第5話:王都の腐敗と聖女の誤算
エリゼが追放されてから半年。王都セントラルは、徐々に腐敗の匂いを漂わせ始めていた。
カイル王子と聖女ミナの婚約は、世間的には理想のカップルと称賛されていたが、その実態は違った。
カイル王子は政務をミナに任せきりで、毎夜パーティーに明け暮れていた。ミナはミナで、公爵令嬢だったエリゼほど優秀な補佐役ではなく、彼女の進言はほとんどが私的な嫉妬や感情に基づいていたため、政治は滞る一方だった。
特に問題だったのは、国境付近の商業ルートの衰退だった。
北の辺境伯領は、以前は魔獣が多発する危険地帯だったため、商業は細々としていた。しかし最近、その辺境伯領から、驚くほど美しくなる薬や、傷を瞬時に治すポーションが、隣国経由で密かに流れ込んでいるという噂が立っていた。
「カイル様、その辺境伯領の噂、気に障りますわ」
ミナは顔をしかめた。彼女の肌は、以前よりも悪化していた。
「辺境の土人が作った薬など、まがい物に決まっているだろう」
王子はそう言ったが、内心では気が気ではなかった。辺境の商売が活発になれば、王都の商業権益が奪われる。しかし、今さら辺境に兵を出す余裕もなかった。
「そもそも、あのエリゼが追放されてから、どうも運気が下がりっぱなしですわ」
ミナの視線が、化粧台に置かれた小瓶に注がれた。
それは、半年前、エリゼが残していった『美肌化粧水・試作品』だった。
エリゼは追放される直前、自室にこの化粧水を置いていった。ミナは「毒婦の残した毒」ではないかと疑いながらも、その美しい黄金色の液体に抗えなかった。
――初めて使った時の効果は、驚異的だった。
一晩で肌のハリが戻り、長年の悩みの種だったニキビ跡が薄くなったのだ。ミナは狂喜し、この『奇跡の化粧水』を誰にも見つけられないよう、自分の部屋の隅に隠し持っていた。
「この化粧水だけは、エリゼが唯一まともな物を残したのかもしれません。ただ……」
ミナは小瓶を手に取り、眉をひそめた。
「この頃、少しベタつきと、妙な生臭い匂いがする気がして……。でも、もったいないから捨てられないわ」
エリゼが作ったこの化粧水には、保存料が一切入っていなかった。自然の酵素と、特別な抽出法で作られたため、効果は絶大だが、極端に劣化が早かった。
エリゼはかつて、口頭で「これは要冷蔵の生ものです」と警告したが、カイル王子はそれを「毒を盛るための呪文」と断罪し、ミナも真剣に聞いていなかった。
そして、この王都の暖かく湿度が高い部屋で、半年間、常温で放置され続けた化粧水の中では――雑菌が猛烈な勢いで繁殖し、猛毒へと変貌していたのだ。
その夜、王宮では最大の社交パーティーが開かれた。
ミナは、化粧水に残ったわずかな量を「これを使えば完璧」と信じ込み、顔全体にたっぷりと塗りたくった。
パーティーが始まり、ミナがカイル王子の腕に抱かれて登場した瞬間、会場の貴族たちはざわめいた。
「ま、まさかあれは……」
「聖女様の顔が!」
ミナの顔は、美しい白さどころか、真っ赤に腫れ上がり、まるで毒性の強い魔獣の鱗のように、青黒い蕁麻疹が浮き出ていた。痒みに耐えられず、ミナは優雅なドレス姿にも関わらず、顔を激しく掻きむしってしまった。
「痛い! 痒い! 熱い! な、何なの!?」
カイル王子は慌ててミナを抱きかかえた。
「ミナ! どうしたんだ!?」
「あの……あの、毒婦の、エリゼの……うう、呪いよ!」
ミナは泣き叫び、毒と化した化粧水の小瓶を床に叩きつけた。
パーティーは地獄絵図と化し、王子の評判は地に落ちた。聖女の「美」も「聖なる力」も、所詮はハリボテだったことが露呈したのだ。
王都の宮廷薬師たちが集められ、ミナの治療に当たったが、効果はなかった。なぜなら、その毒素は彼らの見たことのない複雑な化学構造を持っていたからだ。
ミナは自室に籠もり、毎日顔を覆い隠す生活を強いられた。王子の怒りは、自分を罵ったエリゼに向けられたが、そのエリゼは遙か辺境にいて、手出しができない。
この頃、辺境伯領から派遣された少数の商人が、王都に到着していた。彼らはひそかに、辺境の特産品を売り込むためだ。
彼らはパーティーでのミナの惨状を聞き、鼻で笑った。
「ふん、あれではまるで、辺境の冬風でボロボロになった肌だな」
「我々の奥方たちの肌を見ろ。エリゼ様のおかげで、王族よりも美しいわ」
そして彼らが商談で取り出した商品の一つが、『魔力UVカット・プロテクションクリーム』だった。
「これは、我々が極寒の太陽から身を守るために使う、軍用のクリームでございます」
商人の肌の美しさに驚いた貴族たちは、そのクリームを競い合うように買い占めた。
こうして、エリゼが追放された辺境伯領は、軍事的な脅威とは無関係に、経済と美容という側面から王都の権威を静かに侵食し始めていた。
辺境が栄え、王都が荒れる。その構図は、半年前にエリゼが「毒」と断罪された瞬間に、すでに決定づけられていたのかもしれない。
カイル王子は自室で荒れ狂った。
「呪いめ! 毒婦め! なぜあの女を殺さなかった!」
しかし、その言葉は誰にも届かず、彼の憤怒は、荒れ果てた王都の片隅で虚しく響くだけだった。




