一欠片目
空が溶けて、星も溶けて、夜が明るくなった。
真っ暗だった空が鮮やかに、昼の空へ変わる。星は流れて、月も漂って、無数の光が虹色の軌道を描いていた。
その宇宙は遠くまで広がってるのに、手を伸ばせば触れられてしまいそうなほど近い。希釈された時間がゆったり、ゆらゆらと、揺蕩う。
――これは記憶なのか、夢の中での出来事なのか、現実かも分からない。けれどただ一つ、確かなことがあった。
どんなに暗くても、明るくても。星が降っても、真っ白に溶けても。夜が終わっても、始まっても。
……俺の両手は、いつまでも温かいままだった。
※ ※ ※
「急に飛び出したのはごめんだけど、どうかお願い！」
スマホ越しに渋い顔で実里は父親に頼み込む。音声通話だというのに表情だけで話の内容が伝わってくる。
「一緒に行くのカズだけだし、泊まるのはおばあちゃんちだから」
その様子を木陰のベンチで涼みながら眺めていた。連れられるまま近所の公園まで走ってきて、脳はとっくに茹で上がってる。息の調子が戻るまで実里と空を目で往復した。
「……うん、大丈夫。ありがとパパ」
神妙な面持ちで電話を切ったかと思うと、仮面を脱いだように実里の表情は晴れる。
「カズ～！ オッケー出たよー！」
「あれで本当に了承出たんだ……」
この謎の行動力とバイタリティだけは尊敬する。途中過程を吹っ飛ばす癖がなければの話だけど。
意気揚々になった実里はシャツの両横を引っ張って俺を立ち上がらせる。
「さて、うちのパパからも許可出たことだし、冒険にしゅっぱーつ！」
「おじさんは良くても、おばさんがなんて言うか……」
「大丈夫だって。そこもパパに任せたから」
「だからだよ。おじさん、思いっきりおばさんの尻に敷かれてんじゃん」
たしかにそうだね、と他人事のように実里はケラケラ笑っていた。娘からもこの扱いなおじさんが不憫でならない。
ただ電話越しに話は決まったらしいが、肝心の俺にはここまで一切説明がなかった。
「でも飛び出してきて、これから何するんだよ？」
「まーまーそう慌てずに」
「記憶を思い出させるなら、話を聞くだけでも……」
「だーめ！ 下手に話すと上書きされちゃうかもでしょ」
「どういう原理だよ。まあ記憶喪失の俺が言えたことじゃないけど」
「百聞は一見に如かずってやつだよっ。体験を通じて記憶を取り戻すの」
「具体的には？」
「あるとこ目指して探検に行きます！ その途中で小さい頃やってた遊びとか、夏っぽいこと沢山しながら向かうの」
「子どもじゃないんだから……え、マジに言ってる？」
「うん、まじまじ」
実里の目は本気の目だ。本気でふざけ倒す時の目だった。散々痛い目を見てきたから確信できる。
抵抗しようか一瞬躊躇った。その隙を実里は逃さない。幼馴染の女の子に純粋な力で敵わないのは男として少し恥ずかしかった。
「そうと決まったら行くよ」
「強引なっ。おまえ昔からそこは変わんないよな！」
「あはっ、よく覚えてんじゃん」
「覚えてるから良いって話じゃないからな！？」
「いーじゃんこまかいことは、さっ！」
日差しの下で踊るように腕を振り、実里は突然のラリアットを食らわせてきた。手加減されてたものの、奇襲攻撃には俺の首も耐えられない。酷く咽て力が抜けていく。
ダメージで情けない声を漏らす俺に腕を回し、流れで肩を組んだ実里は微笑みかけた。悪ふざけも帳消しにしてしまう無垢な目を向けて。
「さ、あたし達の夏を取り戻すんだよ」
先は見えない、何をするかも分からない。けれど訳もなく鼓動が早くなって、走り出したくなる衝動が溢れて来る。
夏の熱気に浮かされたか、走らされ過ぎて酸素が届いてないのか、胸の音はうるさくなるばかり。
今日は本当に体調がおかしいのかもしれない。実里の身勝手に振り回される度に脈がこうも速くなるのだから。
ただ心臓の音が世界の立てる音を掻き消して、鼻の感覚を呼び覚ましている。
額の汗、焼けた砂、風に乗る山の葉、少女の髪から漂うシャンプー。足を地に着ける度にその香り達が俺を突く抜けていく。
それは幼少期に置いてきてしまった、夏の冒険の香りがした。
