八欠片目
寝苦しかった夜が終わり、山から日が顔を出す。その日が山から昇り切らない内に俺たちは身支度を整えていた。
朝餉を食し、いつの間にか洗濯してもらった服に着替え、玄関先で靴を履く。ゆっくり出来ていた昨日とは違って、流れる時間はいつもより忙しなく感じた。
「二人とも、いってらっしゃい」
「お世話になりました。また遊びに来ます」
「虫刺されに気を付けるんだよぉ」
引き戸を締めるその時まで、おばあちゃんは手を振って見送っていた。
「……じゃ、出発しよ」
声をかけてきた実里は、懐かしいワンピース姿に着替えていた。子ども時代以来に見るワンピース姿の実里。この近くの山で駆け回ってた頃を思い出す。
「流石に昔のじゃないよね?」
「うん。たまにおばあちゃん家に遊びに来てたから、これ買ったのもつい最近」
大して会話も続かない当たり前の言葉しか言えなかった。
目の前にいる女の子の表情に、あの頃の無邪気さはなかった。成長した姿は可憐なものであると同時に、どこか憂いを感じさせる。それが実里らしさがないように感じて、上手く話せなかった。
「そしたら、行くか」
その服を着た時から分かっていた。実里は懐かしむために昔と同じ姿をしている訳じゃない。俺達の過去に向き合うための正装をしているのだと、伝えているように思えた。記憶を取り戻す旅路の終わりは、きっとすぐそこまで迫っている。
※
家を出てから二時間。まだ俺たちは山の中を歩いていた。山を進むにつれて車道は狭くなって、アスファルトのひび割れも目立つようになった。ガードレールはツタが巻き付き、雑草が道の端を侵略する。やがて車で通れる道も終わって、気が付けば一人分の幅しかない道になった。
子どもの頃にやっていた、夏の冒険が再び始まった気がした。こんな状況で感じるのも変だけど、街から離れた場所を進む高揚感が蘇ってくる。
なのになぜだろう。胸の高鳴りが時折、ささくれた痛みになる瞬間があるのは。その違和感は一定周期で繰り返される。
好奇心か不安かも分からない鼓動に合わせて手足を振る。宝島を探索するみたいに、辺りの景色を目に焼き付けながら、草木を掻き分ける。土を踏む感触も、肌を撫でる葉の冷たさも懐かしい。
「前にも、一緒に通ったよな」
「うん。何回も通ったよ」
「あの頃はきっと、楽しかった、よな……?」
「楽しかったよ。本当に」
微笑みながら穏やかに実里は答える。嬉しい気持ちが湧いてきたが、いつもと違うその様子を俺は恐れた。しばらく沈黙したまま、実里と山道を歩いた。
それを何度か繰り返し、竹林のしな垂れた竹をどけながら進んでいた時だった。俺は思わず声を漏らした。
「あ」
目に映った光景を前に、指先が震える。
パチッ、パチッと。失くした筈の欠片が、頭の中ではまるような音がした。
「ヨルカズ、覚えてる? ここは――」
「ヒコウキ山」
気付けばその名前を口にしていた。
ヒコウキ山。それは道の横で盛り上がった小高いハゲ山だ。子供にとっては大きな山だった、ただの小さい丘。それは昔に俺が付けた名前だった。
「よく紙飛行機を飛ばして、俺と実里でどこまで飛ばせるか、よく競ってた……」
一つの記憶が目を覚ます。ある違和感と共に。
「でも、なんだ……? なにか、足りない」
おかしい、そう感じるまでに時間はかからなかった。この記憶が正しければ、辻褄が合わないのだから。
――紙飛行機を飛ばした記憶はあるのに、着地の瞬間を見た記憶がなかったから。
紙飛行機の飛距離を二人で競っていた。勝敗の数も数えてた。俺と実里は丘の上から一歩も動いていない。
なのに紙飛行機は見えないところまで飛んで行った記憶しかない。子どもの目線じゃ届かない遠くまで紙飛行機を投げていた。
整合性の取れない不可解な映像が再生され続ける。記憶の不気味なスライドショーだ。
当惑していると、実里は俺の手を引いて再び進む。
「行こう、ヨルカズ」
「実里?」
それ以上何も言わず、顔も見ないでスタスタと実里は歩いた。
「……うん。分かった」
道は彼女に任せて、忘れていた思い出を次へ進めた。記憶を思い出すまで俺も口を閉ざして。
雑草が伸び放題になった道の先には、乗り捨てられた古いトラクターがあった。
「さびさびカーだ……」
雨ざらしで茶色に変色した車体は、昔よりも朽ち果てている。触れば今にも崩れてしまいそうな鉄くずの塊になっていた。
