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十欠片目

 つばめの訃報を知った時も、葬式に参列した時も、目に映る全てが信じられなかった。俺の時計の針は壊れて止まった。

 つばめを拒絶してしまうような言葉で突き放してしまった後悔が胸を侵した。息の吸い方も忘れてしまっていた。

 つばめと交わした最後の言葉が、あんなものになるなんて思いもしてなかった。


 心が壊れるのには十分の理由だった。

 つばめが死んでから、どれだけ泣いただろう。どれほど悲しみに暮れただろう。流す涙も、呻く声も、自分が出したものかさえ分からなくなってしまうほど、絶望の味を食らい続けた。

 そこから人生の何もかもが楽しくなくなった。サッカーも、ドッジボールも、ゲームも、勉強も、遊びも、心を埋めてくれなかった。泣き続ける自分の声が、常に頭の中で響いていたから。


 高学年に入った頃には、学校にもロクに行かなくなった。

 あれ以来、人を傷つけることが怖くなって、人と関わらず距離を作ることにした。また自分のせいで不幸を生むと思ったから。失うことが怖い、奪ってしまうことが恐ろしい。つばめを傷つけた自分を許せなかった。

 高熱から目を覚ました時、家族と実里以外に見舞いに来なかったことが何よりの証拠だろう。


 そんな空虚で浅ましく過ぎていった日々が俺の、楠木夜千の半生。


 「――それが、俺の失った記憶。俺の……忘れてた罪」


 失った記憶を取り戻し、俺は絶望を添えてそれらを再び飲み込もうとした。ひっくり返った胃の中身を飲み下す。吐き戻して楽になるなんてこと、記憶の戻った今では考えらえなかった。忘れていた最悪な自分を少しでも苦しめたいと思った。


 「辛い事を思い出させたよね。ごめん。でも、忘れてちゃダメな記憶だと思ったの」

 「ああ、そうだよな。俺が最低な男だってこと、忘れてるわけにはいかないよな……」


 衝撃は受け止め切れていない。ただそれは受け入れ、傷を開くべき痛みということは分かっていた。

 だから蘇った記憶を繰り返す頭を止めはしない。漏れそうな嗚咽を抑え、痛む胸を押さえない。その苦しさを罰として受け入れることで心を保った。

 泣く覚悟は出来ていた。のに、実里は俺の涙を拭って、痛みから意識を逸らさせた。


 「――どんなにカズが酷い人間でも、私の方がカズより最低だよ。だから、安心して」


 頬に触れた実里の手は太陽のようだった。その慈愛の意味が理解できなかった。


 「なんで、だよ。実里、俺のことなんて庇わなくて――」

 「カズがまだ思い出せてないことがあるの」

 「……まだ、思い出せてないことが?」

 「うん、これよりもっと大切な事。辛いと思うけど、頑張って」


 そっと俺の手を握りながら、実里は残された俺の過去を語り始めた。


 「これはカズが、また歩き始めるまでの記憶。そして許されない、あたしの罪――」


 ※


 中学に入学しても、カズの心の傷はまだ癒えきってなかった。

 不登校になった日からあたしは心配で、放課後はいつもカズの家に行ったり、近所の駄菓子屋さんや食堂まで連れてった。五年生からはそんな毎日だったの。


 ただカズはそんな中でも頑張って、ちょっとづつ外に出れるようになった。過去と今をちゃんと見ようって。そして前を向き始めようとして、初めてここへお墓参りに来たの。三年前の夏、学ランを初めて着た日に。


 「……つばめ、遅くなったな。ごめん」


 苦しそうな顔で、涙をグッと堪えながらカズは手を墓前に合わせてた。


 「つばめ、きっと喜んでくれてると思う」


 これでやっとカズが帰って来るんだって、あの元気で楽しそうにするカズの笑顔が見えるんだって考えてたの。


 ここから少しづつでも、またカズの時間は動き出す。そんな風に思えた頃だった。


 「おい、なんだ、今更なにをしにきた」


 汚れたみすぼらしい恰好をした中年の男の人が、振り返ると仏花を持って立ってた。


 あたしは一瞬、それが誰か分からなかった。無精ひげを生やして、狸のように大きく出たお腹、鋭く吊り上がって血走っている目。鬼と見間違える風貌の人。それは変わり果てたつばめの父親だった。

