような概念すら出てこなかった。
何故?
ここは魔法と錬金術が存在する異世界だ。地球とは科学法則が違う可能性は当然ある。この世界では金を溶かす液体が存在しないのかもしれない。
しかし俺が転生してからこれまで学び観察してきた限り、錬金術や魔法が関わらない範囲において、科学法則は地球と同じだった。
であれば、この世界においても金は王水に溶けるのではないか? にもかかわらず金が溶けないとされているのは何故か?
ひょっとしてこの世界、王水がまだ発見されていないのか?
もしそうだとしたら、俺が王水を再現し、この世界にその存在を知らしめることができたなら?
俺は、異世界における化学史の1ページに名を残せるかもしれない。
そんなことを考え、俺は期待に胸を躍らせていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
俺は転生者だ。
前世では地球と呼ばれる星で、平凡な人生を送っていた。日本のどこかで生まれ育ち、普通の生活を過ごしていたはずだ。
死因は不明。事故だったのか、病気だったのか、それともただの過労か。
気づけばこの世界の赤ん坊として、生まれ変わっていたのだ。この剣と魔法のファンタジーな世界に。
何故か前世の記憶を持ったまま異世界に転生し、何故か孤児になり、孤児院に預けられてしまった。
孤児になった理由はよくわからない。転生したての頃はこちらの言葉も分からず、状況を理解できていなかった。
この世界は、科学技術があまり発達しておらず、代わりに魔法が存在する。そして、人間を襲う魔物までもが日常的に出没する過酷な環境だ。
孤児など珍しくもなく、俺のような存在はこの国ではよくある話として片付けられてしまう。
そんな中で、俺にとって唯一の救いだったのは、この国に奨学金制度が存在していたことだ。
前世での知識と教養が幸いして、俺は周囲から神童とまで称されるようになった。もちろん、努力も惜しまなかった。
手なんて抜けない。ここは平和で豊かな日本ではないのだ。
「ちょっと優秀」程度では奨学金はもらえない。
「よっぽど優秀」でなければ孤児のガキに支援なんて与えられない。
奨学金が無ければ孤児には学問を学ぶ手段がない。孤児の俺にはコネもない。そして学問もコネもなければろくな職に就けない。
ろくでもない職とは何か? 女なら娼婦、男なら冒険者だ。
冒険者、響きは格好いいかもしれないが、実態は死と隣り合わせの危険な稼業だ。
魔物が棲む森で薬草を採取したり、魔物を狩ってその素材を売ったり。命をチップに綱渡りの日々。
孤児院の先輩たちの多くが冒険者を選んだ。いや、選ばざるを得なかった。彼らには他の道がなかったから。
そして、数年も経たないうちに、誰かが死に、誰かが行方不明になったという報せが届く。
彼らにとってはそれが当たり前だったから、何の疑問も持たずそうしていった。
しかし転生者である俺は、平和で安全な世界を知ってしまっている。
冒険者として命を削るような人生なんて、冗談じゃない。そんな生き方はごめんだ。
せっかくファンタジーの世界に転生したというのに、再び受験戦争に身を投じることになるとは、正直、複雑な気持ちもあった。
だが他に選択肢は無い。
この第二の人生で与えられた肉体は健康ではあるが、身体能力は平凡そのもの。剣を振るうにも、魔法を操るにも、秀でた物は持っていなかった。
そして並程度の身体能力では、冒険者として長生きはできない。
そんなわけで、俺は必死で勉強した。
幸いにも前世で養った科学知識、計算能力はこの世界でも十分通用した。そして語学や社会科、歴史等も、漫画や小説の設定を覚えるかのように楽しんで勉強できた。
中でも興味を引かれ、優秀な成績を叩き出した科目――それが、錬金術だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして数年後。
結論から言うと、王水は作れた。
ここは帝立錬金術研究所。その一室、俺に与えられた研究室だ。
俺は必死に勉強し、帝立学院を(実質)首席で卒業し、帝立錬金術研究所の研究員にまで上り詰めた。
ここでは硫酸や硝酸の原料も当然手に入る。それらを濃縮し、混ぜるだけでよいのだから、王水は問題なく完成してしまった。
学生時代には調達できなかった素材。それさえあれば、こんなにも容易いものだったのかと、むしろ肩透かしさえ感じたほどだ。
ともかく、王水は完成した。そして、やはりこの世界でも王水は金を溶かすということを確認できた。
それどころか、王水にスライムから抽出した体液を加えることによって、魔石まで溶かせてしまった。
まあ、こちらは発見までに結構な時間と手間がかかったが。
