第7話:パンのカビが救う命
エリゼが辺境伯領で作り出す薬は、化粧品ばかりではない。彼女の本命はあくまで医療分野だ。
特に彼女が力を入れたのは、感染症対策だった。この世界では、小さな傷でもすぐに膿が回り、化膿して死に至ることが多い。魔法での治癒は傷を塞ぐことはできても、体内の菌を殺すことはできないからだ。
ある日の深夜、エリゼは実験棟で『飲む輸血ポーション』の調合をしていた。すると、辺境伯ジークハルトが、慌てた様子で血相を変えて飛び込んできた。
「エリゼ! 大変だ! 鉱山で落盤事故があった。大勢の負傷者が出ている」
「怪我の程度は?」
「問題は少年だ。鉱夫の一人、ディランの息子が、腕を複雑骨折した。騎士団の治癒魔法師たちが処置を施したが、すでに高熱が出て、腕が異臭を放ち始めている。このままでは腕を切断せねば命が危ない」
エリゼはすぐに現場へ向かった。
臨時の救護室として使われている広間には、苦悶の表情を浮かべる少年ディランが横たわっていた。彼の折れた腕は、確かに赤黒く腫れ上がり、悪臭を放っている。
(酷い感染症ね。この世界の治癒魔法は、治癒力を高めるだけで、抗菌作用はない。まさに前世でいうところの化膿性レンサ球菌感染症だわ)
魔法師がいくら祈っても、少年の熱は下がるどころか、痙攣を繰り返していた。
騎士団長が、ジークハルトに苦渋の決断を迫る。
「辺境伯様。このままでは間に合いません。腕を切断して、命を救うしか……」
「待ちなさい」
エリゼが静かに声を上げた。
「切断などしなくても、助けられます」
周囲の騎士たちは、エリゼの言葉にざわめいた。いくら辺境伯の寵愛を受けているとはいえ、彼女はまだ20歳そこそこの女性だ。
「薬師殿、何を仰る! 我々の聖なる祈りも効かぬのだぞ!」
「聖なる祈りでは細菌は死にません。細菌には、細菌の力をぶつける必要がある」
エリゼはそう言って、慌てて実験棟に戻った。
実験棟に戻ったエリゼが、真っ先に探したもの。それは「パン」だった。
「ルーカス! 一番古くて、青いカビが生えているパンを、今すぐ見つけてきて!」
「青いカビ、でございますか? 毒として知られるカビを?」
「いいから急いで! 命がかかっているの!」
ルーカスは半信半疑ながらも、エリゼの切迫した表情に押され、古いパンを見つけ出してきた。
エリゼは、そのパンに生えた青いカビを慎重に削り取り、特殊な液体に浸した。そして、それを何段階も濾過し、魔力の熱で加熱殺菌し、濃縮する。
(大丈夫。成分は間違いなくペニシリン。青カビの代謝物が細菌の細胞壁合成を阻害する。この抽出液を投与すれば、熱は必ず下がる!)
抽出作業には、時間との戦いだった。彼女は全身全霊を傾け、約一時間後、数滴の淡い青色の液体が入った小瓶を完成させた。
再び救護室に戻ったエリゼは、その液体を少年の口に含ませようとした。
「お待ちください、薬師殿!」騎士団長が制止した。
「その青い液体は、カビから作られた猛毒ではないか!? 聖女様を殺そうとした前歴があるあなたに、これ以上の暴挙は許されない!」
場に緊張が走った。ジークハルトは、エリゼの目を見た。彼女の目には、迷いも恐れもなく、ただ研究者としての「確信」だけがあった。
「ジークハルト様、信じていただけますか?」エリゼが問うた。
ジークハルトは静かに頷いた。
「エリゼが、私のために毒のゼリーを飲ませた時と同じ目だ。手を離せ、騎士団長。私はこの薬師を信じる」
ジークハルトの言葉に、誰も反対できなくなった。
エリゼは、迷わず淡い青色の液体を少年の口に流し込んだ。
「さあ、後は祈るのではなく、待つだけです」
そこからの数時間、救護室は異様な静寂に包まれた。
魔法師たちは無力な自分たちを恥じ、騎士たちは不安げに少年の様子を窺う。ジークハルトは微動だにせず、ただエリゼの隣に立っていた。
そして、夜が明ける頃。
少年の額に、じっとりと汗が滲み始めた。痙攣は止まり、熱が下がり始めている。
やがて、少年が薄く目を開けた。
「……父さん?」
「ディラン!」
鉱夫の父が泣き崩れた。少年は腕の痛みが消え、腫れが引き始めていることに気づいた。
騎士団長が、恐る恐る彼の腕を診察する。熱は平熱に戻り、脈は安定している。腐敗していた組織は奇跡的に再生し始めていた。
「ば、馬鹿な……! 聖なる祈りでも治らなかった重症が、一晩で……!」
騎士たちは、エリゼをまるで神のように見つめた。 騎士団長は、すぐにエリゼの前で膝をついた。
「薬師エリゼ様。我々の無知をお許しください。この奇跡の粉は、まさしくこの世界を救う霊薬です。我々は、あなたを『魔女』ではなく『聖薬師』と呼ばせていただきたい!」
彼らは一斉にエリゼに頭を下げた。
エリゼはただ淡々と言った。
「『奇跡の粉』ではありません。これは、ただの『抗菌物質』です。パンの青カビは、この辺境の土壌に最も強く生息していました。この環境が、この薬を生み出したのです」
彼女は再び、辺境の素材の可能性に胸を熱くした。この成功で、エリゼは医療分野での地位を不動のものとした。
ジークハルトは、静かにエリゼの手を握った。
「君の知恵が、多くの命を救った。ありがとう」
「お礼なら、抗菌物質の大量培養装置の建設費をください。その方が、領民は喜びます」
エリゼは相変わらずドライだったが、その手はジークハルトの大きな手の温もりを感じていた。
こうして、辺境はエリゼの医療技術によって、王都よりも遥かに安全で、衛生的な土地へと変貌を遂げた。