かくれんぼの時、俺と実里で一緒に隠れてた。息を潜めて、運転席と助手席の下に体を入れたことを思い出す。そう、実里と隠れていた場所だ。
更に進んだ先に、林の中をドーナツ型でくり抜いたようにポツンと、腐りかけの切り株が一つ残っていた。
「イスの木……」
かごめかごめで使ったり、カブトムシ相撲させる台にして遊んでた。机にも、椅子にも、ステージにも、遊ぶたびに役割を与えた丸い切り株。雨水ですっかり表面はボロボロで、芯がスカスカな空洞になっている。
手繰り寄せられる記憶は一つ、また一つとセピア色のフィルムに色彩を呼び起こす。
林の境界が曖昧になった道を出て、次に短い草の生やす開けた場所が顔を見せた。敷かれた緑の絨毯に、恐竜の足跡のような石が埋め込まれている。
「ティラノの庭」
動けなくなるまで走り回った箱庭の大草原。変な石しかそこにはないのに、飽きもせずいつまでも遊んでいられた遊び場だ。足を一歩踏み出すと、靴裏からの感触が俺を十年前に連れて行く。
――走り回る俺の前で揺れる背中があった。
当時流行ってた女の子のアニメキャラが描かれたシャツだ。かけっこの時、俺はその背中に何度も触れた。
その背中は実里じゃない。昔から実里は足が速かったし、俺より背も大きかった。それに服も泥だらけだったはず。
奇妙な記憶の歪ひずみが正されていく。思い出が戻っていくにつれて、なぜか恐怖が滲む。背を撫でられるような恐ろしさ。理由は分からないけれど足が竦む。
「行こう、この先もうすぐ」
暗闇の中を歩くように、ぎゅっと握られた実里の手だけを頼りに足を出し続けた。目を伏して、世界から意識を遠ざけて、自問自答を繰り返す。その過程で、決定的な疑問を抱く。
――なんでこんな山奥で子供が遊んでいられたのか。それを考えた瞬間にモヤが僅かに晴れた。
「着いたよ」
思考がクリアになったと同時。木々で遮られてた日の光が瞳を焼いてきた。一瞬眩んだ視界はゆっくりと、元の風景を塗り直す。
「……ここ、だ」
その山の奥には古い一軒家があった。家はすっかり荒れて廃屋と化して、森に飲まれている。瓦は落ちて、トタンはさびさびカーのようにボロボロで、戸は傾いている。苔や蔦が伸びて壁面は緑色。何度も訪れた家の変わり果てた姿を前に、動揺を隠せなかった。
「っぁ……」
鼓動がかつてなく早まる。冒険の高鳴りじゃない。触れてはいけない、入ってはいけない所へ進んでいく怖さだ。踏み込むほど、足が重くなる。息苦しさが増していく。心臓が耳元まで上がってくる。ついには呼吸のやり方を忘れてしまいそうになって――
「大丈夫、私がついてるから」
手を包み込み、崩れかけの肩を実里は支えてくれた。砂の城のように落ちてしまいそうだった体は形を保たれる。
「ありがとう……連れてってくれ」
肩を借りながら、震えで覚束ない足を懸命に動かした。庭先を歩いてるだけなのに、綱渡でもしてるみたいだ。
フラフラな足で家の裏に回ると、山の終わりを目の当たりにした。
「ここ、って……」
開かれた風景。家の裏からは街の景色が一望できた。遠くにある母校や商店街も見渡せられる。数歩踏み出せば山は下り始めている。
「もうちょっと。あそこまで行くよ」
実里の指の先。目線を少し下ろした所に、寂しい墓地があった。崖の途中に作られた墓場は街を眺めるようにひっそりと佇んでいる。
墓地の端には崖下へ続く狭い道が続いていた。管理人がいるのか、墓は意外にどれも手入れが行き届いている。石の階段を慎重に降り、線香の漂う通路を渡って墓地の奥へと参る。石畳と砂利道をゆっくりと踏み締めて。
実里に導かれるまま進んだ果てに、俺は小さな墓の前につま先を向けていた。
「ここだよ」
冷ややかな汗の滴る首を、恐る恐る墓石に向ける。欠けていたピースの最後が、そこにないことを祈った。
だが墓石に掘られた名前を目にして、心臓は握り潰された。
「つば、め」
知っている。その名前を、俺は知っていた。知っていなければいけなかった。忘れてはいけない名前だった。
俺たちの大切だった夏の象徴。あの夏に置いて来てしまった夏のすべて。
「ここは、つばめのお墓」
虫食って空洞となっていた記憶のページに、霞んでいた暑い日の思い出が蘇る。
「私と夜千のもう一人の幼馴染、金橋つばめの眠ってるお墓」