魔石を溶かす王水、名付けるなら魔王水ってところか。
研究室で一人、考える。ビーカーの中でシュワシュワと泡を出しながら溶ける魔石を眺めながら。これをすぐに公表してしまうか否か。
魔石、このファンタジー世界における最も重要なエネルギー源だ。魔術も、魔道具も、魔石に宿る魔力を消費して動く。
魔石は魔物から採れる。小はスライムから大はドラゴンまで。
小さな魔石は供給量の多さの割に用途が限られ、大した価値はない。それに対して大きな魔石は非常に高価である。
大きな魔石になるほど産出量は減り、逆に需要は増える。
魔石の希少価値はサイズに対して加速的に上がる。
そこで、俺が発見した魔王水の真価が発揮される。
溶かした魔石を再結晶させるとどうなるか? 今溶かしているのはスライム産の魔石だ。直径5mm程度の、光を放つ真っ白な球体。子供の小遣いでも買える程度の最下級の魔石。
これを二つ溶かし、再結晶させる。体積は倍、魔力含有量も倍。だが、価格は四倍か、それ以上になるだろう。
つまり、俺の生み出した魔王水で魔石を再結晶させれば…… 溶かして固めるだけで価値が跳ね上がる。まさに、錬金術。
研究室の隅に無造作に置かれた麻袋を見る。研究用にまとめ買いしたクズ魔石の袋だ。入っている魔石の量はざっと20kgほどだろうか。
仮にこれを全て溶かし、一塊の魔石に再結晶させたらどれほどの価値になるか? その価値は国宝級、いや、伝説級になるかもしれない。
ドラゴンを倒したってそんな魔石は手に入らないだろう。少なくとも俺はそんなサイズは聞いたことが無い。
だが、今の俺なら簡単にそれを作れる。
しかし、本当に公表していいのか? 大事になるのは間違いない。
まあ国宝級の価値を持つのは最初だけだ。技術が広まれば価格は相応に下がる。
巨大魔石が量産可能になれば、魔道具や魔法の技術は飛躍的に進化する。人類の文明は新たな時代を迎えるだろう。
それは一見、素晴らしい未来に思える。だが、同時に、魔石に依存しているこの世界の経済は根底からひっくり返る。
冒険者、傭兵、兵士など、魔物を狩り、魔石を採取する者たち。
魔石を買い取り、取引する商人や冒険者ギルド。
魔石を財産として抱える貴族や資産家。
そして、既存の知識を正としてきた学者たち。
俺の魔王水は、彼らの生活を一変させる。恩恵を受ける者もいれば、破滅する者も出るだろう。
そしてそんな大混乱の発端は自分。どれだけの恨みを買うだろうか。想像したくもない。
この世界に生きて、嫌というほど思い知った。ここはかなりの身分社会だ。
俺は学力は第一位にもかかわらず、主席にはなれなかった。卒業式で表彰される上位の席は、貴族のおぼっちゃん達が独占していた。
首席の立場に平民が立つなど許されないのだ。
そんな身分社会において、平民の俺が重大な発見をするとどうなるか?
功績を奪われる程度で済めば幸運と言える方だ。最悪は、発表前に消されるかもしれない。
……そもそも、これまで本当に誰も王水を作っていなかったのか?
王水なんて塩酸と硝酸を混ぜるだけで作れる。塩酸も硝酸も存在は知られている。
この世界の錬金術の歴史で誰も作っていないというのは違和感がある。
ひょっとしたら、意図的に隠されている? 何のために? 決まっている。生み出される利益を独占するため。
もしそうなら、俺の発見は既得権益層にとって危険極まりない脅威となる。
そして、その矛先は、間違いなく俺自身に向く。
公表するメリットは皆無、リスクは莫大。
やはり、隠すしかない。
匿名で発表し、他人に功績を譲るという手もあるか?
いや、そこまでする意味もない。俺は自分の利益を捨ててまで世界の発展を望むような出来た人間じゃない。この発見は世に出さず、俺自身のために使うとしよう。
ただし問題は、俺が錬金術研究者でしかない点。俺は魔石の消費者であって、産出者ではないということだ。
派手に稼ぐと税務院に睨まれる。大きな魔石は官憲に出所を疑われる。少額でもあまり長く続ければ怪しまれる可能性がある。
この世界全体で見ればそうではないのだが、こと帝都に限れば現代日本と同じ程度には世知辛い。
ならばどうする?
帝都を出ればその辺りは割と緩いと思う。収支を厳密に監視されない地方なら自由に大儲けできそうだ。
だが、今の研究員としての立場を捨てるのも惜しい。設備も、環境も、何より安全も、ここにはそろっている。
そこまで考えたところで、コンコンとノックの音。
「ローゲン研究員、局長から呼び出しです」
と、扉越しに、研究所職員の声が響く。
「分かりました。すぐ向かいます」
魔石を溶かしたビーカーを棚にしまいながら応える。
なんにせよ、急いで決断する必要はない。この時は、そう考えていた。




