第5話 揺らぐ日常
月曜の朝。
教室のドアを開けたとき、普通に「おはよ」と声をかけてくれたのは由佳だった。
昨日までと変わらない笑顔――のはずなのに、胸の奥がざらりと波立つ。
……ん?
由佳の、髪の長さって……こんなだったっけ。
肩まであったはずが、今日は鎖骨の辺りで跳ねている。
いや、違う。そうじゃない。問題は、髪を切ったことを――私は知っていたはずなのに、その記憶がない。
「どうしたの、ぼーっとして」
「あ、ううん。髪、切ったんだね」
「先週言ったじゃん。“テスト終わったら思い切って切る”って」
由佳は笑って席に着く。
私だけが“それ”を思い出せない。
午前の授業は上の空だった。
ノートを取る手が滑って、ページの端に赤い絲のような線を引いてしまう。——いや、あれは実際に浮かび上がった。机の中の短刀が、うっすらと温度を放っている。
……何かが、起きる。
そんな予感が、背骨の辺りに冷たく絡みつく。
放課後。
由佳を誘って駅前のカフェに寄った。少しでも“普通”を保っていたかった。
フローズンを飲みながら、どうでもいいアイドルの話で笑い合う。それがどれほど大事で、どれほど脆いか、今ならわかる。
窓ガラス越しに見えるのは、スーツ姿の人混みと、黄昏のビル街。
——その中に、ひときわ背の高い女の姿があった。
真紅のドレス。日傘を差しているのに、その肌は雪のように白い。
吸血鬼だと、直感した。
女は通行人に微笑みながら、すれ違いざまに指先で相手の耳に触れる。
触れられたサラリーマンが、そのまま足を止め、視線が虚ろになる。
「……由佳、ごめん。先に帰って」
立ち上がると、由佳が目を丸くした。「何? 部活?」
答えず、カフェを飛び出した。
雑踏を抜けると、女の影は路地に消えていた。
そこに漂っていたのは、甘く腐った匂い。そして、足元で倒れているサラリーマン。
首には小さな赤い痕が二つ。
「おせぇな」
背後から蓮の声。
「狩られてんのは血だけじゃない。“意志”も抜かれる」
その瞳は鋭く、路地の奥を見据えている。
「放っとけないでしょ」
「わかってんじゃん」蓮はごく小さく笑い、刃を抜いた。
路地の奥、紅いドレスの女が振り返る。
唇に触れていた指先が、血を一滴、地面に落とす。
「……血脈断刀。懐かしいわね」
女は滑るように足を運び、月光の差し込む場所まで来ると、赤い瞳を細めた。
次の瞬間、視界が霞むほど速い動き。
蓮が前に出るが、その腕すら紙一重で擦られて血が滲む。
空気が甘く重くなり、頭がぼんやりしてくる。
——吸われる。
私の中の何かが、彼女の目に引きずり出される。名前。顔。記憶。
「記憶を喰う吸血鬼……」
呟いた瞬間、ポケットの刀が熱く膨張した。
刃を抜き、女の腕に押し当てる。
空気が裂け、紅い絲が彼女の肌から離れ、宙に散った。
女の赤い瞳が、一瞬だけ子供のように怯えた色に変わる。
その隙に蓮が踏み込み、血脈を断つ。
女は灰になり、静かに崩れ落ちた。
残されたのは、路地の匂いと、私の胸の鼓動だけ。
「……危なかったな」蓮が軽く笑う。
「うん。でも」
言いかけてやめた。
由佳の髪の長さを思い出そうとした瞬間、また頭が霞んだから。
翌朝、由佳は学校を休んだ。そして私は、自分の机に置かれた一通の手紙を見つけるのだった。
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