十二欠片目
火に抱かれているように、全身が熱かった。鼓膜が膨らみ、手足の感覚は蒸発して、世界がぐるぐる回る。息を吸っても肺は酸素を受け止めず、視界はノイズの走ったグレーなフィルターがかかる。
「先生、意識が朦朧としています!」
「すぐに呼吸器と点滴を!」
つぎはぎの意識はストレッチャーの上で少しだけ呼び戻される。それでも長くは持たなかった。再び視界は真っ暗になって、遠くからくぐもった音が響いてくる。
「大丈夫ですか! 楠木さん聞こえますかー!」
その声を最後に、意識は藍の空に沈んだ。
※
空が溶けて、星も溶けて、夜が明るくなった。真っ暗だった空が鮮やかに、昼の空へ変わる。
星は流れて、月も漂って、無数の光が虹色の軌道を描いていた。その宇宙は遠くまで広がってるのに、手を伸ばせば触れられてしまいそうなほど近い。希釈された時間がゆったり、ゆらゆらと、揺蕩う。
――これは記憶なのか、夢の中での出来事なのか、現実かも分からない。けれどただ一つ、確かなことがあった。
どんなに暗くても、明るくても。星が降っても、真っ白に溶けても。夜が終わっても、始まっても。
……俺の両手は、いつまでも温かいままだった。
ようやく、その光景の正体が分かった。
ここは水族館だった。あの時テレビでやっていて、つばめと約束した水族館。果たせなかった約束の記憶、俺の罪の意識そのものが作り出した幻想だ。
あの高熱はただのきっかけ。命の危険を感じた俺の脳はきっと、辛い記憶であるつばめの過去を頭から消し去ってしまったのだろう。それに抗うように、俺の中の俺自身を責める意識が、この光景となって頭の中で過っていたんだ。
「……つばめ、ごめんな」
幻の中で、水槽のガラスは海水に溶けて消える。俺の体は冷たくて優しい、水泡と光に包まれて海に浮かぶ。魚やエイが泳ぐ深い海で、地面のなくなった道を漂うように進んでいた。
『いいんだよ、カズくん』
「――っ!!」
記憶の彼方にあった声が、ぼやけた頭の中に響く。おぼろげだった音の記憶、夏に置いてきた匂いの記憶が、これまでにないほど色濃く、色彩となって蘇った。
「つばめ……? つばめ、そこにいるのか?」
『うん! ずぅっと、見守ってたよ』
死んだつばめの声が鮮明になっていくに連れて、俺は夏の終わりを悟った。
罰か救済かは分からない。けど約束はしっかり守らなきゃいけないと思った。
「……そっか。デート、まだだったもんな」
『――うん!』
目の前の暗闇に泡が集まって、輪郭がはっきりし始める。深淵から浮かび上がったシルエットを前に、俺は目を疑った。
「つば、め?」
『久しぶり、カズくん』
「ちが、う。そんな、訳は……」
つばめの顔は、絵の具で白く塗り潰されていた。口元は笑っているのが見えたが、鼻から上はどうなっているのか全く分からない。まるで見せたくないみたいに、つばめの眼差しが隠されている。
幻想ならこの瞬間に書き換わる筈だ。記憶のタガならとっくに外れてる筈だ。
「そんな、おかしい……つばめの顔は、思い出したのに。声も姿も、記憶ならちゃんと――」
この期に及んでまだ心は罪から目を背けているのかと、自分を憎んだ。今際の際ぐらいは潔くなれよと、自分へ呪いを吐き捨てる。
それでも白い絵の具は塗られたまま。つばめは顔を隠している。
『まだ一つ、大切なものを忘れてるからだよ』
微笑みかけるように、泣くのを我慢するように、つばめは言葉を紡いだ。
『思い出して、カズくん――』
つばめの声は、水中のくぐもった音に包まれて、深い深い意識の海底まで沈んでいった。