六欠片目
日が山の向こうへ沈んでも、茹で上がりそうな暑さは目を開いたままだった。肌に張り付く汗と湿気を気にも留めなかった子供時代を今ほど懐かしんだ日はない。
ひぐらしも鳴かないほど蒸された夏の山は押し黙る。夜空に昇った星だけが冷たく散らばっているようだった。
街から離れた山へ続く道をしばらく進んだ先でようやく、俺達は古民家の前まで辿り着いた。くたくたになった体で最後の力を振り絞り、鍵のない引き戸をガララと開ける。
木造と線香の香りに丁寧に張り替えられた障子。昭和っぽい懐かしさを残した家。その奥に向かって実里は声を掛けた。
「おばあちゃん久しぶりー!」
「実里、おかえり」
割烹着姿の実里のおばあちゃんは嬉しそうに俺たちを迎えてくれた。長いこと会っていなかったが、元気そうで何よりだった。
「かずくんも。何年振りかねぇ」
「お久しぶりです。俺は……中学校以来? ですかね」
「早いねぇ。背も高くなって、大きくなったねぇ」
まるで自分の孫のように、実里のおばあちゃんは俺の頭を撫でる。皺の刻まれた小さい手はぽかぽかと温かい。
「ささ。お風呂湧いとるから、ご飯前に入ってきなさいな」
「うんっ! 荷物置いたらすぐ入るね」
「部屋は準備してるから。くつろいでいきなさい」
丸まった背中に案内されて、俺たちは二階の部屋に通された。この家へ遊びに来たらいつも泊まっていたことを階段で上がる中思い出した。
※
「ここは昔のままか。やっぱり畳は落ち着く」
実里が風呂に入っている間、俺は部屋で適当に一人過ごした。
テレビもWi-Fiもなく、漫画本は小さい頃でも古かった昔のものが本棚に並んでいる。それでもゆったり時間が流れるようなこの部屋は好きだった。
畳に転がって、俺は自分のスマホを見つめる。普段は写真なんて撮らないせいか、フォルダの中は今日だけで半年分以上の写真が収められていた。
実里に促されて撮ったものから、こっそり撮ったもの、二人で記念にと撮ったもの。今日に詰め込んだ夏の思い出を一枚づつ切り抜いてメモリの中に刻まれていた。
ギャラリーをスクロールしていると、次第に煮物や焼き魚の匂いが上がってくる。田舎のおばあちゃんらしい料理の香りだ。
昼間も結構な量を食べたものの、動き回ったせいかまだ腹が減る。すぐにでも白飯を山盛り食べたい気分だ。
夕食を想像して唾を飲み込んでいると、廊下からひたひたと足音が近付いて来た。
「お待たせ、ヨルカズ」
「ああ、気にしな――っ!」
振り向いた途端、思わず動きが止まってしまった。部屋の前では風呂上がりの煙を纏った、パジャマ姿の実里が部屋の前に立っていた。
紅潮した頬に、濡れたままの髪の毛、白く透き通った首元。風呂上がりの姿なんて散々子供の頃に見た筈なのに、今ではそれをまともに直視できない。
ただ目をそらした理由はそれだけじゃない。シャツにハッキリと胸の輪郭が浮かび上がっていたからだ。川で遊んだ時よりも目で見て分かりやすい。昔は無かったその曲線に、心臓が急に騒ぎ出す。
「どうかした?」
「むっ、ふく……いや、何でもない」
「んん?」
「そ、そろそろ晩飯出来ちまうよな。俺も風呂行ってくるわ」
「ちゃんと体洗いなよ~」
自分の爪先だけ見るようにして、足早に脱衣場まで向かった。
※
「ふぅ。さっ、ぱりしたぁ……」
熱い湯に煩悩と疲れが洗い流される。今時滅多にお目にかかれない五右衛門風呂へ布団を掛けるみたいにスッポリ肩まで浸かる。血管がじんわり広がっていくにつれて体もほぐれた。
昔は実里と二人で入ったこの湯舟も、今ではすっかり狭くなってしまった。パシャパシャ泳いでたような記憶もあるが、気付けば一人専用に変わってた。溶けた頭はぼうっと湯船に思い出を浮かべていたが、すぐに意識は現代に引き戻される。
「実里が、さっきまで入ってたん、だよな」
たった数分前、実里が入っていたお湯に俺は体を浸けている。全身を包むこの熱がついさっきまでは実里の体を包んでいた。その事実一点が強く脳裏を支配している。
湯が四十度以上あるせいか、頭に熱が昇っていく。血管が更にキュッと縮まるこの感覚。記憶喪失してしまった脳には深刻なダメージを与える刺激だ。急いで頭を冷やそうと深呼吸を繰り返した。
「一緒に入ったこともあんのに、なんで今更……」
心臓以外の音が消え、視界が徐々に狭まる。熱された頭のピントはやがて、水面の境界を越え始め――
「実里ぃご飯できるよぉ」
「おわぁ!?」
風呂場の扉は開け放たれた。真っ赤になった間抜け面の俺は実里のおばあちゃんと顔を合わせる。反射的に湯に沈めたおかげで、俺のプライバシーは辛うじて守られた。
「あら、かずくんだったかえ」
「みみっ、実里なら、今は部屋に……」
「そうかい、出っとったんやねぇ。これはお邪魔したねぇ」
ホホホと軽快に笑っておばあちゃんは戸を閉めた。
まだ心臓は落ち着かない。緩急に追い付けずに鼓動を早く打つ。
「あ、せった……」
それ以上は胸がもちそうになかった。きっとのぼせたんだろう。
一向に冷静にならない胸に従って、俺はそそくさと風呂場から上がった。