第10話:最強の薬師は辺境に骨を埋める
カイル王子が王位継承権を放棄し、王都の商業権益が辺境伯領の管理下に置かれてから、一年が経過した。
エリゼが開発した抗菌物質や栄養剤が王都に導入された結果、奇病は瞬く間に収束した。しかし、王都は「正規貿易価格」の薬代を払い続けることになり、その経済力と権威は完全にノースエンド辺境伯領に従属した。
カイル王子と聖女ミナは、王都の片隅で、静かに暮らしている。ミナの肌はエリゼの薬で完治したが、以前のような傲慢さは消え、静かに慈善活動を行うようになった。カイル王子は、二度とエリゼに逆らうことなく、自らの無知が国を傾けたことを、日々の生活で噛み締めていた。
一方、辺境伯領は、エリゼの研究室を中心に、さらなる繁栄を遂げていた。
『魔女の薬箱』は、今や世界最大の製薬会社へと成長し、その周辺には医療施設や研究機関が集積していた。辺境伯領は、王都の貴族が羨むほどの、清潔で安全、そして豊かな「知識の都」へと変貌を遂げたのだ。
エリゼは、新設された巨大な研究棟のバルコニーで、穏やかな冬の陽光を浴びていた。隣には、以前にも増して精悍さを増したジークハルトが立っている。
「見てください、ジークハルト様。あの蒸留器、私の設計通りに稼働していますわ」
エリゼが指さす先では、複雑な魔法陣が刻まれた巨大な蒸留器が、大量の薬草から有効成分を抽出していた。
「ああ。君が設計したものは、いつも完璧だ」
ジークハルトは、エリゼの手をそっと握りしめた。
「エリゼ。君が追放されてから、もう一年以上が経つ。だが、君は一度も王都を懐かしんだり、戻りたいと言ったりしなかったな」
「当然です。王都には『最高の研究環境』も『心から信頼できる理解者』もいません。私にとって辺境は、まさに天国です」
エリゼは、心からそう答えた。王都で婚約者だった頃、彼女は「毒婦」と罵られ、研究を邪魔された。だが今、彼女は「至宝」と呼ばれ、知識と情熱をすべて注ぎ込むことを許されている。
ジークハルトは、エリゼに向き直った。彼の瞳は、かつて呪いを帯びていた頃よりも、ずっと熱を帯びていた。
「エリゼ。私は、君の隣で君の研究を守りたい。そして、君と、この辺境で生きていきたい」
彼は、小さな箱を取り出した。中には、彼女が研究で愛用する『氷晶石』を加工して作られた、シンプルな銀の指輪が入っていた。
「私と結婚してくれないか。この辺境伯領を、君と私の『永遠の研究室』にしてほしい」
エリゼは一瞬、言葉を失った。
「……私で、よろしいのですか? 私は、愛だの恋だのよりも、薬草の成分分析に夢中になる、変わり者ですよ」
「それでいい。君が薬草に夢中になっている間、私が君に夢中になっていればいいだろう」
ジークハルトはそう言って、優しく微笑んだ。
エリゼは、その誠実な言葉に心を打たれた。彼との生活は、何よりも平穏で満たされている。
「はい、喜んで。貴方と一緒なら、この世界中の薬草を調べ尽くせそうです」
エリゼはジークハルトの手を握りしめ、プロポーズを受け入れた。
数ヶ月後、二人の結婚式は、辺境の領民と、隣国の要人たちによって盛大に執り行われた。
王都から祝辞は届いたが、カイル王子たちの姿はなかった。だが、もはやエリゼは彼らのことなど気にも留めない。
エリゼ・フォン・ノースエンド。
彼女は、悪役令嬢として追放された人生を、自らの知恵と努力で書き換えた。彼女は、王都の支配や復讐よりも、ただ純粋な「真実の探求」と、愛する人との「安息の地」を選んだ。
そして、その結果、彼女の辺境伯領は、やがて大陸全土の医療と経済の中心地となり、彼女は『辺境の賢者』あるいは『聖薬師』として、歴史にその名を刻むことになる。
ある時、エリゼは夫となったジークハルトに尋ねた。
「私、本当にこの辺境に、骨を埋めてもいいですか?」
ジークハルトは、彼女を抱きしめ、囁いた。
「ああ。君がここで研究を続ける限り、この辺境は、永遠に君の夢と希望で満たされるだろう」
その言葉に、エリゼは満足げに目を閉じた。彼女の傍らには、愛する夫と、彼女が愛してやまない薬草が、永遠にあった。




