第2話:呪われた辺境伯とスライム化粧水
馬車に揺られること二週間。エリゼが追放されたノースエンド辺境伯領は、王都の華やかさとはまるで違う、厳しくも美しい土地だった。
空は鉛色に重く、吐く息はすぐに白くなる。大地は雪に覆われ、巨大な原生林が広がり、時折、魔獣の咆哮が響く。まさに薬草採取には最高の環境――否、過酷な辺境である。
辺境伯の居城は、城というよりも堅牢な要塞といった趣だった。石造りの壁は黒く煤け、どこか荒涼としている。
馬車から降りた私を待っていたのは、辺境伯家の執事と、年配の女性メイドが一人だけだった。
「ようこそ、エリゼ様。私は執事のルーカスと申します。辺境伯様のご命令により、貴女の世話係を仰せつかっております」
ルーカスは慇懃だが、その眼差しには明らかな警戒の色が滲んでいた。無理もない。私は「毒婦」として追放されたのだ。
「ありがとうございます、ルーカス。部屋はどこでも構いませんが、できれば水場に近く、光の入らない地下室のような場所があると助かります」
「……地下室でございますか? 貴婦人が?」
「ええ。実験器具の洗浄と、低温保存が必要な薬草がありまして」
ルーカスは困惑しつつも、私を奥へ案内した。
そして、その夜。
私はこの辺境伯領の主人、ジークハルト・フォン・ノースエンド辺境伯に謁見した。
彼は噂に名高い「呪われた辺境伯」だ。最前線で国境を守る騎士団長でもあり、その武勇は伝説的だが、同時に恐れられてもいる。
「……エリゼ・フォン・ローゼン。貴様が、王都から送られてきた『毒婦』か」
部屋に入った瞬間、彼の威圧感に足が竦んだ。長身で、全身を分厚い甲冑で覆っている。
そして、その顔。
鋭い黄金色の瞳は精悍で美しいが、彼の顔の左半分だけが、ドス黒い、不自然な紫色に変色していた。それはまるで、皮膚の下に毒を飼っているような、禍々しい色だった。
王都では「古代の魔獣の呪い」だと囁かれていたが、私の目は違った。
(これは……呪いじゃないわね。明らかに特定の重金属系毒素の皮膚への蓄積よ。もしくは、何らかの生体色素が体内で異常発現している。興味深いわ……!)
彼の「呪い」の正体を目の当たりにし、私は興奮で胸が高鳴るのを感じた。
「お見苦しい顔を見て、気分を害されたか?」ジークハルトは低い声で言った。
「いえ。むしろ、興味をそそられました」
素直な感想が口をついた。ジークハルトの眉がぴくりと動く。
「……興味、だと?」
「はい。その変色は、魔法的な呪いというよりも、非常に難解な中毒症状に見えます。成分が特定できれば、治療法も確立できます。私の研究テーマに加えさせていただいても?」
私は目を輝かせた。彼にとっては侮辱にも聞こえただろう。しかしジークハルトは、しばらく私を見つめた後、深く溜息をついた。
「勝手にしろ。ただし、妙な薬で私の部下を害する真似は許さん。領内では静かに暮らせ」
彼はそれだけ言い残し、部屋を出て行った。
(やった! 研究許可が下りたわ!)
私はすぐに地下室にこもり、辺境伯の治療薬と、当面の資金源となる「製品開発」に着手した。
数日後。
私はルーカスに連れられて辺境伯の台所へ向かった。私の新しい実験室は地下室の横に作られたが、特殊な抽出作業には大量の水と熱源が必要だったからだ。
そこで私は、辺境伯の屋敷で働く唯一の女性メイド、ハンナと出会った。
「こんにちは、エリゼ様」
彼女は笑ったが、その手を見た瞬間、私の研究心が疼いた。
彼女の両手は、赤くひび割れ、指先は血が滲んでガサガサになっている。冬の冷たい水仕事と、乾燥した辺境の風が原因だろう。
(酷いわ。この炎症を放置すれば、そこから感染症を引き起こす可能性もある)
王都の薬では、こんな乾燥は治せない。なぜなら、王都の薬は「油分」を塗るだけのものが多いからだ。辺境の極度の乾燥には、もっと肌の奥まで浸透する「高分子の保水成分」が必要なのだ。
「ハンナ、ちょっと手が荒れているわね」
「ええ、慣れっこですよ。ここでは誰もがこうですから」
私は決めた。まずは彼女のこの手を治す。そして、それが私の薬師としての第一歩となる。
必要な素材を求めて、私は早速、辺境の森へと足を踏み入れた。
森は薬草の宝庫だったが、その中で最も豊富にいるのが、人々から忌み嫌われる**「水スライム」**だった。
プルプルと震える半透明の魔獣。ただの水と魔力の塊で、辺境の住民は「畑を荒らすだけの役立たず」として、見つけ次第潰していた。
私は一体のスライムを捕獲し、地下室の実験室に持ち帰った。
「よし、分析開始よ」
私はスライムを蒸留器にかけ、『構造解析』の魔法を発動させた。すると、スライムの体内に、目当ての成分が化学式のように浮かび上がった。
(ビンゴよ! なんて純度の高い『ムコ多糖類』。これ、完全にヒアルロン酸じゃない! しかも、この世界特有の魔力結晶体が結合しているおかげで、超低分子化が容易だわ)
私は風魔法を遠心分離機のように使い、不純物を除去。さらに水魔法で温度を下げ、極限まで高濃度に濃縮した。
数時間後。
小瓶に完成したのは、透明でトロリとした、匂いのないジェル状の美容液だった。
私は再びハンナの元を訪ねた。
「これを使って。私が辺境の素材から作った『保湿美容液』よ」
ハンナは不安げな目で小瓶を見た。
「スライムから作った」とは言わなかったが、その透明な粘り気が怪しく見えたのだろう。
「あの、エリゼ様。もしかして、また変な……毒、ではないですよね?」
「毒なわけないでしょう。成分は純粋な保水性高分子よ。試してごらんなさい」
半信半疑で、ハンナはそれをひび割れた手に塗った。
途端に、彼女の顔が驚愕に染まった。
「あ、暖かい……! 傷が塞がっていくような……」
荒れた肌は、美容液を猛烈な勢いで吸い込み、乾燥で縮んでいた皮膚が内側からふっくらと膨らんだ。赤みは引き、血の滲みは消え、数日分のケアを一瞬で終えたような状態になったのだ。
「まぁ! ツルツルだわ!」
彼女は自分の両手を凝視し、信じられないというように呟いた。
「一日三回、使いなさい。三日後には、王都の貴婦人より美しい手になっているわ」
ハンナは感動で涙ぐみ、「ありがとうございます、エリゼ様!」と、初めて心からの笑顔を見せてくれた。
その光景を、部屋の隅から見つめていた人物がいた。
辺境伯ジークハルトだった。
彼は毒婦として送られてきた女が、たった数日で、辺境の女性の長年の悩みを解決した事実に驚きを隠せないようだった。
「……毒婦、か」
彼は静かに呟いた。その顔の半分を覆う禍々しい紫色が、私の視線にさらされている。
(次に治すのは、あなたの番よ、辺境伯様。私の最高のデトックス薬で、ね)
私は心の中でそう決意し、新たな実験に胸を躍らせた。