 朗らかな笑みを浮かべていた当時の面影なんて、まったく残ってなかった。


 「おじさ――」

 「ふざけんじゃねぇ!!」


 カズを見て真っ先に飛び出したのは、恨みつらみを込めた怒号だった。


 「おい、クソガキ。どの面下げて来た……どの面下げて! 娘の墓見に来たって聞いてんだよッ!」


 萎縮したカズの胸倉をおじさんは掴んで締め上げた。手を引き剥がそうとあたしが割って入ったけど、大人の全力に敵う訳がなかった。


 「止めて! おじさん落ち着いて!」


 一向に怒りは収まらなくて、おじさんはあたしを突き飛ばしてからカズを乱暴に揺すった。カズもあたしも、体が強張って動けなかった。


 「お前があの日、娘と出掛ける約束を断ったと聞いた。つばめはショックを受けて、仕事から帰った俺に何十分も泣きついてきたッ!」


 修羅の形相だった。鬼の目には涙が浮かび始めて、おじさんは唇を震わせてた。


 「そのせいだ! 泣き疲れた娘は、夜に高熱を出した。氷で冷やして、朝になったら病院へ連れて行こうと思って、翌日布団まで見に行ったら……つばめは息をしてなかった」

 「へっ……」

 「あの日は、寝苦しい夜だった。エアコンもない家だ、氷もあの後に溶けてしまったんだ。あの日でなければ……」

 「じゃあ俺が――つばめを殺した?」


 今にも命が消えてしまいそうな絶望に塗られて、カズは言葉を失ってた。次第に涙が溢れて、嗚咽して、顔が歪んで、胸の張り裂けそうな声を上げるようになった。


 「娘を死に追いやって、これまで一回も墓参りに来ないで……それで今頃になって、てめぇの女と顔見せに来ただ!? 舐めるのも大概にしろクズ野郎ッ!!」

 「ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、おれのっ、おれの、せいで……ごめんなさい」

 「てめぇが謝ってもつばめは帰ってこねぇんだよ! 少しでも謝りてぇんなら、舌噛み切ってここで死ね!!」

 「ごめんなさい、死にます……死んで、謝ります……」


 カズが殺されてしまうと思った。いや、それ以上に苦しめられるカズを見ていられなかった。

 私は近くにあったお墓の水桶で、力一杯におじさんを殴った。


 「うっ、ぐ……!」


 額に桶をぶつけられたおじさんは怯んで大の字に倒れた。額は割れて血が滲んでいた。

 女子中学生が激高した大人の男を止めるにはそれしかなかった、なんて言い訳をするつもりはない。


 「クズはどっちよ……いい加減にしてっ!」


 この時にはもう、あたしの理性もブレーキが効かなくなってた。


 「ヨルカズがどれだけ苦しんだと思ってるの!? つばめに酷い事言ったって、何年も苦しんで、今ようやく辛い過去と向き合おうとして、それなのに……」

 「なんだと? そんなこと、関係あるか、こんなクズは苦しんで当然だ。娘の、人の命を奪っておいて、なにを……」

 「まだ小さかった子どもの言葉よ。それにカズだって傷つけるつもりなんてなかった……たとえそれが本当につばめが死んだ理由だったとしても、ここでアンタがカズを責めて良い理由になんてならない!」

 「じゃあ娘は、ガキに殺されたから仕方がないっていうのか? 悪気がなかったから傷つけて良いのか。それで人が死んでものうのうと生きて幸せになれるってのか!」


 あたし達はお互いに正しかったのかもしれないし、間違っていたのかもしれない。そもそも答えなんて本来なかったかもしれない。でもあたしもおじさんも、それを認められるだけの余裕なんてなかった。

 そしてあたしは、うずくまって泣いて苦しむカズを助けることで必死だった。丸まった背中を抱いて、おじさんを睨んで威嚇した。


 「カズを見て、まだそんなこと言えるの? 彼は今、しっかり過去と、罪と向き合おうとしてる。苦しんで、償おうとしてるから、生きようとしてるのよ」

 「ガキなんかに、一人娘を失った親の何が分かる!」

 「子どもを罵倒して、傷つけて、手を出して……あたしが止めなきゃ、カズのこと殺しそうだったでしょ? ――死んだ方が良いのはどっちよ」


 カズを傷つけたおじさんに向けたのは、醜いあたしの憎悪だった。


 「あの日、熱が出たならなんで、つばめをすぐ病院に連れて行かなかったの? 朝に連れていこうと思ってたなんて、馬鹿じゃないの!?」

 「こんな田舎の病院は夜になんてやっていない。つばめの体力も消耗してたんだ、連れ出せたわけが――」

 「だったらこんな山奥、病院にもすぐ連れてけない所にいつまでも住んでたの? 奥さんが亡くなっても生活を変えようとしないで!」


 私は知っていた。そこが生前の奥さんと一緒に過ごした家ということも、つばめの治療費を貯めるために住み続けていたことも。お金を稼ぐために辛い土木作業をして、過労になる手前まで働きながらつばめを育てていたことも。

 けれど、それを慮ることができるほどの余裕が、あの瞬間は蒸発してしまった。火の着いた導火線は最悪へ辿り着いてしまった。


 「そんなことも分からない馬鹿だから、つばめを死なせたんでしょ!!」


 言ってしまった。怒りに任せたとしても言ってはいけない言葉を、私はおじさんに投げつけてしまった。妻に先立たれて、愛する娘も失ったおじさんはどれだけ辛かったんだろうと、気持ちを汲むことが出来なかった。


 静寂が訪れて、あたしは自分が何を言ったのかやっと自覚した。そしてこのまま自分も殺されると思った。

 けれど怒りに満ちていたおじさんは火が消されたように、ふっと声を軽くした。


 「そうか、俺は……俺を憎めば良かったんだな」


 それだけ言い残して、何も言わずおじさんは立ち去っていった。力なく歩いてく姿は、心を失った幽霊のようだったことを覚えてる。



 ――次の日、おじさんは首を吊っているところを発見された。


 あの日のヨルカズは悪くない。つばめの死は事故だったと、あたしは思ってる。誰の生でもない、仕方ないことだった。

 でも私は違う。ヨルカズを守ろうとして、明確な悪意を持っておじさんを傷つけた。奥さんと娘を失った一人ぼっちの男にあたしは、鬼でも言わない最悪を吐きかけてしまった。


 あたし自身が、あの言葉がつばめの父親を、金橋修一を殺したんだ。

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