第3話:辺境伯の『呪い』を科学する
「毒婦」エリゼが作った『スライム由来・保湿美容液』は、辺境伯領の女性たちの間で瞬く間に評判となった。
過酷な環境に耐える肌を手に入れた彼女たちは、エリゼへの警戒心を解き、代わりに感謝と尊敬の念を抱き始めた。
エリゼはその成功を気に留めることなく、辺境伯ジークハルトの「呪い」の研究に没頭していた。
「ルーカス、辺境伯様の血液と、変色している皮膚の一部、それと彼の常用している薬草をすべて用意できますか?」
執事のルーカスは、以前とは打って変わって、信頼の眼差しで頷いた。
「はい、エリゼ様。辺境伯様より、全面的な協力を命じられています。特に皮膚の組織は、ご自身で切り取られたそうです」
(皮膚の組織? ジークハルト様、なんて研究熱心な被験者……!)
エリゼは提供されたサンプルに感激し、地下室で分析を開始した。
血液は「精製魔法」で成分ごとに分離し、皮膚組織は「構造解析」の魔法で細胞レベルまで調査する。
三日後。エリゼは結論に至った。
「やはり『呪い』ではないわ。これは……慢性的な毒素の蓄積と、遺伝的な酵素欠損の合わせ技ね」
ジークハルトは、先代の辺境伯から受け継いだ体質により、毒素を分解する特定の酵素が非常に少ない。そして、長年にわたる最前線での魔獣討伐で、彼は知らず知らずのうちに魔獣の体液に含まれる特殊な色素毒を吸収し続けていたのだ。
その色素毒は、特定の代謝酵素がない場合、血液に乗って皮膚組織に沈着し、太陽光に当たると紫色に発色する、というわけだ。
「要するに、彼は生体内の色素排出機能が詰まっている状態。必要なのは、強力なデトックスと、酵素を活性化させる触媒よ」
エリゼは即座に調合に取り掛かった。
まず、毒素を吸着させるため、第1話で追放の原因となった『暗黒苔』の抽出液をさらに濃縮。次に、酵素活性を促す『氷晶石』を極細の粉末にし、水溶性の抽出液に安定剤として混ぜ込んだ。
完成した薬は、最初につくったものよりも遥かに純度が高く、泡立ちも少ない。しかし、色はより濃い、漆黒のゼリーだった。
その日の夕食後、エリゼはジークハルトの私室を訪れた。
「辺境伯様。お渡ししたいものがあります」
ジークハルトは書斎の椅子に座り、書類から顔を上げた。顔の半分を覆う紫色は、照明の下で禍々しい光沢を放っていた。
「ほう。私の『呪い』の正体がわかったのか?」
「ええ。呪いではありません。単なる難治性の色素毒中毒です。そして、これが治療薬です」
エリゼが差し出した小皿の上には、テカテカと光を反射する、不気味な漆黒のゼリーが乗っていた。
ジークハルトはそれを見て、眉をひそめた。
「……これは、毒ではないのか?」
その言葉は、まるでかつてカイル王子が私に投げつけた言葉のようだった。
「王都では『毒』と断罪されましたが、私にとっては究極のデトックス薬です。これを飲めば、あなたの体内に溜まった毒素は全て吸着され、翌朝には……」
「翌朝には?」
「体外に排出されます。ただし、排出されるものは、それはもう、おぞましい色と匂いでしょう。部屋にこもって、翌日は絶対に人前には出ないことをお勧めします」
エリゼは真顔でそう告げた。彼女にとって、薬の効能を隠すことは、研究者として最大の侮辱だった。
ジークハルトは、漆黒のゼリーと、それを真剣な目で見つめるエリゼを交互に見た。普通の貴族ならば、ここで怒鳴り散らし、エリゼを地下牢に突き落とすだろう。
しかし、彼は笑った。深く、自嘲にも似た笑みだった。
「面白い。呪いで死ぬなら本望だが、毒の中毒で死ぬのは御免だ。……分かった、飲もう」
ジークハルトは迷うことなくゼリーを手に取り、一口で飲み込んだ。
「う……」
彼は顔をしかめた。
「味は最悪です。苦味とエグ味と、それから微かに叫び声が聞こえるかもしれません」
「ああ、たしかに聞こえるな……。マンドラゴラの残響か」
ジークハルトは水を飲み干し、エリゼに言った。
「もしこれで私が死んだら、貴様の罪は王都でのそれよりも重くなるぞ」
「ご安心ください。死にはしません。せいぜい、トイレから出られなくなる程度です」
エリゼは満足げに頷き、実験室へと戻っていった。
翌日、ジークハルトは本当に自室に籠ったきり、一歩も出てこなかった。
執事のルーカスは心配でたまらなかったが、エリゼは平然と「大丈夫です。薬が効いている証拠ですから」と、薬草の世話を続けていた。
そして、その次の日。
辺境伯の私室のドアが、ゆっくりと開かれた。
中から現れたジークハルトを見た瞬間、ルーカスは息を呑んだ。
「へ、辺境伯様……?」
そこに立っていたのは、甲冑ではなくシンプルな服を纏った、長身の美男子だった。
長年の呪いによって変色していた顔の左半分は、完全に消えていた。
色素沈着は嘘のように消え去り、白く、均一な肌が露わになっていた。
鋭かった目つきは穏やかになり、以前の彼を覆っていた重苦しい「呪い」のオーラが消え、辺境の太陽のように明るい光を放っている。
「ルーカス、すまなかった。昨日は酷い一日だったが、気分は最高だ」
ジークハルトはそう言って、深く息を吐いた。
彼はそのまま地下室へと向かった。
「エリゼ!」
実験室で蒸留作業をしていたエリゼは、突然の呼びかけに振り返った。
「あら、辺境伯様。排出作業はもうお済みで?」
エリゼは蒸留器から目を離さず、平然と問うた。
ジークハルトは、エリゼの目の前まで歩み寄った。
「よく見てくれ」
エリゼはようやく手元を止め、彼を見上げた。
その途端、彼女の瞳が大きく見開かれた。彼には感情を読み取りにくいエリゼが、初めて見せた驚きの表情だった。
「……完璧ね。色素毒は完全に除去され、酵素欠損も活性化剤で補われています。完璧な治癒です」
エリゼは感激し、彼の顔の皮膚を魔法で拡大解析し始めた。治癒を心から喜んでいるというより、自分の理論の正しさが証明されたことに歓喜しているようだった。
ジークハルトはそんな彼女の頭を、優しく撫でた。
「感謝する、エリゼ。私は君を『辺境伯領の専属薬師』として正式に任命したい。そして、領民に君の薬の偉大さを知らしめるため、国境付近の商業区に、君の店を建てたいと思う」
「お店を? 研究費はいくらでも使っていいんですか?」エリゼは目を輝かせた。
「もちろんだ。私を救った君の知恵に、私は最大の報酬を払おう。君はもう、王都に追放された『毒婦』ではない。『辺境伯領の至宝』だ」
こうして、辺境伯の「呪い」は解かれ、エリゼは辺境で、最高の研究環境と、絶対的な後ろ盾を手に入れたのだった。




